【英教育誌】日本の大学のレベルは、パキスタン、ジンバブエ、モロッコ、アルジェリア、ウガンダと同じ [241672384]
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日本の大学の多くが途上国や新興国並みレベル
日本で2位の京都大学でも68位。
他の旧帝大系は東北大学が201~250位、大阪大学251~300位、名古屋大学は301~350位、北海道大学、九州大学は501~600位。
日本の有名私大では慶應義塾大学が801~1000位、早稲田大学、立教大学が1001~1200位、
さらに最下層の1201~1500位に法政大学や日本の国立大学がひしめいている。
同じランクにはパキスタン、ジンバブエ、モロッコ、アルジェリア、ウガンダ、タイ、インドなどの途上国や新興国の大学も多い。
ランク付けの指標に「論文引用」があるため、理工・医科系のある大学が有利な傾向にあるが、
それでも日本の大学の多くが途上国や新興国の大学と同レベルにあることは間違いない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e5c3f071c60778537ff8d395a20ad65f71cd4812 >ランキングは教育、研究、論文引用、産業収入、国際性の5分野13項目を指標 日本の私文はそれ未満だろ
途上国の大学に通えるのは意識高い学生だから そのレベルでノーベル賞アジア1とってるの逆にすごくね >>31
それがどうしたの?
全て大切な要素だから余計ダメじゃん 理系の論文も捏造ばっかだもんな
ノーベル賞受賞でホルホルできなくなってかわいそう🥺 理工も医学部もある慶応が途上国レベルとかカスすぎ
推薦と軽量入試で偏差値釣り上げても世界には通用するわけない なまじたくさん資格や検定の試験があるから国民自体は意外と劣化してないと思う。なおChatなんたらにより薙払われる模様 そりゃ大学生の約7割は学術的にクソの役にも立たない文系学部に行くんやから理系のレベルがどんどん下がっていく
これを是正しない限り日本の科学力は落ちる一方 医学部の優秀人材を科学系に誘導した方が良いと思う
医者だけ無駄に優秀だしな そらそうだ。
この国は受験合格までが学歴なんだから。
その受験難易度すら中韓と比べたら簡単だろ >>53
なんね早稲田がいなく入る必要があんだよ
謝罪しろ! それと日本では企業が博士を修士学士と差別化しないどころか逆に冷遇するせいで博士課程に進む人間がほとんどいないのが問題
博士号取得者が年々減っていってるのは日本くらい とにかく大学卒業までの勉強量もそうだけどトータルの読書量が本当に足りてない
だけどこの国を牛耳ってる満州閥の連中や旧華族階級や明治維新の残党共が総じて愚民化政策を推奨して読書を意図的に遠ざけようとするし
アホ国民もそれに乗って白痴化するしでもう無理 >>43
卒業生評価は早稲田も慶応も東京京大について上位だよ >>63
レポートも少なすぎるんだよな
文系だと4年で300枚くらいか 日本の大学は入るのは難しいけど中身はクソってのは常識やろ >>68
実際内部ではAO入試で入ってきたスポーツ馬鹿が力持っちゃってるからな
早慶ですらそう
私大文系で優秀なのは大抵国立併願の数学受験組と相場が決まってる ジャップランド内でのコミュ力勝負に全振りしたした結果w 教育や研究を軽視する国策が着実に実を結んでいるな
自民党議員たちは本望だろう >>72
そうすると上級の愚息や大衆煽動要員の脳筋バカまで卒業出来なくなるからダメ
実際卒業を厳しくしたところでアメリカみたいに一見すると実力主義だが横のコネクションで試験突破できるようなハック方法が編み出されるだけ
なのでどう転んでも今の評価体制のままじゃ改革は無理 日本のあらゆる問題が最終的には明治テロで実権握ったクソどもの世襲のせいで片付くのは笑える とにかく大卒の肩書だけほしいと だから高卒までの勉強量で学力を測れるように徹底的に入試を難しくする ただ欲しいのは肩書なので大学内の勉強も簡単にする 日本で院卒の地位が低いのもここから説明が付く 即ち大学の中身の勉強で測りたいなら院内の勉強量も当然評価の基準に入るはずなのだが、むしろ文系だと院卒は学部卒よりも評価が低い 実質的に高校までの勉強しかできない暗記マシーンの脳足りんとか、中身や思想的な勉強が足りないアホが、大学内の勉強レベルですらいわば“無知性”と呼ばれるような人々が、日本社会では“高学歴”と呼ばれ、尊ばれるのである… このような状況は為政者や金持ち、既得権益には非常に都合がいいであろう けだし、“日本の勉強は高卒で終わる” 文系だけならもっと低いだろ
