先月邦訳が刊行された『セックスロボットと人造肉』で著者のジェニー・クリーマンは、性愛、肉食、生殖、自死という「人間らしさ」から同じ問題に迫っている。「テクノロジーは性、食、生、死を“征服”できるか」という副題に込められたのは、単にロボットAIや培養肉が社会に受け入れられそれまでの生身の人体や生物の肉塊にとって代わるのか、という問いではなく、その欲望を支えてきた人間のフェティシズムの在り処を問うものだ。著者がセックスロボットの迷宮へと果敢に足を踏み入れていく様が印象的だけれど、そこで彼女は、AIによって人間により近づいたセックスロボットが性愛の機会に恵まれない人々にとってのウェルビーイングとなるのか、あるいは結局のところ、「従順で心身ともに喜びを与えてくれる女性」という価値観の温存や正当化につながるのか、鋭く問うて見せる。

そこには、テクノロジーは問題の本質にアプローチする代わりにその表層の問題を解決しようとする(そして、また次の問題が起こり、それをテクノロジーで解決する)というおなじみの批判的視座が含まれている。インセルにセックスロボットというソリューションをあてがい、肉食主義者に培養肉を与えることは、その根本にある歪んだ差別や世界認識、あるいは工場畜産と環境問題といったより大きな問題から、人々を切り離してしまうというわけだ。確かにそうだ。そして人間はずっと、そうしてテクノロジーを使い続けてきた。だから欲望という項目の欄にこそ「テクノロジー」を加えるべきだし、それによって温存されるフェティシズムにこそ、人間らしさは宿り続けるのだろう(性欲や肉食や生殖のように)。

https://wired.jp/membership/2022/09/10/nl_151_creativity/