東大助手を27年務め、水俣病の患者調査でも知られる最首悟さん（86）は、妻の五十鈴さん（80）、重い知的・身体障害がある娘の星子さん（46）と3人で暮らす。2018年4月、一通の手紙を受け取った。差出人は「植松聖」とあった。
16年7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害され、職員2人を含む26人が重軽傷を負う事件が起きた。その被告からだった。
植松聖（さとし）被告（現死刑囚、事件当時26歳）は、やまゆり園の元職員だった。「意思の疎通ができない人たちをナイフで刺した」「障害者の安楽死を国が認めてくれないので、自分でやるしかないと思った」。供述内容に社会は大きな衝撃を受けた。
衆院議長公邸に16年2月に手紙を持参していたこともわかった。「障害者は不幸を作ることしかできません」などと書いていた。
最首さんは事件後、新聞などで自分の考えを明らかにしてきた。朝日新聞では「いまの日本社会の底には、生産能力のない者を社会の敵とみなす冷め切った風潮がある。この事件はその底流がボコッと表面に現れたもの」と述べた。
植松被告は最首さんの考えを新聞などで読み、手紙を送ってきたのだった。「国債（借金）を使い続け、生産能力の無い者を支援することはできません」。丁寧な文章で差別的な言辞が記されていた。
「いくつもわからないことがある」と感じた最首さんは植松被告と面会。18年7月からは毎月、手紙を出し続けた。神奈川新聞で公開もしてきた。
まず、植松被告が手紙で使った「心失者」という言葉について書いた。「心を失う、心が失われる」という意味かと思われるが、「心失者という人、人間はいない」と結論付けた。
星子さんの排便の話を書いたこともあった。1週間か10日に1度排便すると家中に「陽気な気分が漂います。よかった、よかった。そして本人は気持ちよさそうに寝入ります」。
粘り強く手紙を書き続けた。20年3月に死刑が確定した後も拘置所に手紙を送った。21年2月から「不在」の付箋（ふせん）付きで返送されるようになったが、それでも出し続けた。自分たちに奥深く潜んでいるかもしれない“植松青年”宛てに書き続けるという。今年3月で57通になった。
22年1月の手紙では、哲学者の森有正さん（1911～76）の言葉を引く形で、自分は〈あなたのあなたとしてのわたし〉〈あなたを欠くことができないわたし〉なのだと思うようになったと書いた。
長くフランスに住んだ森さんは「日本人は独立の個人として物事を考える能力が弱い」と批判的な文脈でこの言葉を述べたが、最首さんは逆に、そこに“光”を見た。
「わたしはあなたに一目置いて、あなたを頼れる人だとみなし、あなたもわたしを頼っている。あなたも、わたしも、球面上にいて相対している。球面はいたるところ中心なので、あなたもわたしも中心にいる。時と場合で主役、脇役が入れ替わるのです」
1994年3月、27年間続けた東大助手をやめる際に「最初にして最終講義」を行い、「問学（もんがく）」を宣言した。植松死刑囚宛ての手紙で、これを「問うことが主の思考」と説明した。「人には、どんなにしてもわからないことがある。そのことが腑（ふ）に落ちると人は穏やかな優しさに包まれるのではないか。『問学』はそういう営みです」
自分は、そして星子さんはどのような存在なのか。最首さんは今日も「わからない」ことを真正面から受け止め、「あなた」と「わたし」を考えている。（神谷裕司）
さいしゅ・さとる 1936年、福島県生まれ。東大理学部に進み、大学院でウナギの内分泌などを研究した。1967～94年、東大教養学部助手。68年には東大全共闘の助手共闘の結成に参加した。その後、水俣病の調査団にも加わり、助手辞職後は和光大教授などを務めた。77年から現在まで予備校講師もしている。著書に「生あるものは皆この海に染まり」「半生（はんなま）の思想」「星子が居る」など。
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