恵方巻きの起源は韓国の海苔巻き「倭方巻」だと言われる[3]。
16世紀、朝鮮半島へ豊臣秀吉率いる日本軍が侵攻する。秀吉の死後、日本軍が撤退したことを記念して、細長い海苔巻きを日本の方角を向いて食べ祝ったことが起源とされる[4]。
なお、海苔巻きは侍の髷を意味しているとされ、無言でかぶりつくことで日本の侵略の犠牲になった朝鮮の民を追悼する意味合いがあったといわれる。[5]。
1715年の『山林経済』にて、はじめて『倭方巻』という単語が現れるが、当時は具もなく白米を海苔で巻いた簡素な食べ物であったことが窺える。
19世紀の文献『閨閤叢書』(1809年)に出てくる倭方巻を見ると、塩漬けの白菜(キムチ)、千切りの唐辛子、ニンジン、ホウレンソウ、エゴマの葉等を入れる製造方法が記録として残っており、19世紀前後に現在のような具を巻いたもの作られ始めたと推測される。
1827年の『林園十六志』に、イカの甘辛い和え物や海鮮、カクトゥギ、卵焼きのような現在親しまれている具材が用いられたことが記録されている[6]。

このように、朝鮮一般の風習であった倭方巻を日本に普及させた人物としては、戦後、大阪・鶴橋を拠点に関西の闇市を一挙に支配したといわれる在日朝鮮人の安田晋三(朝鮮名:アン・シンサム)の関与が挙げられる。
安田は1924年に就職口を求めて自らの意思で来日、山口県・下関にて炭鉱労働者として働き始める[7]も、勤務先での度重なる差別と劣悪な待遇に耐えかね逃走、その後は大阪に居着き、暴力団員としてその日暮らしの生活を送っていた[8]。
だが第二次世界大戦終結後の混乱期において闇米の流通、土地の売買で財を成し、地場の暴力団員を傘下に収め、名士として関西の社交界でも知らないものはいないほどの権勢を誇るようになった[9]。

戦後の混乱に乗じて成功した安田であったが、上記の経緯から日本人に対して恨みを募らせており、「征服された朝鮮が、猛き倭人を征服する。これほど愉快なことありや」[10]として、日本文化を征服する野心を燃やし、母国の行事を広めることを画策した。
安田は当初、大阪の花柳界にてこの風習を定着させるよう図った[11]が、「下品である」として関係者からの抵抗を受け、ほどなく挫折する[12]。
1970年代より、豊富な資金と裏社会のコネクションを用いマスコミヘ「幸運の巻き寿司」として売り込みを始める[13]と、知名度が一気に上がり、全国チェーン店の便乗[14]で関西のみならず日本全国で販売されるようになった。

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