コミュ力()重視な日本企業じゃ出世しやすいけどな 論文適用の総量が少ない学問とかはこのランキング意味なくね? 例えば芸術とかさ 前に微積も分からんミジンコって煽ったら
違うIDがギャオオオンして粘着されたことがありました
文系の低レベル化ひどくね それらの大学のレベル知らんけど日本と一緒にされたら可哀想 タイとかインドとか日本よりも勢いがある国が混じってて違和感 論文の質が加速度的に低下してるから30年もしたらノーベル賞出なくなるよ https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/2023/world-ranking
2345大学中
日本 152
アメリカ 179
イギリス 163
中国 95
フランス 46
ドイツ 51
韓国 37
ランキングに入ってる日本の大学の数がやたら多いのが原因
全体の大学数だとアメリカは日本の5倍以上あるんだけど ノーベル賞は年々基準がおかしくなっていくから別にいいんだよ
なんでこの選考理由でコイツらが混じってるんだとかそんなんばっか
それよりも研究の価値を理解できんバカしか居ないことが問題なのだ 実際大学って上位のところでも動物園かと思うような騒ぎ方してたりするし知性なんか感じられないよ
単位は試験前日に過去問やっときゃ誰でも取れるしな >>76
それこそ韓国や中国と比べたらカスみたいなもんだし
欧米の一流大学との比較じゃ言うに及ばず >>31
これ、留学生が多くて「英語」での講義比率が高いとランクが上がる糞指標なんだよね
つまり日本語を棄てろという、典型的な英米の文化帝国主義
たとえば、ベネッセがアメリカの大学で「日本語」での講義比率が高い学校は優秀であると評価したとして、その指標を有り難がるか?
別に日本の大学がいいとは思わんけどな 中卒をFラン大卒にしてもなーーーーーんも意味ないどころか社会的損失になるだけだろ? 日本の大学の学費が高いのもここから説明が付く 即ち欧州の大学は恐らく入るだけなら日本の大学よりも簡単であろう たとえばフランスではグランゼコールは別として大学にはバカロレアに受かれば入れるという しかも学費は無料 ところが入るのは簡単なのに出るのは難しい 難しくて二年時三年時中退でもそこまでで得た単位を評価されるほどだ アメリカもハーバード大学は中退しても後に社会的活躍をすれば卒業資格を与えられるそうだ たとえばゲイツ、ジョブス、ザッカーバーグ 欧米の大学では、日本の大学ほど留学生がバイトをする時間を長く持つことは許されてはいないのだが、これは学業に集中するためと、現地の労働者の雇用を守るためと言われているが、単純に入るより出る方が難しく、「大学内の勉強の評価が高い」ので大学内の勉強に集中する必要があり、また大学内の勉強に集中せざるを得ない環境を整える目的がありそうだ ちなみに、日本の大学卒業率は55%、フランスは40%、ドイツは31%で、欧米は大学の数は多くても出るのが難しく、日本よりも遥かに“中退者が出るのが当たり前”になっている つまり、“日本の大学は遊び”だ 80年代からずっと大学は遊ぶとこやろ
頭良くなるわけない 日本の大学は就職検定で授業もゼミも何の価値もなかったな 既存の大学の7割を潰して進学率を下げること
これが日本復活の唯一の方法 高校もいらん
7割の高校生にとって、高校とはモラトリアム
青春?そんなもん要らんから働いて結婚しろ ここから二つの結論が導き出せる つまり、高卒公務員就職に代表されるような、日本は“高卒までが当たり前である”という主軸と、“学部卒までが当たり前である”というもう一つの主軸である この“大学入試までが難しい”という特性のために、日本は院卒を評価することはないのだが、同時にまた院卒や大学内の勉強を評価しないための条件として、日本の大学は入るのを徹底的に厳しくする必要性がある 日本の大学は大学入試と高卒の地点でこの円環が閉じるのだ ヘーゲル弁証法の否定の否定のように、二つの異なる価値観の相剋が、大学入試と高卒の地点で完了する(岩波文庫のルソー人間不平等起源論の訳注における、エンゲルスのフォイエルバッハ論についての記述を見よ)
(
なぜなら、「美徳について何の期待ももてない*」専制主義の支配するところではどこでも、専制主義は、けっして他のいかなる主人をも許容しないからである。それが口をきくやいなや、そこには考慮すべき誠実も義務もなくなり、極度に盲目的な服従だけが奴隷に残された唯一の美徳となる。
これがすなわち不平等の到達点であり、円環を閉じ、われわれが出発した起点に触れる終極の点である。ここですべての個人がふたたび平等となる*。というのは、今や彼らは無であり、家来はもはや主人の意志のほかなんらの法律ももたず、主人は自分の欲情のほかなんらの規則をもたないので、善の観念や正義の原理がふたたび消滅してしまうからである。
ジャン=ジャック・ルソー
ディジョンのアカデミーによって提出された問題「人々の間における不平等の起原はなんであるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」に関する論文第二部
岩波文庫人間不平等起原論p.126〜127
訳注
一二六 12 「美徳について何の期待ももてない」──ルソー研究家のヴォーンによれば、この句の出典はタキトゥスの『歴史』第一巻二一だという。スタロバンスキーはA・シドニーの既出の『統治論』からの孫引と推定している。
一二七 1 ふたたび平等となる──フリードリッヒ・エンゲルスが『反デューリング論』(栗田賢三訳、岩波文庫版上巻二三二─四ページ)のなかで、この文を、弁証法にいう否定の否定の見事な例証としてあげてから有名になった。スタロバンスキーは、マキァヴェッリが『ティトゥス・リヴィウス論』のなかで、さまざまな政体が、その頽廃と頽廃への反動によって継起する過程をとらえ、極点としての民主主義的自由の頽廃から独裁者の手に移り、同じような経過と原因によって転落を重ねて無政府状態に陥ることを示した点をルソーと比較している。(プレイヤッド版全集第三巻一三五八─九ページ参照)
岩波文庫人間不平等起原論p.241訳注
)
つまり、日本の大学の入試の難しさとは、そのまま“大学内の勉強を評価するな”という圧力である すべては入試で決まる つまり、“高卒時の勉強で決まる” でも今でも世界3位の経済大国だし
経済大国の要因の1つに国民の知的レベルあるし よくこの手の指標の「国際性」がやり玉にあげられるけど、評価のウェイトとしてはめっちゃ低いし、
そもそも一番大事な研究と教育の二項目で世界にボロ負けしてるのがジャップ大学なのをちゃんと理解しような
特に研究力の低下は著しくてもう目も当てられない有様 世界でもトップクラスの中等教育があって異常な低予算でありながら水準の高い教育を実現しているのに
留学生を呼んでこない国と大学発の産業を邪魔する企業に台無しにされてるのが日本の大学だからな フォイエルバッハ論じゃなくて反デューリング論だった 半角になってるしムカつく
一般意志は一般化の根源に位置し、同時に一般化を要請するのである。この必然的な円環が、ルソーにとって政治的なるものの空間を確定している。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 序章 啓蒙の異端者ルソー 永見文雄 訳
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.8
つまり、ルソーの照らし出した“啓蒙の光の影の部分”(ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 序章 啓蒙の異端者ルソー 永見文雄 訳
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.3)を、われわれの“大学入試の難しさ”のなかにみることができる
“日本の大学入試は難しい” このために人々は“日本の大学入試を突破したことに誇りを持つ”のであるが、まさにこのことが、この誇りが、高卒時の学力を過大評価し、高卒時で円環を閉じ、大学内の勉強、また院内の勉強を評価しなくなる“枷”となるのだ… ルソー、ヘーゲル、マルクス… 彼らの唯物弁証法は今日でも有効である 人々は大学院進学を“学歴ロンダリング”と呼び蔑むだろう だが彼らは気付いていなかったのだった 彼らに嵌められた枷、“呪い”に つまり、彼らは“難しい大学入試に呪われた人々”だったのである もし人々が大学内の勉強を評価したらどうなるだろうか? たとえば文系が院卒の勉強を評価したら? 支配者の目線で見れば考えるだに恐ろしいことが起こる 人々はマルクスやヘーゲルやルソーの哲学を当たりまえに学ぶだろう その学問、思想は一種の“常識”にまで高まるだろう 天皇制絶対主義の思想、支配者にとっての“理想”とは相容れない… つまり認識論に革命が起こる
『社会契約論』は、人民の自律と人民主権という主権概念のコペルニクス的転換を明確なかたちで定式化した。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 まえがき 現代によみがえるルソー ──ブリュノ・ベルナルディによる解釈の革新 編者に託した短い序文「ジャン=ジャック・ルソーにおける政治と哲学」
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.ⅱ
つまり、“日本の大学入試の難しさとは、反革命の動機であり、力なのである” コピペとカンニングで卒業できる構造をやめたらええだけやん
論文不正が多いのも卒業基準が甘すぎるからだよ >>102
派遣大国の日本のGDPなんぞハリボテだぞ
なんせ1億円の仕事を9次請けまで流して中抜きするだけで数億円のお金が動いたことにできるんだからな 正確には、大学でやる学問と、ルソーや後期のマルクスやショーペンハウアーがやったような、“非大学的な哲学”(これが彼らにとって非常に評価された。私がいま挙げた3人は、特に後者2人は、大学の成績も優秀ではあったが、彼らが獲得した世界観は、大学を出てからしばらく経ったあと、大学とはなんらも関係のない世界で獲得された たとえばマルクスの資本論のサブタイトルは“経済学批判”であるが、彼の思想の本質を表している… 彼は大学の学問、“経済学”を“批判”したのであった)は違う ところで大学の学問は“なんらの意味もないもの”だろうか? 観念論的、弁証法的にはこうした見方には価値があるものだろうが、唯物論的にはそういうわけではないだろう… どんなに愚劣な頭の持ち主でも、偉大な哲学者の主要な章を読めば、それなりの影響を受けるものだ
哲学的思想は、ただその思想を創始した人自身から受けとることができるだけである。だから哲学を勉強したくてたまらない人は、哲学の不滅の教師を、その教師の著作それ自体という、もの静かな聖殿の中に探したずねなければならない。不滅の教師ともいうべきほんものの哲学者なら誰でもいい、その人の主要な章を読めば、それについて凡俗の頭脳が作製した冗漫で斜視的な解説文よりも百倍も多くの洞察が、その人の教えについて得られるであろう。
さらにつけ加えていえば、凡俗の頭脳はたいてい深くそのときどきの流行哲学にとらわれ、自分らの思いこみにとらわれているものなのである。それなのに、まったく呆れたことだが、読者階層はじつにきっぱりと、他人の手になる解説祖述には好んで手を出したがるのである。こういう場合、実際には、親和力がはたらいているらしく、平凡な人は親和力のおかげで、自分に似た人に牽きつけられるのであり、したがってまた偉大な精神の持主が語ったことですら、自分に似た人から聞き出したがるのである。ひょっとするとこのことは、子供たちが、一番よく学ぶのは自分の仲間からであるという、相互教育のシステムと同じ原理に基づいているのかもしれない。(一八四四年二月、第二版への序文)[12]
ショーペンハウアーwikiquote
https://ja.m.wikiquote.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC
ところで、偉大な著作についての解説ということであれば、大学の講義は相応しいけれども、偉大な著作を直接読むということで直接に指導される教育、偉大な著作を読まなければ話にならないような学問をするという意味では、当然大学の学部よりも大学院のほうが向いているであろう ショーペンハウアーはのちに大学の学問をボロクソにたたいたひとではあったが、彼は大学の学問ができないひとではなかったのである… こういう次第であるから、“革命には大学院のほうが向いている”のである けだし高卒までの勉強しかできない暗記オバケ、しかも大学内の勉強は暗記する気のない暗記オバケでは、革命には役に立たない… これは暴力革命の話だけではなく、認識論についての革命でさえそうなのだ… カントは大学の教授ではあったが、ルソーのエミールに感銘を受け、しかもフランス革命に否定的なひとではなかったのである…(「テロと戦争」の時代、フランス革命は終わらない[前篇]
https://book.asahi.com/jinbun/article/14674824 p.11部分参照) つまり、“真の学問は、いかなる意味であれ、革命を誘発する” マルクスはもちろん、カントやショーペンハウアーは凡人が思うほど革命に否定的な人々ではなかったのだし、革命に否定的だったゲーテでさえ、ルソーを否定したものではなく、ヘーゲルでさえルソーに一定の評価を与えた… つまり、“反革命とは一種の無知に基づいている”のであり、ここ日本において、“大学入試至上主義こそが反革命の目であり円環の終局点なのである”… ここではすべての学問が大学入試で終わり、そこより先はない つまり、“革命のために大学入試をつぶせ” >>47
なのに半分ダウンタウンのせいみたいな奴がいるんだよw 失われた30年はわれわれの文化の敗北であった(「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった」角川源義による角川文庫発刊の辞 角川文庫あとがき から自由に引用)もちろんこの敗北を“大学入試の難しさ”だけに帰することはできない たとえばこの30年に台頭した強大な世襲政治などは政治学的には大きな、根本的な原因の一つと認められるだろう… しかも同時にまた、欧米先進国を始めとする大学の文化は、日本の文化に勝利した30年であったことも明らかだ このような大学制度は解体すべきであろう つまり、“無論大学は革命の対象だ” フランス革命にせよロシア革命にせよ、革命がその当時の教育機関を“革命”しないということはあり得なかった… 当然、われわれが革命を起こした暁には、大学を始めとした教育制度も“革命”されるべきであろう つまり“革命は必ず教育を革命する” >>112
THEの項目比重の中で教育研究は65%のウェイトを占めるのに対し国際性はたったの5%
https://en.wikipedia.org/wiki/Times_Higher_Education_World_University_Rankings
研究力の低下に関してはググれば多分複数のソースが出てくるから勝手にググってくれ われわれは、“大学入試”というところで閉じた円環を、ふたたび“革命”によってこじ開けるべきであろう…
(
(22)鳴子博子は「ルソーによって書かれなかった最後の一点、つまり革命を置くことによって、円環のこの終局点と起点は重なりあい、円環は閉じる」(『ルソーにおける正義と歴史』中央大学出版部、一七六ページ)と指摘しているが、これは正しいだろう。革命がなければ真の自然状態は成立しないのである。『社会契約論』を考察した書物は多いが、ルソーの民主主義の理念をもっとも鋭くとりだしているのは、鳴子のこの書物だと思う。
中山 元
解説──『社会契約論』の構成
光文社古典新訳文庫社会契約論p.559〜560注
)
つまり、“革命によってしか新しい社会は来ない” >>89
これな
俺が現実よ
上位大学行ってれば日本の大学に期待なんか出来なくなる
東工大と一橋ぐらいだろ、まともなの それが唯物論的なものにせよ、観念論的な、弁証法的な、言葉のウエでの象徴的なものであるにせよ、革命によってしか革命、つまり社会変革は起きない、このことはあきらかだ… そしてひとびとは、どんなひとであれ、いまの社会に変わってほしいとおもっている… ひとびとは潜在的な革命家なのだ 思想と哲学、真の学問がそれに解決を与える… つまり、“大学入試の変革、それ自体が革命であると同時に、また革命への道としての、円環であり、始まりなのである”
