ニーチェ「やっぱり神様なんていなかったね」 これ以上の哲学者の名言あるか? [725779298]
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「毎日が同じことの繰り返し」そんな退屈な人生が激変する"ニーチェの画期的なメソッド"
"永遠に繰り返したい一瞬"をどれくらいもてているか
https://president.jp/articles/-/57262?page=1 無脳、痛いやつ、中二
キリストはすでに死んでいるし、民間から神が離れるのは啓蒙思想で経験済み >>564
というか宗教はそういうものだからね
昨日最初の方でレスした内容に関係するけど
個人的には悦びなき哲学に意味があるのか果たして疑問だわ >>563
「揚げ足とり」じゃあない
信仰者一般と、ひとりの信仰者、この違いはわかりますか?
あなたの主張は信仰者としても幼稚だし、ロジックも弱い
たしか昨日だか「キリスト教批判するからには、実際の人物像を批判されてもしかたない」
とか言ってる幼稚なやつがいたが、もしかして君?w >>566
> 民間から神が離れるのは啓蒙思想で経験済
啓蒙思想によって「民間から神が離れ」たのではなく、当時の西ヨーロッパ社会で
市場経済の劇的な伸張によって従来の社会秩序が解体され、再構築される過程で、後追いで
「啓蒙思想」というものが出現したんであって
日本の教育のこわれっぷり、やばい 俺が神だよまだ神としての能力が目覚めてないだけ
もうちょっとだけ待っててくれよな >>568
風が吹けば草は風に流されるがまま揺れるがまま
俺にイラつくと書いてた君はそれと一緒なわけさ
心の中に吹き荒れる風にただ流されるがままであって
その意味で言えば俺から見れば君は植物と何ら変わらない
心の中に吹き荒れる風に流されるまま議論()に関係ない下らないやり取りを吹っ掛けて来てるしね
こういうのをニーチェがなんと表現したか君なら分かるんじゃないかな 物の世界は外部への展開であって
内への展開である精神的発展は記述できない
ニーチェで言えば奴隷道徳であるはずなのになぜいつまでも終わらないどころか
それが世界を支配したのか
こいつには無理な議論
唯物論にも無理 “メロリン、キューーッ!”
シャルル・ド・モンテスキュー 俺の態度に自動的に怒るというのは言葉を変えれば俺にコントロールされたという事
このような自らの意志を放棄して環境に流されるがままに生きる態度のことをニーチェは何と言ったのか
きみたちなら多分分かるよね 過剰に否定してる奴ほどちょっと信じてるイメージだわ
俺は疑り深いから言葉をそのまま鵜呑みにしない
「いるかもしれないね」くらいの温度のやつのほうがむしろ実は神の否定に近い >>373
繰り返しになるが俺は一信仰者としての立場からレスしている
つまりキリスト教には三位一体という内的世界と外的世界を結びつける構造があるゆえに
俺のレスはその構造を踏まえた内容になるという事だ
ただそれだけの話 なんか俺ってメッチャタチ悪いねw
ごめんね自粛するよ
面白いスレだから残念だけどROMに回るわ ここ数年でいくつか哲学書読んだ結果こういうスレで何も書けなくなった 真の肯定を知らないのがニーチェ
然り然りの連続はただの単調な無限
それを肯定することは精神の捨象
それで実際発狂してるんだから世話ねーわ まあ誰がどう否定しようとも人類は神を造り出すからね
時代、人種、思想を超えて人は神を造り出す
何度も何度も神を殺そうとも神は何度でも甦る、人類が居る限り神は不滅の存在
名を変え、形を変え、持つ意味が変わっても常に人の上に立ち支配し続ける絶対者 >>314
えーと何とかは語りとかは聖書を真似した文学みたいに語る
