2 歴史時代の火山活動

(1) 延暦噴火と古代東海道の被災
文字に書かれた日本の歴史の中で、富士山の過去の噴火は、どのくらい古い時代まで
さかのぼることができるのだろうか。
8世紀前半までに詠まれた和歌を集めた『万葉集』には、例えば「燃ゆる火を雪もち消し、
降る雪を火もち消ちつつ……」(巻三・雑歌)などというように、富士山の火山活動を題材と
した作品が含まれている。しかし、詳しい現象記述がないため、火山活動の年代・場所・様式
などの特定はおろか、「火」が本当に噴火なのか、あるいは地熱活動なのかの判断すら困難で
ある。 富士山の具体的な噴火記述が初めて現れるのが、朝廷によって編纂され、主に奈
良時代の事象が記録された歴史書『 続日本紀 』の天応元(781)年条である。ここには
「秋七月癸亥、 駿河国言、富士山下雨灰、灰之所及木葉彫萎」とあり、富士山が噴火して
降灰があり、植生に被害があったことが、7月6日(7月31日)に当時の駿河国によって
報告されている。しかしそれ以上の詳細についての記述はなく、噴火の規模・様相、及び現存する
溶岩流や火山灰層との対応関係などは不明である。
その19年後、平安時代初期の延暦19(800)年から再び富士山が噴火した。
「延暦噴火」と呼ばれるこの噴火については、当時の朝廷の公式記録『日本後紀』の該当部分が
既に失われて現存しないが、平安時代末期になって書かれた『日本紀略 』の中に抄録されていたため、
辛うじてその存在や内容を知ることができる。
『日本紀略』には、「延暦十九年六月癸酉、駿河国言、自去三月十四日、迄四月十八日、
富士山嶺自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火光照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也」と
書か れている。延暦19年の噴火が3月14日(4月11日)から4月18日(5月15日)までほぼひと月
続いたこと、噴煙のために昼でも暗く、夜は噴火の光が天を照らし、雷のような鳴動が聞こえ、
火山灰が雨のように降って麓の川が紅色に染まったと記述されている。噴火の記述はここで
いったん途絶えるが、2年を経ないうちに再び次の記述が現れる。
同じく『日本紀略』に、「延 暦廿一年正月乙丑、駿河相模国言、駿河国富士山、昼夜?燎、
砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、 于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘?殃」とあり、
富士山が噴火して砂礫があられのように降っ たことを、駿河国と相模国の国司が延暦21(802)年
正月9日(2月13日)に報告している。さらに、そのすぐ後に、次のような注目すべき事実が
記述されている。 「五月甲戊、廃相模国足柄路、開筥荷途、以富士焼碎石塞道也」
同(802)年5月19日(6月22日)に、富士山の噴火による砕石によって塞がれた足柄路を捨てて、
箱根路(筥荷途)を開いたとの記述である。
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1707_houei_fujisan_funka/pdf/1707-houei-fujisanFUNKA_05_chap1.pdf