( 「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。」これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える。
この契約の諸条項は、行為の性質によって、きわめてはっきり決められているので、すこしでも修正すれば、空虚で無効なものとなってしまうだろう。だから、この条項は、おそらく正式に公布されたことは一度もなかったのであろうが、いたるところにおいて同一であり、いたるところにおいて暗黙のうちに受けいれられ是認されていた──社会契約が破られ、そこで各人が自分の最初の権利にもどり、契約にもとづく自由をうしない、そのためにすてた自然の自由をとりもどすまでは。
この諸条項は、正しく理解すれば、すべてが次の一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員をそのすべての権利とともに、共同体の全体にたいして、全面的に譲渡することである。その理由は、第一に、各人は自分をすっかり与えるのだから、すべての人にとって条件は等しい。また、すべての人にとって条件が等しい以上、誰も他人の条件を重くすることに関心をもたないからである。
ジャン=ジャック・ルソー
社会契約論または政治的権利の諸原理第一編第六章社会契約について
岩波文庫社会契約論p.29〜30
──真理とは、自己自身が生成することであり、自らの終りを自らの目的として前提し、始まりとし、それが実現され終りに達したときに初めて現実であるような、円環である。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
精神現象学 序論
平凡社ライブラリー精神現象学(上) 電子版サンプル部分
)
“世界はヘーゲル弁証法的に推移する” マルクスとヘーゲルの立てたこの真理のただしさは自明だ… つまり、“社会も学問も認識も、すべては弁証法的に革命論的に推移する” “革命なき社会はあり得ない” 革命とは破壊すべきものを破壊することであり… 同時にまた将来に渡って破壊すべきものを破壊し続けるところの、円環なのである… また教育とは、人を社会に押し出すための始まりであり、また押し出し続けることの、円環なのである…
『エミール』は、自然状態から社会状態へと押し出された人間が社会の中でいかにして自由で独立の存在でありうるか、その道程を示す。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 まえがき 現代によみがえるルソー ──ブリュノ・ベルナルディによる解釈の革新 編者に託した短い序文「ジャン=ジャック・ルソーにおける政治と哲学」
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.ⅱ
つまり、“革命は、起こったと同時に、起こり続けるところの、円環なのであり、教育もまたそのような円環なのである” >>94
へえ
海外の大学では中退でも評価されるのか
それって、入るだけで評価される日本の大学とどう違うの? >>122
単位を取得するのが難しいので、単位だけで評価される 教育をもし圧制者が支配したらどうなるか? 彼は社会に出るよう教育される人々を抑圧し、また、“抑圧し続ける” ここに圧制の円環は閉じ、“永続化”する
人民の恒久的状態からこそ、彼らの真の繁栄または災厄が生まれるのである。
ジャン=ジャック・ルソー
社会契約論または政治的権利の諸原理第三編第九章よい政府の特長について
岩波文庫社会契約論p.119
つまり革命は始まりであり──ある種の“永遠”なのである “永続する物語としての革命が成り立つ” それは現代日本社会に生まれた者が、ほとんど例外なく学校教育を受けることにも似ている── 革命が永続化するように、教育も、それ自体人間にとって必要なものでないにも関わらず、“永続化”する 社会にある種の“終わり”が来ない限り、この教育の円環が閉じることは、ない 革命は制度を作り、それを恒久化させる
「社会の発生にさいしては」とモンテスキュはいっている。「制度をつくるのは共和国のかしらだが、あとではその制度が共和国のかしらをつくる(三)。」
ジャン=ジャック・ルソー
社会契約論または政治的権利の諸原理第二編第七章立法者について
岩波文庫社会契約論p.62