末人である嫌儲民にツァラトゥストラは私の愛する者はと
ネトウヨが喜びそうなこと言うから爆笑
あと唐突に女差別も爆笑 >>233
私の愛する者は己の徳で多くの徳を持つものは嫌いだからなw
ラクダから獅子で幼子も創造のためとかほざいているけど
クソガキのように何でもありでヘイトしそうだなw スマンROMると書いたけど書き込ませてくれ
ニーチェが実践できたかは別として
信仰者から見て駱駝→獅子→幼子の精神的発達段階は正しい
まさにその通りでちょっと感動した 神がいないとしたら何で世界はこういう謎の法則にのっとってるの?物が力によって動いたり結合して変化したりさ、DNAの形状が異様に綺麗だったり、他にも色々と規則的すぎてもっと不規則、混沌としててもいいはずなんじゃない? >>586
幼子は無垢で遊戯でおもちゃを壊すように
「汝なすべき」という自由を阻害するものを忘却させるんだな
婉曲に宗教の規範でも批判しているんだろう
ぼけ老人と一緒にしてはいけないw 人間はこの世界で生まれてるからこの世界が規則的で何かすごい力で創造されたんじゃないか?って思ってしまう
人間にとってこの世界が都合よく感じるのは当たり前の事だ
しかし他の世界から見たら我々の世界の法則はちぐはぐでDNAなど個々の形不揃いで混沌とした世界に見えるかもしれない
特別である、特別じゃなければおかしい、特別に違いない、と言うような偏った視点では物事の本質を考えることは出来ない >>588
上で自分という人間の中に自分と神がいるみたいなことを書いたが
その自分の中に居る自分が幼子となって
自分の中に居る神(=外的神=キリスト)に従う感じだな
いったら父に従順な幼子のイメージよな
つまり「汝なすべき」という父の言いつけに幼子の様に「素直に従えるようになる」のが
神との和解なんよな
上で神と和解するためには神が敵どころか自分を導くものであると気づかねばならないと書いたのもこういうことで
無理やり素直に従うわけではなく神が自分を正しい場所に導く父の様な存在であると確信するからこそ
神の「汝なすべき」に幼子の様に素直に従い得るわけだ だから忘却というのは自分に過酷な運命を与えた神への恨みつらみを忘却するという事
神が敵どころか自分を導くものであると気づくというのはそういうこと 自分の造り出した神を重荷に感じたり、恨んだり、と思ったら和解してみたり
人間と言うのはつくづく不思議な生き物だよね
別の世界の者が見たら漫才でもしてるのかと思うかもしれない >>590
汝なすべきは「かつて」神聖なものとして愛したもので獅子が体現したもの
それの否定で自分の意志、自分の世界を獲得なんだが
それともあれか君のレスを全部見ないと話にならないなら
俺が悪かった
もう寝る 幼子の精神は>>425だ
相対化の最後に残るもの
最後に相対化すべきもの
つまり俺にとっては神及び神への信仰だったのよな >>594
いやごめん
>>590と>>591は忘れてくれ
君のおかげで今知った言葉だから
直観的には正しいって分かるけどその理由を上手くまとめられんで混乱してる >>594
獅子は我を欲すだった
竜が汝なすべきだな 神の存在を受け入れて救われたっていうのはわかるんだが、延々と自分語りになってることは気付いて欲しい >>597
信仰者ならニーチェはクズだなw
哲学なんて適当に解釈して楽しめばいいでしょ
おやすみ まとまった
やっぱり>>590と>>591は獅子のニーチェの言う段階だ
何故なら>>590と>>591は信仰の獲得の話であって
つまり未だ神や信仰といった価値感を相対化できず縛られている状態なんだ
その神や信仰という「汝なすべし」(竜)を打ち倒す試みが>>425であり
その結果あらゆる価値を相対化していった結果最後に残った相対化の対象たる
俺の信仰と神は相対化され価値を失い
しかしいわば信仰や神を妄想と分かった上で「あえて積極的に」信じてるその態度
それが赤子に象徴される無から有への創造なのだ >>599
すまん
こんな話リアルじゃできないから話したくて話したくて超絶飢えてるんだ
迷惑なのは分かるから自重するよ >>600
ありがとうめっちゃ楽しかった
さんきゅー >>603
なんだ無神論の俺が相手したのに
それは道徳であって神という媒介はもちろん天国や地獄や救いなんて必要ないんじゃない? 神を信じるものは死を恐れ己に執着し
救いという私語も復活を目論む欲深き善意の持ち主である
あえて信じるものは人間を愚かだと思い信じていない
道徳は対等な立場でよく死ぬためにある
だから平気で害虫は処分する
この人間の利己に沿った都合のいい無責任な存在が神だ >>605
どうぞ、風俗や慣習として広めなければな
子供を協会に通わせて刷り込むな
カルトや悪魔崇拝も批判するな
根が同じなのだから
今日も宗教のせいにして利益のために争っているだろう
カルトが事件を起こすのと何が違うんだ >>607
個人の信仰と宗教の悪用をごっちゃにして批判すんなよ
お前が差別しているということに気付いてないならもうこの話は終わり
触った俺がバカだった 創造の元はあるだろうけどそれは人の思う神とは違うって事だよ >>335
だから信仰するんだよ
信仰しないとキレて暴れるから
「触らぬ神に祟りなし」なんてジャップ特有の迷信だぞ >>533
なんかすまん
スレタイからちょろっと飛ばし読みしてドバーッと書き込んだが
まだスレ読み込んでないからスレ内容の厳密性についての理解が適当だった
あとで読むゾ でもなぜか
第三次世界大戦にはねならなかったのであった!ふしぎ! >>602
全く迷惑じゃないから気にすんな
(´・∀・`) >>587
Jモノ―の『偶然と必然』は面白かったね
(´・∀・`) >>620
ひろゆき顕る
神とはローブを纏って杖をついた
ヒゲのお爺さんではない
まず、そこから理解しないと話にならない つかモバイル軒並み規制喰らってるから会社のPCからしか書き込めんで
あんま小学生でも書かないようなテキトーなこと書くなよ
強制ロム専状態だから見てて呆れるしかないこのもどかしさを分かれ
(´・∀・`) そして神は「まだ、生きている」
科学、政治、教育、軍事
全ての面に影響を振るい
むしろ、その版図は世界に及んだ >>604
頭っから信じるのとあえて信じることの違い
それはそこに意志があるかどうか
頭っから信じる者にとっては確かに外部から押し付けられた子供の道徳だ
だが>>375で書いたように神の愛を知った上で
あえて愛たる神の様に振舞おうと欲するのは自由な意志に基づいとるのよな いたとしても、それは個人を助けてくれるような存在では無い >>606
死を恐れるからこそ死を克服せんと欲するわけだ
神と和解するという事は神に押し付けられたどうにもならない運命と和解するという事であり
仏教でいう生老病死と和解するという事である
これは死ぬことなんか全然怖くなんかないぜ!みたいになることではない
上で信仰とは一人の人間の中に自分と神が同居する事と書いたように
信仰しても自分、つまり神たる自然に反する性質を持つ自我は残るわけだ
この自我の反自然的性質のことをキリスト教では原罪というが
つまり俺は信仰を得てもなお死への恐怖が消え去ったわけではなく
しかし一方で神という自然そのもの運命そのもの(生老病死)を深く受容し従おうとしているわけだ
一人の人間の中に神と人間が同居するとはこのようなことである
そしてこのような在り方が肯定され得るのは
キリストの十字架の贖いによって罪(原罪)が許されたというキリスト教的論理による
つまり俺は自然そのものと同化しているわけではなく未だ(反自然的な)自我を残すが
その人間の持つ本質的罪たる原罪を、自分の中に存在するもう一方の存在
つまり神が許しているということである
キリストを信じるとはこのようなことである
この様な構造を自分の中で成り立たせるために
敢えてキリストの物語を自らの意志で積極的に信ずるのである >>26
永劫回帰は方便であって、肝なのは死後の安寧の否定
キリスト教は現生での善行によって死後幸福が得られるっていうメゾットを使って、現生での不平不満を抑制する社会安定のためのシステムだった
しかし近代化や科学の発展でそういうロジックが破綻して、死後に何が起きるのかを何も説明できないことに気づいた人間はパニックに陥る
それを受容するための一時的な思考実験が永劫回帰で、その上で現生での全てを肯定するという超人への道程としての考え方と解釈していいかと
仏教の四諦とも近い考えで、あっちは元々輪廻転生って近い考えがあったけど、それを俯瞰してどのルートも大して変わらねーよって事で死後の幸福を否定するってロジック >>627
そこに信仰がある必要はあるか
虫はただ死んでいく >>611
神も悪魔も紙一重だしアメリカとロシアも似たようなものだね
神を愛さないと人間を愛せないのか
愛をもってしないと対等な種どうしでも共には生きられないのか >>608
差別では無い
自分は選ばれた人間だと思ったダサいネトウヨ親が
子供を不気味な儀式に連れて行ってダサい子供にする事こそ宗教の実態だろ >>629
それを深く納得するために
宗教というツールを媒介にするという感じだな
俺にはキリスト教が合ってたというだけで
別に仏教でもいいしニヒリズムの完成を目指すのでもいいんじゃねーかな
結局同じなんだから >>620
そもそも「何が検証出来れば髪がいないと言えるのか?」その逆「何が検証出来れば神がいると言えるのか」の手段が確立してないのだから感想と言えば感想なんかもしれんね
というかそもそも神とはなにか?神だったらどうであるのか?が決まってないのだから検証も出来ないやろけども 神の肯定からその教えへの受容も、神の否定からの反抗も
両方とも神という観念を前提としてやってる
近現代の西洋哲学はキリスト教の批判や否定を語ってるからキリスト教とは関係のないもののように日本人には見えるが
その前提にはガッツリキリスト教がある
日本人に西洋哲学は究極のところ理解できないとか言われる所以だな マルクス主義の唯物史観の「上部構造・下部構造」ってのも
そこで従属的なものとされる「上部構造」ってのは精神上のもの、つまり精神を実在とし、物質や肉体を仮とするキリスト教やイデア論関係のことで
それに対して「下部構造」の優越を語るのは
反キリスト教、反精神実在の世界観だってこと 唯物論と観念論ってやつかな
関係ないけど、唯物論と実存主義って似てる気がするんだがやっぱりなんか関連性あるの?
対して、構造主義とか社会契約論とか信用貨幣とか、社会システム全般って観念論的なもののような気もする
神様ってわけじゃないけど、多くの人がシステムを信じることで成り立っているというか ユヴァルノアハラリも人間は嘘を共有する能力で発展したっていってるしな
色即是空空即是色の達成とかニヒリズムの完成においては
当然そういったものまで空である、つまり妄想であると喝破することも含むのだろうね >>639
我々が「世界」を認識するとき
形而上の概念としてしか把握出来ない
認識と言うフィルターを通す以上
それは目に前の事象ですらそうだ
「薔薇の名は薔薇」
ここまでは良いか?
それは「神が与えたもうた名」なのか?
神の生死はそれにかかっている 色即是空と言っているが
それを妄想とは言っていない
むしろ、「空はある」
「空即是色」
上段下段を合わせての理解である >>643
空はあるというのも妄想だぞ
空即是色を実践するためには色即是空を徹底しなければならない
あらゆる対象に対して全てが妄想であるという認識を徹底するからこそ(色即是空)
こういったら何だがどーせみんな妄想なんだから俺はこっちの妄想を選ぶわという
ある種の純粋な意志による価値の創造(空即是色)が可能となるわけだ >>644
自分が妄想を選んだ自覚があるなら
何も言う事はないな >>642
この「認識」(世界に対して我がするという)というのがそもそも「解釈」
「認識」も概念なんだよね
つまり物質とか精神とか実在とか不実在とか
そういうものを問題にした時点で、もう頭の中の「解釈」の世界に落ちてるってこと
(当然、概念をあらしめてる神とかも) >>645
それに対して君はその自覚がないわけだ
何かを真実だと思うという事はその他のものがゴミってことになるわけで
これでは精神の静寂、つまり涅槃には至れない
例えば俺が神は存在する!キリスト教こそ真実!と思っていたとするならば
キリスト教徒じゃない奴とかただの分かっていないゴミになるわけよな
だからキリスト教に文句を言われたりするとムカつくわけだな
で、キリスト教じゃない奴は幾らでもいるから
キリスト教こそ真実!とか思い込んでる限りはムカつきから解放されないわけだ
だから大事なのは、自分にとっての根本というか信念の核みたいな
もっとも相対化することが難しいものを相対化する事なんだよな 汎神論のほうが発狂死したルサンチマン哲学者より上じゃねw >>190
内側から殴ってるようには見えるけど焼かれるのか… つまり、概念(ロゴス、神)の肯定も否定も
両方とも頭の中でやってるってこと
西洋哲学が現代でもキリスト教の延長、つまり一神教の末裔ってのはそういうこと
中華民国の胡蘭成だかが「西洋文明は無明の文明」とか言ってたらしいがなかなか言い得て妙だわ
(無明ってのは頭の中のものを実在と認める根源の作用) >>650
それもまた妄想だ
というか自我を肯定しなければ人間は動物と一緒だしな
日本の禅の坊さんの逸話で
悟った坊さんが親しい人の葬式の場でガン泣きして
あのひと悟ったとか言ってるのに何で泣くわけウケるw
みたいに言われたという逸話があるが
仏教や禅のような東洋思想においても本来は自我を否定しない
頭の中の世界から常に離れた状態でいるべきであるという考え方は
悪いがハッキリ言うけど分かっていない人の勘違いだよ >>651
君見ずや絶学無為の閑道人
妄想を除かず真を求めず
無明の実性即仏性
幻化の空身即法身
こういう、証道歌なんてのがある 妄想(頭の中のもの)を取り除いたり邪魔にしたりせず
精神が実在(真)だ!いや物質が!実存が!
形而上が!イデアが!悟りが!無が!
とか「真」を求めたりせず
妄想の根源が即「仏性」(仏そのもの)である
そう歌われてる >>100
純粋に質問だけどそれじゃあなぜ当時バチカンはナチスとコネクションがあって終戦まぎわに南米に逃亡するのをサポートしたの? >>652
まさに味噌の味噌臭きは上味噌にあらず、悟りの悟り臭きは上悟りにあらずだね
ググったページの転載だが
>事更に妄想を嫌うことなく、また、真だからといって求める必要はありません。
>迷いも当体がそのまま仏になる可能性をもっており、
>この生身の身体がそのまま、悟りの本体であるというわけです。
俺が言いたいのもまさにこれだな >>655
仏性は「仏になる可能性」ではないんです
その説明はよろしくないです 認識論だと、胡蝶の夢とかマトリックスを思い出すんだよな
認識しているこの世の全てが、夢やバーチャルや妄想かもしれないという可能性は否定できないってやつ
でもそんなこと言ってたら物質世界で生きていけないししんどいので、幻かもしれないけど五感で認識したものを愛しようと決意する感じ それでも、一度は「頭の中のもの」(妄想、煩悩)をキレイにする修行が必要になる
これが「修禅」と呼ばれてます
修行という余計ごとをしないと、どうしてもこれが分からない
反対に、修行とか悟りとか、やったこと分かったことが残ってると
それも違うとなる >>653
上で書いたように
敵だと思っていたものが実は自分を導く神(仏)だった!という気づきが
妄想の根源が即「仏性」(仏そのもの)であるという事なのよな
だから真を求めることもまた仏の導きなのであり
真を求めないこともまた仏の導きであり
つまり真実を求めようが求めまいが悟ろうが凡夫であろうが
全てが全肯定されるわけよな >>659
肯定でもなく否定でもなく、
仏でもなく凡夫でもなく 既にこうしてある、普通に生活しスマホで会話してる
そうしてる「私」とは何か >>658
一周してもとに戻る感じだよな
自覚があるかないかの違いは大きい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています