土曜の夜だしクラシック音楽語ろうぜ!フルオケでも室内楽でもなんでもOK!楽器、作曲家、演奏家、指揮者、なんでも語ってけ! [949872347]
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誰でもオーケストラの指揮者に? Webアプリでクラシックの名曲を演奏したら、拍手喝采だった!
遊んで学べる「Experiments with Google」(第24回)
https://www.itmedia.co.jp/news/spv/2210/29/news038_0.html
クジラックス?(難聴) とりまぜんぜん関係ない方から
アガサ・クリスティ原作BBC制作のTVドラマ
ジョーン・ヒクソン版「ミス・マープル」オープニング(とエンディング)
https://youtu.be/Knll8abXcbI なんか重いな嫌儲
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの2台の鍵盤楽器のための協奏曲ハ長調BWV1061より
第1楽章アレグロ(速く)
(アンドラーシュ・シフpiano&conductor/ピーター・ゼルキンp/カメラータ・ベルン)
https://youtu.be/ryWTPH1TJj4
この最初の3つの音…ミ、ファ、ソ
半音からの全音
これが何かが始まることをまず伝える
この3つの音をいろいろ変化させながら両曲とも進む 最近コロナでマーラーの2番とか8番やらなくなって泣いてる 重いなあ
>>6に補足でミ-ソは「完全5度」の上ふたつ…対して
ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調op.125「合唱付き」より
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ウン・ポコ・マエストーソ
(過度にならず速く、若干の威厳とともに)
(フェレンツ・フリッチャイcond/ベルリン・フィル)
https://youtu.be/ZTcqEYFe-Xc
この最初の音は「空虚5度」といって
中の音が抜けている
このふたつの始まりの違い 他の音楽があれやこれやと「表現」にあくせくするのに対し
クラシック音楽とはなによりもまず「形式」だから
完全5度と空虚5度はただの表現の違い以上に
開始、始まりというものに対する思想の違いを現す
前者がたしかになにかが始まることを告げているのに対し
後者は虚ろな響きのなかになにが始まるのだろうという不安と期待とを共にする 人間と音との関係としてまず
何度とかドミナントとかトニカとか
生理的にどうしてもそう聞こえてしまう和音や音階(スケール)のかたちがある
クラシックはまずそういう人間の生理に
どう則りまたどう裏切るかがあって
さらにソナタ形式とかロンドとか
楽章単位、主題や展開をどう構成するかという形式がある
しかしそういう形式に律儀なのは古典派までで
ロマン主義以降は人間の主観、感性が前面に押し出される
つまり形式に対する反-形式が「人間」の名のもとに訪れた ピタゴラスにとっては音の数理がすなわち宗教となったのに対し
(ピタゴラスは数学者、哲学者である以上に歴史的事実として宗教者だ)
ロマン主義音楽に於いては「人間」そのものが寿がれる
「神は死んだ」(ニーチェ)のだから
(ニーチェはワーグナーほかへの音楽批評をしていたどころか作曲までした) ベートーヴェンあたりをsageつつバッハをageもてはやすモメンは多い
その数理的な響きとともに
しかしことほどさように
音楽はただ数理の内にあるのではない
みなすぐに忘れるからこんなあたりまえのことを改めて書かざるをえないのだが
音楽にはなによりもまず「人間」が欠かせない ベートーヴェンがあの
大哲学者イマヌエル・カントの講義を予約していたことは知っとるか?
