徳川家康は祖先は諸国を放浪する乞食だった😲これ最も底辺から成り上がった一族じゃね🤔 [805238285]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
https://news.yahoo.co.jp/articles/67cb3a676c85950c80be81544d0192cfb651baf7
徳川家康の祖先「愛知」に地盤を築いた知られざるワケ 始祖「松平親氏」とはどんな人物だったのか
家康のルーツとなる松平親氏は、どんな人物だったのだろうか。
一説によると、松平親氏は、諸国を遍歴する時宗の僧だったらしい。室町幕府の第3代将軍である足利義満が権勢を振るうなか、上州新田荘(群馬県太田市)から流浪の旅に出たという。
この「徳阿弥」は親氏の法名ということになる。どういう縁があったかわからないが、裕福な家の娘のところに婿入りすることができたという。迷える死者のように、定住もせず諸国を放浪していたという徳阿弥(親氏)だったが、転がり込んできたチャンスをちゃっかりものにしたようだ。太郎左衛門尉家の跡取りになると、徳阿弥は還俗して「松平親氏」と名乗ることになる。 それがどうやって征夷大将軍なったんだよ…
こんな血筋が許されるなら秀吉がなってもよかっただろ 昔からずっと実力者は他人からお金をもらえる
それを乞食という表現にするのは間違ってるんだ
乞食だからお金もらえると仮定したら
お前らも貰えるはずだから(でも現実はもらえないだろ?) その辺りはかなり強引だけどな
松平氏は賀茂氏の流れであるといわれていて
家康は他の松平とは違うんだよと言いたいためになぞの流浪僧を先祖に取り込んだ うちの父方のご先祖様は家康の前からの松平家家臣で
本家には清康から賜った脇差があるけど
一緒に流浪していたのか三河土着だったのかは
明らかじゃないわw 朱元璋「乞食から一代で皇帝だけど何か?」
なお育ちが悪い為猜疑心の塊の性格最悪な不細工だったとか >>3
ということは、ほとんど天皇の親戚ってことか
天皇の血筋最強じゃん 徳川っていきなり名前変更すんなよ
どっから持ってきたんだよ
せめて得川だろ 最初に官位貰った時は藤原氏って自称してたし
素性なんてわからないんだと思うよ
だから乞食って根拠もない >>1
乞食じゃなくて僧って書いてあるが?
乞食のソースある? >>20
得川が徳川に変じたみたいな感じだったろ確か >>15
肖像画が残っているけど目はキツくてしゃくれているもんな
後世の作かもしれないが、評判悪かったのは確か うちのご先祖様で明らかなのは
一向一揆で一揆側に廻って指導者をやったせいで
家康臣下への帰参が許されず陪臣化して本多正信家臣となり
本多正純の代でのお家取り潰しを受けて武士を辞め
三河の先端醸造技術を持って移住して
移住先で酒や味噌や酢や味醂等をこしらえる蔵を立ち上げて
商家にジョブチェンジして大成功した門徒だったという事 >>24
僧侶の托鉢は乞食行為だからそれを言ってんじゃないの
歌舞伎役者のことを乞食だって言う人と同じ程度の歴史理解なのかも 北条早雲とか斎藤道三も上級国民の出だったしあの頃の話はかなり盛ってるよな 大江広元の子孫も流浪して
鎌倉から中国地方に都落ちして
毛利家の祖になった訳だからな >>31
江戸時代に講談師が話を盛りまくった
素浪人から成り上がったというサクセスストーリーの方が民衆は喜んだからだろう 島津なんかも源氏だって言ったり藤原氏だって言ったり
渡来系の惟宗氏だって言ったり超適当だからな 劉邦とかもともと半グレリーダーだし弱者男性から王まで成り上がった奴いない説 >>27
秀吉のカーチャンがなかなかのお嬢様な
ナカ様なんだよなw
最初の夫は半農半士な下級侍で
二番目の夫は当時の知識人な流れ僧
男兄弟が居なかったから長女のなかが
かなりの豪農だった中村村の中村家の
家督を持っていたらしい >>4
秀吉は没落した公家のご落胤とか話があった
秀吉の行動とかは武家の行動と違うから公家の系統だよ
官位は公家の最上位になったけど征夷大将軍にはなろうとしなかったでしょ 一般民衆から
ナポレオン下で反感抱きながら離反
スウェーデン国王として王朝今でも続いてる
ベルナドットがふつうにすごい >>19
ピンキリやろ
権威主義の天台宗ならともかく、六十六部みたいなうさんくさいのも多かっただろうし 百姓の子の秀吉よりは家柄が上だろ
成り上がりの一番はやっぱり秀吉だぜ 熊谷の近在から出たんだろ
いちおう新田家の流れという事になってる >>27
母ちゃんの妹が織田の重臣に嫁いでるレベルだからかなり
秀吉にしても今川と織田を行ったり来たりを繰り返せるぐらいには身分は保障されてたみたいだし 劉邦 →農民から皇帝
石勒 →奴隷から皇帝
劉裕 →草鞋売りから皇帝
朱元璋→乞食坊主から皇帝
中華はやっぱすげーや 家康のおじいさん、突然ぼく新田源氏と名乗り始めてしまう・・・ 時宗は被差別民の信徒が多かった
だから徳川(松平)は被差別民出自なんじゃないかって説もある 昔は家本位で血についてはそんなに拘り無いから分家からの養子とかでアッサリ挿げ替えたりするからな、その坊さんの血も続いてるかはわからんぞ?
松平本家は300石でずっと存続してたんだっけ?そういう放置のされ方的になんかありそうだし ちなみに前田利家の前田家も
ルーツは秀吉の中村家と大差ない
ただ秀吉の父親より少し上で
城とは言えないけど織田家の砦を守っていた
半農半士な織田家臣だったというだけ 言うても8代も前やろ?
逆に言えば元はどんな出だろうが
8代200年近くも殿様やってる家なら十分名門やろ
家康は所詮ボンボンや いわゆる間者なんじゃね?
諸国にネットワークを作り上げてた >>15
重八さん意外と頑張って儒学的な教養身につけてたからな
聖人みたいな奥さんと優しい息子に早逝されたのが痛い 普通に土豪じゃねーの?
忠誠心の厚い三河武士の部下がたくさんいたじゃん 石田三成さんと言う天下をくれた人のお陰だよな
関ヶ原の戦いを起こして豊臣の力をがっつり削いでくれた上に関ヶ原の戦い以後は歯向かう大名は居なくなったし
きっと暗殺されそうな時に徳川屋敷で匿った時に石田さんと繋がってたんだろうな
天下をお願いしますと >>54
老害化した秀吉へのヘイトも一身に引き受けてたしな
石田三成の過小評価は異常 ちなみに前田利家の正妻なおまつが
前田利家よりも家格が上で
父親は今川家臣で城代だったけど
城が攻められて父母が討ち死にして孤児になり
母方が姉妹だった前田家に引き取られて養育されて
従兄な利家とセクロスしちゃって嫁になった >>54
その気を逃さずに、石田は憎いけど太閤には恩があるみたいな武将連中を利用して作戦を立てたのはやはり才能だろう
秀吉側の重鎮の加藤だの福島だのが家康側について、なんなら淀と大阪城までもが家康についた
結局それが自分たちの首を締めて全員滅んだわけだけど >>16
じゃなくて皆、名家の系譜だけを言い伝えで残すからやろw
ヨゴレの系譜に1人源氏の薄い末裔が入った時点で「ウチの家は源氏の系譜でー」になる
だから源氏か平家か藤原だらけになる 松平親氏自身同時代資料に名前が出てこなくて生没年が100年ぐらいの幅があったような
この乞食坊主が新田の末裔で婿に入ったから松平は源氏って言い分だっけか >>54
石田が立たなかったら立たなかったで、他の五大老が前田利長みたいに骨抜きにされて
徳川一強体制にはなるんじゃね?江戸幕府を開かずに、豊臣政権における
執権北条氏みたいになるんだろうが >>61
時間稼ぎは出来たんやろな
言うても成長しても秀頼は木偶の坊のボンボンで
徳川次代の秀忠もやり手で豊臣潰しの方向性も変わらんから早かれ遅かれやろうけど そもそも徳川が豊臣を潰すなんて考えてなかったからな
大坂の陣があったから徳川陰謀論が言われているけど結局の所淀殿が潰したようなもんだし >>63
淀は江戸行きを本気で検討したり、小谷城や北の庄城の経験から戦になれば
負けることが薄々わかってたから弱腰だったぞ >>63
豊臣のやりようを見てたら、それと同じことを相手がやってきた場合自分たちが滅亡するくらいのことは想像してただろうと思うけどなあ >>11
めでたい字なので
国家安康って鐘に鋳込んだら家康の名前を分割して呪ったなとイチャモンつけられて戦争になりました >>34 >>60
そういう素寒貧が実力でなりあがったストーリーを好む割には
何故か自分とは関係のない、血筋がどーたらってリーダーを選びがちなのは矛盾してるよなあ >>1
おちんちんがとても大きくて気持ちいいお坊さんだったんだね >>4
秀吉が足利義昭に養子申し出て断られて源氏になれなかったから関白になった
は林羅山のでっち上げだし
源氏=征夷大将軍=武家政権は
頼朝に自らをなぞらえようとした足利尊氏、徳川家康の後付だぞ >>8
お前は家康を語るに、平安期まで遡る必要がある
支配階級とは無縁な田舎者には分からない話
日本は、三河以外動かせていない
お前は、何故、家康が義家の家の字の名前に入れたのか理由分からんだろう
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 三河の源頼朝、三河の足利尊氏と、日本の優秀頭脳が蓄積され
三河の徳川家康はそれに乗っかっただけな
この時系列で三河を捉えないと見えてこない
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む でも三河の豪族の婿になるや幕府御料地の
支配に食い込んで幕府奉公衆や公家に人脈を
築き上げて100年経ったら三河の最大勢力に
台頭してるんだからただもんじゃねーぞ >>19
宗派の本山とか奈良や京都の名門の寺の学僧やってた僧侶はそうだろうけど
どこで出家して学んだかも定かじゃない徳阿弥の場合はせいぜい高校の非常勤講師くらいだろ そもそも、三河生まれ三河育ちは名族の証
名族の遺伝子が入ってしまうんだよ、三河は
家康が受け継いだ遺伝子
源義家
源為朝
足利義兼
足利義氏
吉良長氏
今川国氏
一色公深
足助重範
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 源義国の嫁のかーちゃんは三河物部氏
つまり、新田義重の母方ばーちゃんは三河物部氏なんだよ
可能性があるとするなら、この縁故を頼って、三河に逃げてきただが
https://www.his-trip.info/keizu/entry202.html
興原敏久(物部敏久、中原敏久)→雄笠→忠並→月弓→月雄→奉生→遠成→中原季成→女(藤原敦基室)→女→新田義重
興原敏久は先代旧事本紀の編纂者ではないかと言われている >>1
関東の托鉢僧出身ってことは、男衾三郎の魔の手から逃れて放浪してたんやな >>80
家康が血を引く、母親が源為朝の娘だった足助重秀の妹が、源頼家の正室だった辻殿な
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 基盤は河内のおっさんの筈やのに
眠り根子に三猿とは如何に >>71
成り上がりストーリー→自分に投影できるからホルホル
現実世界→自分より上が成り上がりだとむかつく やんごとなき血筋ならその下の俺も偉い、ホルホル >>84
物を知らない田舎者だな
三輪山繋がりだからだろう
大和国の最初の王は、三河県豊橋市出身の可能性が高い
大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?事代主?)
三河県豊橋市にある石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山と名付けられた
大神神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥の院、三河県豊橋市の石巻山(神山(ミワヤマ))に向いているわけだな そもそも三河が弱小国自体が間違いだから
鎌倉期室町期通じて、日本最強の軍事大国
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250~300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 豊臣は摂関家の歴代藤原ばかりの中で認められた最後の氏だからな
格下の源平では摂関家にはなれんのよ 三河の源氏に乗っ取られ済だが
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) >>38
秀吉の身内ってカーチャンの親戚筋、寧子の実家筋、姉ともの息子達で
実父、継父の親戚筋が全く出てこないのはなんでなんだろうね >>94
現代の有名人でもビートたけしの父親はたけしの母と結婚する以前は一切素性不明の人物だし
そういう家族も世の中には居て秀吉の家庭もたまたまそうだったとしか言いようがないんじゃないの
母親が再婚して継父だったかどうかも実際は定かじゃないらしいし
個人的には色んな逸話から母親のなかが未婚時代に産んだ父親不明の私生児だったんじゃないかという気もするけど
一門でも母親の親戚筋は桶屋や鍛冶屋出身の加藤清正や福島正則がいるし
体格も良くて頭も優秀な職工集団みたいな感じでもあったんだろうな 個人的には秀吉、秀長は同父兄弟で親父および親父の親戚筋と険悪だったから
秀吉の身内として世に出てこなかったんじゃないかと思わんでもない >>76
ただしそいつは頼朝の妹の子で、義経と違って同腹だから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています