関ヶ原の戦い、ほぼ全て後世に作られた創作だった 小早川軍は最初から東軍、少数の石田軍らは一瞬で敗走 [606275763]
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宇喜多石田の大軍は布陣されてたとされる笹尾山には遺構は一切発掘されず
実際は烏合の衆として東海道口に布陣してたのを一瞬で蹴散らされた説が濃厚 上杉景勝と石田三成がちゃんと結託して東国で陽動からの東西挟み撃ちを狙ってた方が史実に近いのか…
当時はそんなリアルタイムでやりとり出来ないから結果的に偶然そうなっただけってのをどこかで見たが
むしろそいつがホラ吹いてたのかよ
本当に20万の軍勢が戦って半日で戦いが終わるなんて物理的にありえない
よくみる布陣図は明治維新後に日本軍が研究用に適当に作ったやつ 公儀は三成側にあったと書かれているけどなんであんなに簡単に負けたのかな?
やっぱ秀吉の晩年の朝鮮出兵が滅茶苦茶過ぎて加藤清正や福島正則すらも豊臣に叛くほど豊臣側が求心力を失っていたということか 小早川秀秋が鉄砲の音にビビって東軍に寝返った説は流石に消えたよな 命かかってるのにアホな行動とるかよって視点
話として面白くしているのと現実の生死がかかってる状況とのバランスが悪い 布陣図は小早川が裏切らない可能性を考えるとリスク高すぎてあんな風にはならないと思うよな
仮にも豊臣一門なのに絶対裏切ると考えないだろ 大谷吉継はそんな勝ち目ないのにわざわざ石田の方につく事にしたのか? そもそも当時の歴史を言葉通りに正しく伝えるなんて、
タイムリープでもしなきゃ不可能なんじゃないの
当時の証言を元に書く事は可能だが、それも何処まで正確か分からない
そもそも人間って本質的にホラ吹きで口伝を盛る性質があるからね
その盛った口伝が昔は神話であり聖書だった
モーセは海なんて割らない 要するにほぼなにもわかってない
関ヶ原に限らず日本の昔の戦争は全部そう
布陣や構成や戦術や戦闘の推移なんてなにも残ってない 超有名な合戦であっても推定戦死者数すらはっきりしないとかそんなんばっかだよな 北と西から家康を挟撃する…つっても、肝心の上杉さんが雑魚相手に大苦戦しとる時点で破綻してねーのかな 関ヶ原は各藩勝利者側の史料が潤沢に残ってるんだがなぁ
約一年後までに成立した半官製の太田牛一『関ヶ原軍記』のいわゆる通説に対し
その記述の再検討が進んでるだけ
南宮山(毛利布陣)や松尾山(小早川布陣)には土塁等が大量に出土してるが
笹尾山からま何も出てこない、ここには石田軍らは布陣していない 戦術は分からないけど戦略は分かってる
内務組の石田と外征組の加藤福島らを仲違いさせて、豊臣側を分裂させたので勝てた
政治と経済政策はしっかり記録に残る >>25
これもよく言われるけどマジなんかな
大野修理も茶々のセックスフレンドだったとかも >>5
徒歩か馬同士がぶつかって、
切り殺すんだよな
爆弾も弾丸も車両もなしで 何もしてないのにただ負けた長宗我部と島津はイミフすぎる
後で島津は話を盛ったけど >>13
豊臣秀頼に世継ぎを奪われて冷遇されまくった立場なのだからむしろ毛利輝元に従う方が不自然なのだけど?
しかも家康に口利きしてもらって59万石の大領に返り咲いたんだけど? 大日本帝国陸軍参謀本部戦史課とかいう嘘大袈裟捏造インチキ戦史の発生源
大体こいつらのせい 数万どころか数千人規模の合戦なんて成り立つ訳がねえし
せいぜい数百だよな 三成は山中の自害峰に布陣してるから、笹尾山に布陣なんてしてないけどな。今に伝わっている布陣図は明治時代になってから陸軍参謀本部が作成した物だよ。笹尾山に布陣したという史料は江戸時代の一級史料や俗説史料にすら出てないし、現地から陣地遺構も見つからなかったから。関ヶ原に従軍した戸田氏鉄の記録『戸田左門覚書』には「治部少(=三成)本陣は松尾山の下、自害か岡と云所に陣す」とある。西軍は小早川の裏切り気配に圧力をかけようと松尾山に対峙する山中に布陣するが短時間で崩壊、午前中には壊滅したみたいね。 岐阜城が落ちるの早過ぎたし西軍は突然家康討伐に組み込まれて日和見だし
一応筋を通して上杉征伐を開始した家康率いる東軍諸将との差が大きい 大軍だったけど実際に最後は入り乱れてって感じじゃなくて戦闘したのは少数なのかもね >>26
笹尾山に布陣したのって当日の朝方じゃないの? >>37
山中は大軍が展開できるような立地ではないんだよな
やはり石田軍はかなりの少数だったと見える >>32
そもそも島津は戦国大名としてはかなり評価低いからな
朝鮮出兵の時に1万人の軍役を課せられたのに動員に時間がかかった上に船も用意できず大遅刻してるし
関ヶ原も義久が兵を送らなかったじゃなく国人を纏めきれなくて送れなかったが正しい
薩摩大隈日向の三州って規模の割に直轄領が少なくて
合戦は譜代家臣団と有力一門頼りで殆ど国人連合の状態 ジャップって歴史で嘘しか吐かないよな
聖徳太子も嘘
大化の改新も嘘
江戸時代も嘘
坂本龍馬も嘘
竹島も嘘 結局勝者である徳川家が後で中身を盛るんだよね
真田信?とかもそうでしょ
日本一の兵と持ち上げておけば、それ破った徳川軍はさらに凄いってことになるんだから 島津は義弘(三成と親密)と義久と忠恒(家康の支援受ける)の対立で
直前に義久と忠恒で義弘派の筆頭家老一族を討伐してるし
関ヶ原では義弘与党以外はよくて中立に近いからな あの有名な布陣図だと、あんな場所に徳川家康いたら
小早川が二重スパイだったら瞬殺される配置だしな でもたかだか400年前の数万人規模の大イベントやぞ
口伝やなんやらでも伝わってるだろうしそれなりに正確やろ
もし全然違うっていうならさすがにどこがで意図的にねじ曲げられてるわ
で、たかだか400年前のできごとをそこまで違う話にできるのはその後300年支配してた徳川だけだわ 遺構がないっていうけどさ
前夜遅くに大垣城から移動してきて
霧の中で朝から合戦なんだから
何かがある方がおかしいだろ >>51
ほとんどが創作だった!とかいうこの記事も割と前から知られてること集めてる特に目新しいものない記事だしな…
このスレの方が面白いこと書いてる奴が多い時点で 昔はゴッドハンドやり放題だったしな
勝利した側にいいように作られた話ばかりでしょ >>51
コミケの周辺でも
野外コンサートでも
口伝が一致することは少ないだろ?
それが幾人も幾世代も経たら眉唾も良い所 >>10
小早川秀秋って朝鮮軍との激戦をくぐり抜けてる猛者だぞ
異民族との戦争はただの内戦である戦国の戦とは根本が違うからな >>48
武田もそれで滅茶苦茶盛られてるよね
逆に今川義元は下げまくりだし匙加減が露骨でわかりやすい >>57
ネトウヨは王家史観だから家康や足利尊氏は大嫌いだろ 川中島も桶狭間も三方ヶ原も長篠も本能寺も異説だらけ
500年前のことなんて正確にわからん >>40
単に逃げただけじゃ恥ずかしいからな
とりあえず勇戦したことにしておこうみたいな >>10
秀秋は子どものころからの飲酒で肝硬変が進んでたんじゃないかと言われてる
関ヶ原の時にはもうまともな判断力さえなくすぐらい進行してたとする説もある >>65
アル中の謙信が戦の天才だったのが不思議だな
脳みそスカってるはずだが >>66
上杉と北条と武田は戦国時代でも別格やぞ
この三家だけ当時の軍役帳が残ってて兵種指定で軍役課してたのわかってて
当時全く記録ない家は織田も含めそもそも大雑把な動員で割と適当に戦ってたと言われてて
秀吉の陣立書が出てくるまで明確に軍規や戦術がある軍隊らしいものを率いて戦ってた裏付けあるのこの三家だけ
まあ現代の戦国時代の合戦研究なんてほとんどこの三家の記録頼りで実際はほとんどわからないんだが
少なくとも三好や信長とかよりも圧倒的に先進性のある軍勢率いてたのは確か 台湾沖航空戦だって大日本帝国が存続してたら教科書で大戦果の大勝利として歴史に記録されとるよ >>68
でその三家は信長や秀吉との戦闘でどの程度戦果をあげたんだい?
あさか手取川の局地戦で信長の地方派遣軍に勝ったから凄いとかいわないよな? >>68
史料が残ってる≠他は無かった
武田も上杉も織田にフルボッコされたし北条なんか戦う前から帰順姿勢だったじゃん >>58
武田は当時から評価されてたし今川下げは織田信長革命児論のあおり食らっただけだ 豊臣家の内ゲバなのに豊臣vs徳川の戦いと勘違いしているやつ多いよね 信長は結局武田による東方からの脅威への対策に腐心し続けて上杉には気を使い続けだしな
そしてその武田と取ったり取られたりで殴り合ってたのが上杉北条 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています