【悲報】クラッシックファン涙・・・専門誌「レコード芸術」が2023年7月号で休刊へ [737440712]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
音楽之友社は3日、月刊誌「レコード芸術」を2023年7月号(6月20日発売)をもって休刊すると発表した。「近年の当該雑誌を取り巻く大きな状況変化、用紙など原材料費の高騰等」が要因という。
現在定期購読中の購読料の精算については、販売店への問い合わせを案内している。また、バックナンバーは、引き続き販売を継続する。
「レコード芸術」は、クラシック・レコード評論の専門誌として1952年3月に創刊して以降、70年超に渡り刊行してきた。同社は「『レコード芸術』として70余年にわたり培ってきた財産をどのようにして活用していくべきか、音楽之友社として鋭意研究してゆく所存です」とコメントしている。
https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1490566.html
https://asset.watch.impress.co.jp/img/avw/docs/1490/566/r00_o.jpg 名盤情報はどこで知ればいいんだ ネットとかゴミしかねえ 電源コードを変えると音が変わるのはピュア界では常識です。
私は発電所から専用線で我が家まで電力を引っ張り込んでいます。
電線の材質は無酸素銅が最高ですよ。
おかげで、ウチはミニコンですが、ハイエンドよりいい音がしますよ。
ちなみに電力会社の違いでも味付けにサがでるよ。
東京電力:バランス:モッサリ:遅い:C
中部電力:低域量感:低域強すぎ:A+
関西電力:高域ヌケ:特徴薄い:B
中国電力:透明感:低域薄い:B+
北陸電力:ウェットな艶:低域薄い:A-
東北電力:密度とSN:低域薄い:A+
四国電力:色彩感と温度:低域薄い:A
九州電力:バランス:距離感:C
北海道電力:低域品質:音場狭い:B-
沖縄電力:中高域:モッサリ遅い:A
で、上は発電所から5km地点での特徴。
それより自宅〜発電所間の距離が長いと上記特徴+マイルドの味付け
短いと上記特徴+刺激的な味付けが加わるよ。 廃刊するのか
レコード時代は本当にお世話になったな
クラシックって未だにレコード時代の名盤をデジタル化
したやつを聞いてるわ
まじかよ!
レコ芸は一度も買ったことないけど結構ショックだわ
今後はふざけたスレタイじゃなくてもうちょっと真面目な新譜情報とかでクラスレ立てます 雑誌ってメーカーが買わせたい物をステマするだけだから
なくなっても構わないけどな
それでも初めてクラシックに接した時はいい案内役だったわ まあクラシックファンほど胡散臭い奴らおらんからな
佐村河内みたいなの持ち上げてたんだから
あいつの指示書とか「ここはベートベンで~ここはバッハでここはモーツアルトぽく頼みます」みたいなガキが書いたような物だったろ
それを祭り上げてたんだから
もし盲目のロックギタリストとか現れてそれがでっち上げだとしたらソッコーでバレるよな この手の雑誌は権威主義の老害が絶滅するまで需要あるから何らかの形で再開する気がする
スイングジャーナルも廃刊から1年絶たずに出版社、雑誌名変えて再開したし インターネッツのお陰で音源そのものはかなり身近になったのにな。つべ貼りおじさんみたいな奇矯、失礼奇特な人も活き活きと活動してるのになぜ… >>18
ChatGPTが進化したら
この指示書で作曲もしてくれるんかな? >>18
思ってたより細かい指示なのな
これ半分作曲やろ
メクラが嘘だっただけで実質作曲やん >>19
誤解を与えたとしたら政治家並みには謝りたい
俺はレコ芸やレコ芸的なものには基本関心ないのよ
ああゆうのもないよりはあった方がいいよね程度
貼ってるのも名演名盤とかより
新しめのライブ映像優先だったり
(だからVIDEOと明記する) 映画、音楽、演劇
ジャップには過ぎたもの
よくこれまで保ったもんだ クラスレで何度もレスしてるとおり
そもそもクラシック音楽、音楽そのものよりも
常に「人間」への関心がさき
その意味で
「ネッツのお陰で音源そのものはかなり身近になったのにな」
のくだりがおもしろいよね
それが録音の流通以降の「レコ芸的なもの」の成立とどう関わるのか
その意味でだけレコ芸に関心持てる 坂本龍一関連スレでもバッハ貼ってた俺だけど
そのひとつ、坂本大江サヨクスレにて
きのうきょうとそれ以上にスマホフリックで長文入力してまでレスしたのは
マルクスについて
やっぱりそこでも「人間」について考えてたから
Klassik以上にKlasse(階級)について レコ芸もやってること「階級付け」なわけでしょ
一級、二級、あれは「ゴミ」
そしてマルクスは言うわけだ
「ゴミ」とはすなわち「プロレタリアート」だと
(対してブルジョアジーは「商品」)
レコ芸読者はたとえそのひとが労働者階級であっても
やってることは資本家への欲望に囚われながら 「音楽の友」…その「友」のうちに
「友敵」関係の再生産を繰り込む
それが「レコード芸術」…実際、どれが名盤かそうでないかをめぐって
みんないがみ合ってたでしょ
さて、「インターネッツ」時代になり
そこからわれわれとその社会にどんな変化があったのか、なかったのか
こおゆうことこそ考えたいこと
>>20
AIがバロックや古典派のスタイルで作曲できるようになるにはそんな時間かからないだろうけど音楽家が身を削って生み出した結晶みたいなものは再現できない気がする
例えばバッハのシャコンヌやベートーヴェンのOp.109, 110, 111に宿ってる作曲者の魂みたいなものはAIでは永遠に再現できないんじゃないか?
そういう作品こそが人類の遺産だと思うんだよね、おれは AI問題もだいじょうぶ
そこに挙げられた作品群はまさに適切だが
音楽に限らずクラシック(これはごく一般的な意味)、古典にある
「フレーム」をAIはついに解決できない
つまり「シンギュラリティ」などというものはない
なぜか…「フレーム」は「他者」あってのもの
つまりここでも「人間」がだいじ…というか
話が逆で人間がだいじになってるからこそクラシック
でも…これもクラスレでよくレスしてるでしょ
古今東西たいがいの人間は人間をみずからやめたがるもの、と 「奇矯…奇特な人」かねえ
こういうこと考えてると「活き活き」してくるでしょ
「人間」だったら、だけど
バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調BWV1004より
最終第5曲チャコーナ(シャコンヌ)
(アリーナ・イブラギモヴァviolin/VIDEO)
https://youtu.be/557OWzYkHv8 .
サブスクは音楽を聴く姿勢ではない
やはりCDで聴かないと
.
そういえばバッハのシャコンヌに関してだけど
ピアノ編曲版はブゾーニによる編曲が有名で頻繁に演奏されてるけどこのブゾーニ編って実はおれはあんまり好きじゃないんだよね
原曲に宿ってるバッハの魂(のようなものが)どうも鍵盤上に反映されていない気がする
ブラームスによる左手のための編曲の方がまだ原曲の「精神性」を上手く伝えられているように思う
まあブゾーニ編もバッハではなくブゾーニの作品として聴くなら別物として楽しめるけどね スレタイに合わせつつスレを伸ばす切り口もなくはないが…とりあえず
いま読んでておもしろいくだりに当たったので
--
もう一度確認すれば、キリストは神である。彼は預言者や殉教者ではなく、神なのだ。それゆえ、彼が、救済されることなく十字架の上で絶命したとき、神自身も知らなかったということ、神にとっても彼自身に降りかかっているこの運命は見通せない謎だったということが、否認しようもないかたちで開示されている。神こそが、神から切り離され、最も過酷なかたちで神から疎外されているのだ。小説は、【十字架の上でキリストが感じた不信や苦難を】――言わば小刻みにしたり薄めたりして――【分有している】。と同時に、小説は、【この不信や苦難への防衛反応の一つ】であり、それらから逃れようとする試みでもある。…
--
参考―マタイ27:46
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。 続きのまえに
>>34
俺はシャコンヌはピアノ版は聞かんな
実際つべ貼らないでしょ
ブゾーニがどうというよりヴァイオリン原曲が圧倒的で >>37のつづき
この文章じたいは近代小説についてだけど
ベートーヴェンの第九の最初の最初の虚ろな始まりのこと言ってると考えても
牽強付会でも何でもない
https://youtu.be/wlHzQaBUtAI
