島津氏に関する研究は、日々進展している。「島津義久は朝鮮出兵の際、明との提携を図っていたのか」「義弘は、島津家第17代当主になっていたのか」など、注目すべきトピックスを紹介していこう。

義久は明と連携しようとした?
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、島津義久がひそかに明と連携し、秀吉を倒そうとしていたとの指摘がある。鹿児島の尚古集成館の館長・松尾千歳氏によるもので、注目されている。

明から渡ってきて、義久の主治医となった許儀後が、福建省の明軍と連携し、豊臣政権打倒を島津家に持ちかける工作を行なったというのだ。

今後、これに関する研究は進んでいくだろうが、義久が秀吉の朝鮮出兵をかなり冷静に判断して、失敗すると見ていたのは確かだろう。

島津領内には、海商として渡来した者や、倭寇に連れてこられた者など、多数の帰化明人がいた。義久は彼らを頭脳集団として活用し、そのリーダー格が許儀後であった。

さらにいうと、琉球人やポルトガル人も、鹿児島に来ていた。義久は彼らから情報を得ることで、当時のリアルな国際感覚を身につけており、明を倒すことなど不可能と認識していたはずだ。

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