(ヽ°ん゚)「阿含経以外は全部創作!大乗は仏教じゃない。捏造経典を崇める葬式日本仏教は存在自体が恥」これマジ? [517459952]
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◇日蓮大聖人の仏法より、「大乗非仏説論」を破す
日蓮大聖人の仏法より「大乗非仏説論」を見るとき、次の二点から論ずることができます。
第一点は、日蓮大聖人が末法に出現し、成仏の根源の法を建立されることは、二千三百余年を隔てた「法華経」に、すでに予証されており、実際に、その通りに大聖人が三大秘法の南無妙法蓮華経を建立されているという現実です。これは「法華経」が仏の悟りによって説き出だされた真正の経典であり、現実世界に生き、人々を実際に救済する経典であることを意味しています。
第二点は、日蓮正宗における御本仏は日蓮大聖人であり、大聖人の御教示は御書として留め置かれ、御法門の極理である本門戒壇の大御本尊と血脈相承は、今日まで着実に継承されているということです。
したがって、大乗経典が釈尊の説かれる説か否かという議論は他宗と異なり、日蓮正宗にとっては、直接関係のある問題ではないといえます。(そもそも日蓮大聖人の仏法においては、文上顕本を究極とする釈尊仏法の、さらに奥深く、文底に秘沈された久遠元初の南無妙法蓮華経を根源と拝するのであり、その久遠の本法から立ち返って、はじめて釈尊仏法全体の流れ、真意を知ることができるからです)
https://www.myotsuuji.info/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC%E8%AB%96/ 晋三 梵名アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ どうして・・・ 啓典宗教じゃない仏教に聖典は存在しない
なんとか経とかは全部捨てて良いよ 上座部の経典も多分に創作を含んでるよ
悟りを開くことを目標にしてる点でどっちも正統に仏教だよ
過去仏が存在したり、お釈迦様は絶対的な教祖ではないからね 原点回帰とか仏教の基本すら理解できていない者の戯言だろう?
神との契約宗教とは真逆の存在だぞ? >>14
尊師がアレじゃなかったら割とまともだったかもしれないw こういう文献学的に「本来の仏教」とかを探究する考え方は
多分キリスト教のプロテスタントの方法なんかね
原始仏教云々でパーリ語とかスリランカがどうとか言われるが
これらはイギリス人がスリランカを植民地にしたところからのものみたいだから 大作先生とエルカンターレどっちが真のブッタなんだよ >>20
エルカンはブッダとは別人
これはエルカンの公式設定 司馬遼太郎の『空海の風景』と京極夏彦の『鉄鼠の檻』でだいたい覚えた >>1
阿含経典も創作、付加されてる!最古層の仏典のみが真の仏陀の言葉!派のケンモーメンもたまにいるよな 単純に誰が書いたかも知れんような経には何の正統性もない
それをカバーするために釈迦の教えだよと嘘をついた。もうこの時点でアウト 宗教の信者なんてペテン師のハッタリに簡単にだまされるバカの集団だし
成り立ちとか時系列とか誰が書いたかとか内容の真偽とかを考えられる脳ミソなんて持ってない
苦を滅する悟りや救済とやらは得られたんですか?
意味不明な屁理屈をやたらとありがたがってるようだけど具体的にそれの何がありがたいんですか? 仏教は釈迦の入滅後、経典が成立するまでに数世紀かかってる
もうその時点で何をか謂わんや >>29
例えばさ仏教の教えでは諸行無常・諸法無我で自灯明・法灯明で対義説法な訳だから
釈尊が何を言い何を行い何を為したかなんて本来性とは全く関係のない事象と分かる
故に啓典宗教の様に原理を追及して無駄な争いをする必要もなく時流とは違う生活を
する必要もない現存在としての自分自身と向き遇えるように出来ている
そう言ったものを信仰できずに居れば自分自身の現存在とは関係のない何かに捉われ
る生活や思考を持って生きねばならず
そして捉われは一切の苦しみを生み出す根源である故に結果として自己否定を強化する
作用しか生まない日本に生まれ日本語を喋り日本人でしかないのにジャァァァップ!と
叫ぶ自己にしか出遇わない 釈尊の悟りって「あれ俺の存在ってアバターじゃん」とハッキリと気づいた訳だ
これって所謂脳の作用で苦行やドラッグをすればみんな気づくわけ
但し一時の作用に過ぎないのでその作用が終わればまたアバターの世界(夢の世界という方が分かり易いか?)に戻る
存在そのものは全てを総括しているにも関わらず現存在としての自己は非常に有限だ
仮にアバターの世界に戻った後もハッキリと存在を認識出来たとしてそれを他者に述べることは
もはや夢を夢と認識しながら夢の中の他人と会話するくらい滑稽なこと
故に独覚としてその生涯を閉じるのが釈尊の場合は慈悲による抜苦与楽の精神でモブにそのことを伝えたに過ぎない 小乗系は東南アジアに流れて大乗系は大陸・半島を経由して日本に入ってきたわけだろ
ここで大乗仏教に否定的な奴はネトウヨ入ってるだけじゃね 日本の既成仏教の何が凄いって別に苦行やドラッグを使わなくとも「あっアバター
じゃん」というところまでは誰でも年齢を重ねれば辿り着くと理解しているところ
とは言ってもそこから本当に生を受け入れ死を受け入れるとなるとこれは別問題
故にどの様に過ごせば良いかを模索吟味しほぼ完成させているところが凄い
新興宗教やスピリチュアルなんて「あっアバターじゃん」と誰でも気づく世界を先
取り強化しようと躍起に成っているきらいがある様に見えるそんなのはどうでもいい
紙一枚も要らないくだらない話だ 覚っても自分も他人も夢幻ではないでしょうね
世間には因果があり、肉体には痛みがあります なるほど、つまり日本仏教は体感的に先取りしすぎてる
確かにそういう傾向はあるかもしれない
南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もめっちゃ日本語読みやん
それってマントラとして意味あるんか?
それで涅槃行けるのおかしいやん
意味が大事だってなら、「阿弥陀仏サイコー!」「法華経しか勝たん!」でいいだろ 日蓮 鎌倉時代 承久4年2月16日~ 弘安5年10月13日
1222年~
親鸞 鎌倉時代 承安3年4月1日 ~ 弘長2年11月28日
1173年5月21日~1263年1月16日
>>1親鸞の方が年上なので
親鸞の勝ち
>>42
法然と親鸞だと法然の勝ちなの 念仏行としては法然のほうがわかりやすいな、方便に徹してる
どうしてそうなるの?を知りたければ親鸞を読もう、となる 一年中気候が温暖で、腹が減ればその辺に生えている果物とかをもいで食べたり、
眠くなればその辺で寝っ転がって野宿したりできるインドやスリランカでは
自分一人で修行して悟りを開くスタイルが可能だったが、
日本や中国では気候がそこまで温暖ではないので皆で協力して農耕をしたり
建物の中で集団生活しなければならなかったので、他人の力を借りて成仏する
スタイルが主流になった >>41
言葉とは分別心を現象させている事象である故にその解釈は可笑しい
真理や法と言ったものはその真相は虚無であるこれは仏教だけではなくイスラーム
教にしても道教にしても(古今東西)そういう認識である(勿論異論はあるだろうが)
でっお釈迦さんは分別心の執着を捨てねば涅槃寂静へ行けぬと説く
この執着を取り除く方法として慈しみの瞑想をせよと説いている
念仏であろうがお題目であろうがそれを本気で行事ている者が抱く心が自己への執着
でないことは行事ている者ならみな知っている知っていないのはそれをして居ないからだ >>48
言葉で言えば簡単に済ませれるが慈しみの瞑想というものは頭で考えているうちには湧き上がって来ないと思うね >>48
例えば「ありがとう」という言葉がある語源を見れば「有り難し」「有る」ことが
「難しい」ということで「めったになく貴重である」といった意味を表し中世では
仏教思想の伝来とともに神仏への感謝の言葉となり江戸時代から一般的に成ったと
思われる(ポルトガル語の「オブリガード」から来ているという説があり挨拶語へ)
確かに今現在我々がよく聞く場面はコンビニなどの接客業での挨拶である
しかし我々が本気で「ありがとう」と口にする場面は本当に感謝すべき他者との
永遠の別れであろう
そのとき口に出るのは本来の挨拶である「さようなら」ではなく「ありがとう」
という言葉が無意識のうちに口から出るこのとき出た言葉を心に刻めればどの様な
困難や境遇であろうが我が人生として受け入れる用意が出来ると思う
それは我々日本人が日頃よく使い慣れ親しみ最高級の言葉として意識下に置いている
から可能な訳で日常でその様な風習が無い世界では全く言葉としての力はない (ヽ´ん`)「原初仏教の教えとして信頼できるのはスッタニパータくらい」
って昔、名もなきケンモ法師に教わったんだが、間違ってたのか? くだらないわwww
宗教は周りを狂わす周狂でしか無いからww
だいたい山の天辺を目指すのが目的なのに此の道しかないなんてナンセンスだわ
道が無ければ道を作れば良い
他の道があれば其れを利用するのも良い
道にこだわって山頂に行け無い愚か者はカス以下だわ >>51
日常生活で感謝の気持ちがあるときも「ありがとう」は言った方がいいよ
君は違うのかもしれないけど挨拶以外でも普通に使う 阿含経も創作だよ
ブッダは著作を残さなかった
言葉より修行派なンだわ
そもそもが修行僧の人なんだから当たり前だろ 仏の漢字のものがあるからとか多神教だから仏教ということはない。 カースト制度で有名な沐浴の宗教は仏教が由来ではない。 >>57
そのとおりです
我々がもし望むならば仏陀の弟子たちの伝えをヒントにして我々自身の道を開くことができるでしょう 仏教はゴータマにそこまで依存していない
イスラムにおけるムハンマドよりももっと開祖としての意義しかない
悟りに達したものは皆平等
解脱に至ったものが残した足跡はみな仏典 むしろ釈迦は「私によるな」「修行者が自身で確かめろ」と言ってるからな
また、宇宙の実在とか生死の問題という哲学的疑問にも釈迦自身は言葉での答えを提示せずに苦の原因である煩悩を解決しなさいと方法だけを示した >>63
分かってるんだろうけど阿含経典と阿含宗は違うものだぞ ヴィーガンハゲの集団ってだけで充分異常じゃね?
それ考えたら肉食って子供作ってた一休がいかにまともなのかわかると思うが 歴史は知らないけど
ブッダが考えたのが仏教なら大乗や今の葬式仏教はみんなインチキなのはまぁ、そうだよなってなる。 >>54
ヒンドゥーは少なくとも勉強のヨーガ、修行のヨーガ、あらゆる道も神に帰依することで同じ頂に辿り着くって教えてるよ。 (ヽ°ん゚)=仏教カルト系ネトウヨとは珍しい
もっとも阿含はネトウヨ色はなかったはず 仏陀は肉を食わないというルールなのではなく、生産活動に携わらない。だから自分たちで食べられる草を取って食べるようなこともしていないと思う。逆に布施された肉なら食べていたようだ 阿含の星まつりは楽しそうだよな
みんなでコスプレしてノリノリな感じが なんで「あ、アバターじゃん」ってすげー分かりやすい角度のワードを出せてるのに、他はそんなに回りくどいの?
アバターは誰かに借りてきた言葉? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています