日本で最初の文明(大和朝廷)が奈良で興ったのって何でなの?そんな良い土地でもないだろ [799215407]
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大阪にたどり着いたはいいものの、
湿地過ぎて嫌だった奴が北に行ったのが京都勢力
東に行ったのが奈良勢力
って感じだろう 住んでて思うが山がちだから平野部の水には困らんと思うぞ
あとわりかし災害に強い
南部はよく大雨とかでやられるけどあそこは別世界だから 文字の歴史には残ってないけど
奈良の前に九州が栄えてた時代もあるんよ 最初ってわけでもないけど良い土地だったから数多の国の中で奈良の奴らが最強になれたんだろ 九州あたりから東征して行って奈良あたりで「ここでいっか」ってなったんだろうな
まあ温暖でそこそこコメも取れるから暮らしていけそうって感じ 現代では
平地が少なくて道が狭いのが欠点だが逆に言えば生活圏の人口密度が高くて意外と便利 それをいうなら東京みたいなひどい条件の土地があそこまで栄えたほうが奇跡的じゃないかな
3世紀頃畿内に大陸から大量移民、しかも今まで来てた半島倭人じゃない人々が押し寄せてきた
その証拠に、何故か当時畿内だけ黥面(入れ墨をした顔)土器が出土してない 大和朝廷の故地、朝鮮半島南部に風景が似てるんだよな
そこに奈良(朝鮮語で国)と言う地名をつけたのが日本の国造りの始まり 出雲、吉備、河内、伊勢、紀、近江、越、美濃、尾張あたりの連合政権だから
真ん中の奈良が都合良かった説
https://i.imgur.com/aS5f0mp.jpg 奈良の風景に野心とか気力を奪う何かがあると思う
「もうここでもいいか」と思わせるもんが
それで九州とか朝鮮半島から来た人も奈良で止まっちゃったんだと思う >>8
広島とか岡山で発展しなかったのなんでだろう 昔は大阪あたりはまだ海の底だったんじゃなかったっけ ちなみにネトウヨの>>1が考えるいい土地ってどこ?
地形も人口も交通も今とは全く違うことは考えてない?? >>18
そこは東征する頃には既に仲間の土地で、入る空きがなかった
記紀を読むのだ
>>17
白村江の戦いで敗戦するまでヤマトは半島南部から九州瀬戸内までの海洋国家だったんだよね
だから畿内より東に進む必要あんまなかった
いや半島南部を支配してたとか言いたいわけじゃなくて
友好国家群がいたからね 邪馬台国畿内説って関西人しか主張してないってマジ? 治水技術が未熟なうちは内陸部のほうが栄える
これは中国もそうだし世界的な傾向 渡来人の気持ちになって考えてみればいい
巨大地震や大津波、台風なんていう大陸や半島じゃまあ滅多にない恐ろしい災害から逃れ逃れて奈良盆地に辿り着いたっていうのは腑に落ちる話だ 海沿いは怖いしここは天然の要害や!
沿岸部の大阪には古墳いっぱい建てて使者ビビらしたろ!
こんな巨大な建造物作れるワイらは強いんや!
でできたのが関西古墳群 文字がない伝承だけでは数千年の内陸断層地震の記録は伝わらないってことか コメだから当時は温暖じゃないと無理だった→東北とか北陸・山陰は厳しい
大掛かりな灌漑設備が不要で水が豊富にないと→四国九州の一部は難しい
瀬戸内海沿岸(山口、広島、岡山、兵庫)は山が多く山と海の間が狭い
で奈良まで来ちゃってそこで止まったと 暴れまわる河川が大和川くらいしかない穏やかな平地でさして治水しなくても都市を作れたからだろね
当時の大阪は半分以上海の底だし京都は桂川に鴨川に宇治川と暴れん坊だらけだし手を出せなかった 昔は海から川伝いに上流へ行った先が奈良だったんだよ 朝鮮の動乱に介入してたから侵略に備えてか
渡来系の増長を警戒して 生まれも育ちも奈良、独り立ちしてからも奈良(生駒)に住み続けてるが災害が本当に少ない
生まれてこの方震度4以上の地震を体験したのがたまたま福岡に出張してた時に遭遇した熊本地震の余震くらい
水害も奈良盆地内では大和川沿いの一部地域以外ほぼない ・海に面してないので津波が無い
・地震も少ない
・地盤が安定している
・兵庫、大阪、京都から品物が来やすい
こんなとこか 戦前まで米の生産力が1番高い土地は奈良県だったと5chで聞いた 奈良ップさあ…
そんな歴史的に重要な地域がなぜ奈良「府」でなくて奈良県なんだい? 京都生まれで今は大阪に住んでるけど将来は奈良に住みたいわ。
なんか雰囲気いいよね。ヤンキー多いけど 奈良は引くレベルで古墳多い
どこ掘っても古墳だろあそこ >>54
不便さをよく確認しといた方がいい。
奈良の最寄りの大阪は羽曳野の辺り。
京都との距離も宇治から木津川までの倍。 海運良し守り良しの瀬戸内海の終点が実質奈良だったから 今は大阪平野があるけど、古代は奈良が瀬戸内海の突き当りだったんだよな というか関東には蝦夷がいたから
ヤマトタケルが攻めて行ったりしたわけだ なので好き好んで奈良を選んだのではなく
東へ攻めていくも何度も撃退されて
長いこと奈良~三重あたりで押し留められていた
が正解 地形のおっさん曰く北九州の盆地で賄えなくなった人口を維持するのに
十分な広さを持ってたのが奈良盆地らしい
当時は今より奥まで船で行けたらしいしな 「魏志倭人伝」では対馬は壱岐(長崎)でも食糧不足に陥っている様子が書かれている
邪馬台国は豊かで食糧もある様子だったらしい
つまり弥生時代初期において日本列島は寒冷な気象だったらしくさらに北にあった
関西とかは生活するにも厳しかった
「邪馬台国の東遷」の理由は文字も無い時代で理由は分からないが少なくとも気象は
暖かくなったと思われそうだとすると手つかずの誰も住んでいない土地として移動先として
繁栄できるだけの環境が整っていたってことだろうけど
何しろ文字の無い時代で理由を求めるのは無理 >>24
後から来て近畿に住み着いた人達が
先に来て広島とか岡山に住んでた人達より
発展して行ったのはなんでだろう? 鹿が可愛いかったからじゃね?
奈良大好きやわ
あんな平和で笑顔が溢れてる観光地はない 九州や出雲、吉備、越と距離を取ろうとすると奈良なんだろうな >>46
縄文海進なんてとっくに終わった時代の話ですが >>18
広島はわからないけれど、岡山から今の広島の福山にかけてのあたりは
吉備という大きな国があった。それは勢力争いに負けて分割されて、
残った古墳ばかりが兵どもが夢の跡状態だけれどね。 >>69
このころは奈良と瀬戸内海が近かったんだよな。
難波宮、四天王寺、住吉大社とか今じゃさっぱりわからないけれど、
当時の地形を考えたら、実に合理的なところが面白い。
大仙古墳とか誉田山古墳とかが大和川に近いところにあるのも興味深い話。 昔はわからんが北半分は平地が多いし
川も多いから稲作向きって感じがする ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています