■信長の人間的温かさ

 ある年の春、信長は出陣した。尾張国を通過中、畑の脇を通りかかると、ポカポカ暖かいので、一人の農夫がいい気持ちで草の上で寝ていた。これを見た信長の部下が怒った。
 「あの農夫はとんでもない奴です。ご領主様が、この国に住む人間のために戦(いくさ)に出掛けるというのに、見送りもせず大の字に寝て、高鼾(いびき)をかくとは許せません。血祭に斬ってしまいましょう」
 と息巻いた。ところが、信長は笑ってこう応えた。
 「止(や)めろ。俺の国では農民がいつもああいうように、高鼾で寝られるようにしたいのだ。それが俺の願いだ」
 この言葉は、戦争好きといわれる信長が、実は日本に一日も早く平和をもたらしたい、という志を持っていたことを示すものだ。かれは、同時代人のニーズをよく知っていた。特に民衆が、
 「一日も早く戦国を終わらせて、生命や財産に安心感が持てるような世の中にしてほしい」
 と願っていることを知っていた。かれが、集団戦法や科学兵器を導入して、戦争終結のスピードアップをしたのはそのためだ。

■「この金で、この男に家を建ててやれ」

 信長が、岐阜城を出て、京都に向かったことがあった。美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)との境にある山中というところを通過したとき、一人の物(もの)乞(ご)いがいた。まるでサルのような姿になって、信長に手を差し出し、何かくれといった。信長はその男に聞いた。
 「なぜ、こんな山の中でおまえは物乞いなどしているのだ?」

 男は応えた。

 「昔、この山中を通る落人の女性の着物を剝ぎ、持っていた金品を全部奪ったことがあります。その後、その女性がどうしたのか気になって、毎日苦しんでいるうちに、こんなサルのような姿になってしまいました。おそらく、天の罰が当たったのでしょう。ですから、里へ降りずに、その女性への罪を償うために、こうして物乞いをしているのです」
 この時、信長はただそうかと頷(うなず)いただけで、通り過ぎた。が、京都からの帰り道、またサルのような姿をした物乞いに遭ったので、信長は付近の村人を全部集めた。持っていた金を出してこういった。
 「この金で、この男に家を建ててやってくれ。そして残りで畑を切り拓き、穀物が実ったらその一部をこの男に与えてやってほしい。残りは、全部皆で分けてくれ。この男は殊勝な気持ちの持ち主なので、皆が優しくしてやれば、やがてはサルからもう一度人間に戻ることができるだろう」

■嬉しそうに笑った信長

 信長の優しい気持ちにほだされて、村人たちは、必ずそうしますと誓った。一年後、信長がまた山中を通過したとき、辺りは見違えるようになっていた。そして、慈(いつく)しみ深い表情をした一人の中年者が走り出て、信長の前に手をついた。
 「誰だ?」
 聞くと、男は、
 「あのサルの物乞いでございます」
 といった。信長は驚いた。
 「見違えたぞ。いったい、何が起こったのだ?」

「あなた様のおかげでございます。村の人たちが大変温かくしてくださり、いまはこうして村のためにいろいろと働かせていただいております。それと、いつかお話しした私が物を盗った女性が、この間たまたまここを通りかかりました。私は、あの時のことを詫びて、盗った物を全部返しました。女性は、そんなことはもう忘れたといってくれましたが、気持ちがスッキリいたしました。そんなこんなで、私の気持ちが洗われ、もう一度人間に戻ることができました。有難うございました」

 これを聞くと、信長は嬉しそうに笑った。そして男に、
 「よかったな」
 といった。

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