恐らくルソーが「わたしのいちばん尊敬されていい書物、いちばんりっぱな書物」(ルソー「告白」第十一巻、岩波文庫エミール(上)p.6解説──ある読者のために──)と呼んだエミールが、教育論の本だったこと、歴史上の革命がその進行において教育の革命を重視したことは、なんらの偶然ではあるまい…
この移りゆきは奇妙に思われますが、おそらく最も自然なものです。
ジャン=ジャック・ルソー
学問と芸術の復興は、習俗の純化に寄与したか、どうか、について第一部
岩波文庫学問芸術論p.14
つまり、“革命と教育は、一種同一の対象を持つ”のである… 学歴コンプあるやつが日本の大学はクソだから価値がないとか言ってそう おそらく、革命に否定的なわが国の政府がつくった大学が、あのていどのものだったことも、“不自然なものではなかっただろう” 政府と教育は不自然なものだったにせよ、不自然なものから不自然なものが起こることは、弁証法的に言えば必然だった
世界は出来上がっている諸事物の
複合体としてでは無く、諸過程の複合体として捉えられねばならず、そこには見かけの上で固定的な諸事物も、われわれの頭脳にあるそれら
諸事物の思想上の映像、つまり概念におとらず、生成と消滅の絶え間な
い変化の内にあり、この変化のうちで、
見掛けの上では偶然的なすべての物事にあっても、またあらゆる一時的
な後退が生じても、結局は一つの前進的発展が貫かれているという偉大
な根本思想・・・
エンゲルス
フォイエルバッハ論
http://minsei.seesaa.net/article/22989069.html
弁証法において重要なことは、出来上がったものではなく、変化し続けるものであり、むしろ、“変化そのもの”なのである
「すべてのものは対立している」
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
小論理学 第二部 本質論 一一九 補遺二
岩波文庫小論理学(下)p.33
ここからマルクスの階級闘争論、革命論が出てくる
今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である
カール・マルクス
共産党宣言
つまり、“すべては革命のためにある” 集計の仕方が変なんだろう
国際性とかいわれても日本はなにかと国内で完結できちゃうからな まあ就職資格にしちまったらそうもなるよなジャップ全体が望んだことだし仕方ない
報いは現在受けている最中だけど成長しない何十年 そそ、日本の大学は学問をするわけじゃないからな
企業にとって都合のいい就職予備校へと政府が音頭をとって誘導してきたんだから当然の結果よの >>129
かといって余り舐めてると単位も平気で落とすけどね。
それはともかく、そもそも日本は(特に文系)エリート層じたいが、
中高=取り敢えずマジメに受験勉強
学部=取り敢えずマジメに単位だけ取って就活、卒後は官界・法曹界・有名企業へ
、、こういう育ち方しかしてないから。
だから有名大卒でもそもそも「教養」とか「学問」とかよく分かってない。
だから平気で成田悠輔とか持ち上げられちゃう。
「アレ、持ち上げたらアカン奴や」とかエリート層じたいがよく分かってないんだよ。
※要するに成田もマスコミ人・ビジネスエリート・官僚みたいな層が持ち上げてたわけで。
みんな「低学歴・無教養」煽りが大好きだけど、そもそも日本はエリート層じたいが大した
「教育」など受けていないのですよ(´・ω・`)
こういうのって修士博士がデフォになれば改善するのかね?
個人的にはそれもまた怪しいというか、院卒がデフォになっても新たな学歴煽りのネタに
堕すだけだろうなと\(^o^)/ “人間よ、革命家であれ”
完全な社会とか、完全な「国家」とかいうようなものは、ただ空想のうちにしかありえないものである。
フリードリヒ・エンゲルス
ルートヴィッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結 一 ヘーゲルからフォイエルバッハへ
岩波文庫フォイエルバッハ論p.17
完成させることではなく、革命し続けること、変化させることが重要だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています