「明治維新」起こさねば
 「航空機の開発経験がなくて困っている。リタイアした技術者でよいので来てほしい」
 2012年の秋ごろ、MRJを開発する三菱航空機(愛知県豊山町)の副社長だった川井昭陽(75)は欧米を駆け巡り、米ボーイング社の役員や関係者に会っては、熱心にお願いを繰り返した。川井は翌年1月に三菱航空機の社長に就任することが内定していた。
MRJの開発を巡っては、商用化に必要な「型式証明(TC)」の取得作業が難航していた。川井は「開発経験がなく、開発がどんなものかをみんなが知らないことが大きな弱点だ」とみて、経験が豊富なボーイングの技術者を「先生」として派遣してもらおうと考えたのだ。
 TC取得のノウハウを他のメーカーに教えることは、将来のライバルを育てることにもなる。川井は座席数が百席以下のMRJはボーイングの競合相手ではないことを丁寧に説明した。
 当時、ボーイングの民間機部門トップだったレイモンド・コナーとは共に食事をする親しい関係でもあり、川井の熱意に動かされたのかもしれない。開発を終えた「777」に関わり、既に退職したベテランの技術者を送り込んでもらう約束を取り付けた。当初は数人だったが、最終的には15、6人にまで上った。
 技術系に事務系、営業系と出身がさまざまな7人の社長の中で、3代目の川井の経歴は特別だった。1973年の三菱重工業(東京)への入社後、名古屋航空機製作所(名航)に配属され、米国で9?11人乗りの国産ビジネスジェット機「MU300」の開発に参加。飛行試験にも携わった。
 最大の障壁だったTCの審査は、米連邦航空局(FAA)が担当した。当時、川井より5歳年上で先生役となった元ボーイングの技術者は、機体の性能と安全性のバランスを取りながら、当局を納得させつつ、自分たちの要求を通していく。この論理的なやり方を目の当たりにした川井は大いに刺激を受け、そのノウハウを必死で吸収した。そして81年、ついにTC取得にこぎ着けた。
 操縦性に優れるMU300は機体としての評価は高かったが、販売面で苦しみ、88年には事業ごと米国の航空機メーカーに売却された。以降、MRJまで三菱重工単独での機体の開発計画はなかった。
 川井は「MU300の事業が終わった時は悔しかった。首脳陣は何を考えているんだと思った」と振り返る。その後は、ミサイルやエンジンを開発する現在の名古屋誘導推進システム製作所(名誘)に移り、いったんは航空機部門から離れた。
 名誘所長や三菱重工取締役を経て、三菱航空機の社長に就いたのは13年1月のこと。民間機開発の経験者として「TCの取得を何よりも優先させなくてはいけない」と覚悟を決めた。
 「日本人としてTCの取得経験がある最後の世代だ」と語る川井は自らの体験から、外国人を招いて西洋の先進技術を取り入れた明治初期の「お雇い外国人」にならい、「明治維新」のような大きな社内変革を狙った。
 開発の中心を担っていた名航出身の40?50代の日本人技術者たちは、川井の目には「素人集団」に映った。それなのに、誰ひとりとして「先生」の助言に耳を傾けなかった。「根拠のない自信がまん延していた。『ピノキオ』になっていた」と川井は語る。
 「どうして三菱航空機の技術者は言うことを聞かないんだ」。素直に教えを受け入れない現場を前に、元ボーイングの技術者らは、あきれて日本を後にした。

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