実際に受けることはできなかったようだが
しかし実際には講義を受けられなかったことなど瑣事だ
ベートーヴェンとカントとには「形式」的な共通性があることの方が
のちのわれわれ人類にとってはおおいに大事 もちろんおたがいに知ることもなくだ
知ることなしに共通していたのだからいよいよおおごとだ ちょっと長文続きで読むのも疲れるだろうから
つべ選んでくる spotifyは入っておけ
捗るぞ
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https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1667026174/ ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番ヘ短調op.57「熱情」
(ルドルフ・ブッフビンダーp/VIDEO)
https://youtu.be/zXR7qPVVVHY
言わずと知れた大傑作
このあまりに「人間」濃厚な作品はしかし
形式的にはしっかりとソナタ形式でもある
(3楽章であることや2楽章が変奏曲であることはやや変わってはいるにしても)
このベートーヴェン絶頂期はカントの晩年と重なるのだが
真に恐ろしいのはこの作曲家はそんな絶頂期をみずから壊すようにその後を生きる
すなわち「中期」(熱情ほか)に対する「後期」(合唱ほか)を 統一教会ネタが盛り上がったのはいいが
最近嫌儲ではこんな評価があるらしい
すなわち
SEALDsへの批判は統一がらみだと
ところで俺はかれらの登場時点から
SEALDsには一貫して批判的であった
もちろん「冷笑系」などとは別の理由でだ もちろん俺は過去も現在もそして未来永劫
統一信者ではありえない
ではなぜSEALDsに批判的なのか 俺はそもそもクラシック音楽以上に文学への関心の方が強く
そして高橋源一郎は基本評価するのだが
しかしことSEALDs関係に対しては
俺は源ちゃんに対しても批判的である
なぜか シューマンの幻想曲ハ長調op.17
(ネルソン・フレイレp/VIDEO)
https://youtu.be/lEkQMymyAM0
ベートーヴェンとカント
対してシューマンにはフィヒテ ベートーヴェン、カントにとっては
「あるけどない、ないけどある」
(特にカントの「物自体」はここを踏み外してはならない)
それがシューマン、フィヒテにとっては
「あるものはある」
そしてワーグナー、ヘーゲルに至ると
「ある、ある、ある」 ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」より
終曲アリア「イゾルデの愛の死」
(ヴァルトラウト・マイヤー'isolde'/ズービン・メータcond/バイエルン国立歌劇場管弦楽団/VIDEO)
https://youtu.be/CCm9q2Sjx18 俺はなにも嫌儲的に突飛な話をしているのではない
田中角栄や宮澤喜一には
「あるけどない、ないけどある」の良識が保たれていた
それが小泉純一郎になると「あるものはある」となり
そしてわれらが安倍晋三になると
「ある、ある、ある」となったわけだ 順調にユーチューブキチガイの連貼りが進んでるな
平常運転だ したたか酔った…ちょっと力を抜こう
モーツァルトのピアノ協奏曲第23番イ長調K.488
(クリスティアン・ツァハリアスp&cond/ハーグ・レジデンティ管弦楽団/VIDEO)
https://youtu.be/Vp9jVSpiCTU
ただし天才には天才の鬱がある SEALDsはただの「現象」だと喝破したのは辺見庸だ
ちなSEALDsは安倍以上に「左翼」を嫌った
現場から左翼を排除するためには警察とさえ協力を惜しまなかった
ところがリベラル界隈でもそしてもちろんここ嫌儲でも
是々非々などと言いつつSEALDsに与した者のなんと多いこと >>10は
バッハ「無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番ニ短調BWV1004」の終曲の超名曲
ここでは低音での「完全4度」の下降音形が
種々変形されるのだが
さきほどの完全5度とともに半音ひとつの完全音程があり
(完全音程はほかに半音ゼロの1度/ふたつの8度でこれらはともに同音である)
またベト9とともに
ニ短調というヴァイオリン有利の調性がある
半音がひとつ含まれる完全音程とは
物事には「はじまり」と「おわり」があって
更にそこには「ディーセントdecentなプロセス」があるということではないか
対してディーセントが望めないときには
ショスタコーヴィチのようにユーモアに縋るような音程となる
つまりディーセンシーとユーモアは裏腹なわけで ちょっと休む、落ちるかも
とにかく表現に没入せず
普遍を求めるように形式を追えと
そのためのクラシック なんでSEALDsの話を出したのだろう
どうクラシックと結び付けようとしたのだろう
しかも現下のソウルハロウィン大量死から
なぜひとは変装したがりまた群れたがり
それらがクラシックとも関わるとも連想したのだが
いずれにしても酔っててよく分からんち
こんやはずっと焼酎のお湯割り リストの「死の舞踏」ピアノソロ版S.525
(ヴァレンティナ・リシッツァp/VIDEO)
https://youtu.be/zGBXA1tBiLw
圧死には関わりのねえことで…いやある
5:15…おやすみ ごめもひとつ
バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番ニ短調BWV1004より
終曲チャコーナ(シャコンヌ)
(チョン・キョンファviolin)
https://youtu.be/663tj-4m3SY
ここではないどこかへとひととき求めたところが
ほんとに逝ってしまったコリアンに捧げる
トリック・オア・トリート…オア・ダイ コテつければいいのに
クラスレ発見したらスレをちゃんと読む前にいちいちNGネームにぶっ込む手間かけさせないで SEALDsといえば入野自由さんと同じ大学でしたね
ナッツだなつ
チャイコフスキー
弦楽セレナード
好き コルトレーンのクラシックカルテットの話をしませう
62年欧州ツアーまともに聞かせてくれあくしろやストックホルムがええんじゃ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています