明では後期倭寇の頃から、日本兵(倭寇)の日本刀・日本式剣術に苦しめられていたため、明軍では日本式の刀や日本式の剣術が武将の戚継光や学者の茅元儀らによって研究され軍に採用されていた。
中国は多くの日本刀を輸入し、日本刀を模した刀も製作された(後に苗刀と呼ばれる)。

戚継光『紀効新書』

「此は倭が中国に攻めてきた時わかったことである。彼らは舞うような歩法を用い、前方への突進力は光が閃くようで我ら明の兵は気を奪われるのみだった。
倭はよく躍動し、一度動き出せば丈あまり、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間合でも攻撃される。我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される。
これは彼らの武器が鋭利であり、両手で振れる強力で重い刀を自在に用いているためである。日本人には遠くからの鳥銃が有効である。だが日本人は全く臆せず攻めたり刺したりできる至近まで突っ込んでくる。
兼ねてよりこの銃手が弾を込める間に時間を取られて接近を許すことが多い。その勢いを止められない。日本人の刀捌きは軽くて長く接近を許した後の我が軍の銃手の動きは鈍重すぎる。
われわれの剣は銃を捨てて即座に対応するための有効な武器ではないのだ。それゆえ我々も日本式の長い刀を備えるべきだ。」



1790年に朝鮮で編纂された武芸図譜通志

「(明の茅元儀曰く)日本刀は極めて強く鋭く、中国刀では及ばない。(中略)、倭賊は勇敢だが愚かで生死を重視しない。
戦いのたびに三尺の刀を手に舞いながら前進してくると防ぐことができない。」



南宋遺臣 鄭思肖

「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。
倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。倭刀はきわめて鋭い。」