
1556年に広州を出航した鄭舜功一行は、台湾沖、南西諸島を通過して日本の領域内入ったところで暴風雨に遭い、京都に直行できずに豊後水道から豊後に入る。
時の豊後の君主は、九州戦国の雄にのし上りつつある大友義鎮(宗麟)だった。鄭舜功はその後、この豊後で6ヵ月を過ごすことになる。
このころ、中国が日本人に抱いていたイメージは、たとえば1607年に編纂された民間の百科事典に登場するイラストの姿である。高麗国(朝鮮)の住民は衣服を整え、靴を履く姿で、
大琉球国(琉球)の人物像は着物を羽織り、裸足姿で描かれるのに対して、「日本国」の住民は、諸肌脱ぎで裸足、刀を担ぎ、いかにも凶暴な姿である。
さらに日本国の説明には、「もっぱら沿海を強盗して生計を立てている。中国人は『倭寇』と呼ぶ」とある。これは「嘉靖大倭寇」が終息した後の記述だが、凶暴で野蛮な日本人が、ステレオタイプとしてすっかり固定しているのである。
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