■邪馬台国で卑弥呼に仕える官「弥馬獲支(ミマワキ)」は「“ミマキ”イリヒコ(崇神天皇)」に対応
実際、崇神も3~4世紀に活躍した人物だと推測されている

■邪馬台国で卑弥呼に仕える官「伊支馬(“イキマ”)」これも崇神の子ども「“イクメ”イリヒコ(垂仁天皇)」に対応

■卑弥呼の後に女王になった「臺与(トヨ)」これは崇神の娘で日本最初の斎王「豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)」に対応

■径100余歩(約150m)とされる巨大な卑弥呼の墓。『昼は人が造り、夜は神が造る』と評されたほど尋常ではない百襲姫の大市古墳に対応。大市古墳の後円部(主体部が眠る)も156m

■魏志倭人伝『卑弥呼が死んだ後に大乱が起きた』これも日本書紀で百襲姫死亡の次の記事にある崇神帝による四道将軍派遣に対応

■魏志倭人伝『倭国大乱を収めるために卑弥呼擁立した』流行り病で国民の半数が死に、百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった時に百襲姫(大物主憑依状態)を祀ったってのと対応


これが全部偶然の一致だと思う人って変だよねぇ?その癖して同じ日本書紀からほぼ記述も無い筑紫の女酋長取り出して卑弥呼だとか言うんだから謎すぎる。日本書紀読んでるなら崇神紀と魏志倭人伝の異常なまでの類似性に気づけよ