(カラヤン/BPO/VIDEO)
そもそもこの論者はこの本の中で
この小説論の前にみずからベートーヴェンに触れてるし
何なら先のマルクスにも触れていた
(きのうの坂本大江サヨクスレの長文引用は同じこの本から) クラシックを語るにはまず「どの指揮者でどの楽団か」から語らなきゃならんからな
面倒なことこの上ない 音楽が世界をひとつにするわけないじゃない
世界をひとつにしたのはカネ、市場
レコ芸休止…実質廃刊だろうが
雑誌文化の衰退なのか、批評の弱体なのか、聞く側のスタイルの変化なのか
それともそれらをすべて射程に入れるような
もっと大きなグランドセオリーがあるのかどうか
この論者の果敢な試みのような レコ芸の名盤500など読む方が悪い。
知らなかった、とは言ってほしくない。
4時…読書に戻りますわ ほらほらほら…また引用するぞ
--
ここで、まことに正確に、ヘーゲルの弁証法でいうところの「否定の否定」の論理が作用している。「否定の否定」とは、否定されていることが、実際には、もとの「肯定」されているものよりもいっそう徹底的に肯定されているという意味である。現実の人生の物語がたち現れる上で否定された可能性の方が、現実よりも深い真実を含んでいるように感じられるとき、まさに「否定の否定」の論理が働いている。
--
引き続き小説論(のなかでのキェシロフスキ監督映画の参照)だけど
これもベートーヴェン第九と照らし合わせつつ考えることができるでしょう
クラシックを考えるとき
レコ芸休刊なんてちっちゃい話…涙なんて流れるわけ…
バッハの「ヨハネ受難曲」BWV245より
第35曲アリア「私の心よ、涙となって融けて流れよ」
(マグダレーナ・コジェナーmezzo-soprano)
https://youtu.be/8Dqf3DP1LnU ちなベートーヴェンとヘーゲルは同い年
いまの文章は「偶然」についての流れ
(参考のキェシロフスキの作品の題が「偶然」および「ふたりのベロニカ」)
偶然な現実の出来事そのものが
それ以外のありえた可能性を現実にたち現れさせ
「幽霊のように」取り憑く、と
そもそもこの箇所のずっと前で論者がベートーヴェンを取り上げたのは
作曲者そのひとについてではなく「ソナタ形式」を論ずるなかで
以下は論者の論そのものではないが
第九を含めたソナタ形式が「否定の否定」でしょう
第九はその「否定」という行為そのものが作曲者により前景化 いちばん切実な例が
事故や事件や災害などで大切なひとを喪った場合
「あの時こうでなかったならばあの人は生きていたかもしれない」
とりわけ
「あの時私がこうしていれば」…生き残った自分が関わっていた時の苦しみ 高校時代に初めて買ってすごい世界があるもんだと感心したわ 評論家とかいう自分では何もできないゴミがやたら偉そうなのが気に入らない
なら自分でやってみろと >>49
こういうガイブをヨクアツハイジョせず、かと言ってドーカキョーカするでもない。ガイブのガイブセーを維持させつつうまく付き合うのがゲンダイシソーだから多少はね? まだ読んでた…スレ落ち前にこれだけまた引用
クラシックともレコ芸とも関連するよ
--
だが、同時に、近代にはふしぎな性質がある。近代は、言わば自分自身を否定するのであり、その否定をも含めてなお近代なのだ。たとえば「ポスト近代[モダン]」といったあいまいな概念が成り立つのはこのためである。一方で、それは、近代以降の近代、もはや近代ではない段階を指しているとも解しうる。しかし、他方では、それは、「ポスト」という接頭辞が付いているだけの近代の下位区分でもある。こうして近代の否定が、近代のうちに包摂されているのだ。これは概念に混乱がある、ということではない。このあいまいさは、近代に本質的に内在しているものである。つまり、近代は自己を否定しながら同時に自分自身を保ち続けるのだ。
--
ポストクラシカルとかネオクラシカルとか(更にはゲソヲソとか)
またそれらへのレコ芸的な評論とか
そういったものにどれだけの意味があるのか/ないのか >>50
以上、活き活きしながら奇特、奇矯なレスをお届けしました~ 硬直化した権威主義の象徴で音楽界にとって害悪でしかない雑誌
廃刊は残念でもないし当然 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています