兵庫県丹波市の、知的障害がある人などが利用する福祉施設、社会福祉法人恩鳥福祉会「たんば園」で、
利用者たちと一緒に自動車部品をつくったり、アドバイスしたりしているのは、職員の糸井博明さん(49)。
4月から働き始めたばかりで、「生活支援員」として障害がある人たちの自立をサポートする仕事をしている。
「みんなと一緒に作業ができることが楽しいです」と話す糸井さん。実は14歳から31歳まで、17年間自宅に引きこもっていた。
糸井さんは、3人兄弟の次男として、京都府宮津市で生まれ育った。母方の祖母と、父親、母親、兄、弟との6人暮らしだった糸井さん。
異変が起きたのは、中学1年の頃。授業についていけなくなり、成績が下がり始めた。同級生に追いつけず、劣等感が増していく。
しかし家族に相談しようにも、当時祖母と父親の仲が悪く、父親はそのストレスを、物にあたったり、壊したりして解消していた。
そんな父親を前に、家でもおびえるような毎日。とても、相談することはできなかった。
糸井さんは、「祖母や父親の顔色をうかがい、どうすり抜けようか、生き延びようか考えていた」と振り返る。
糸井さんは、中学2年のある日を境に学校にいけなくなり、いつしか、自分の部屋から出られなくなった。
糸井さんは、当時の心境について、「引きこもる期間が長くなればなるほど、外に出ることが怖くなっていった」と話す。
糸井博明さん:
社会の圧迫感とか一般論とか世間体とかにさらされるんで直視できない。
十何年、周回遅れで同級生がもう大人になったり、社会人になったり家庭を持ったりしているのに、私がそこに出ていったら、私というちっぽけな存在はつぶれてしまうんだと。
ここだけが私が辛うじて生きていける最小限の空間。虚無というか、何もない空間の中で、この部屋の中が私の世界だったかもしれないです
引きこもっている間、糸井さんは家族も含めて、誰とも会話することはなく、部屋の窓から外を見ることもなかった。
外との唯一の接点はテレビで、NHKの教育講座を書き写すことが日課だった。
一方、この状況に家族は困惑していた。
当時から、自宅で美容室を営んでいる、母親の綾子さんは、仕事で忙しい中、息子がなぜ引きこもってしまったのか分からず、話すきっかけすらつかめなかった。
しかし、誰にも相談できなかったと話す。
綾子さんは当時のことを、「私が(糸井さんのいる)2階に上がってご飯を食べようって言っても、部屋の戸につっかえ棒のようなものをかけて開けてくれなかった。
悲しかったが、どうしようもなかった」と振り返る。
◆15年目を過ぎた頃…心と体が悲鳴
1年、また1年と、時間だけが過ぎ、ひきこもり始めて15年を過ぎた頃、糸井さんの心と体が悲鳴を上げ始めた。
髪はひざ下まで伸び、歯もかけ、「誰かが襲ってくるかもしれない」という被害妄想も出てくるようになった。
「このままでは死ぬ」。そう思った糸井さんは、生きた証しを残そうと、紙テープで血染めの歯形をつくった。
それを近くの病院に送るため、手紙にしてポストに投函した。糸井さんなりの、精いっぱいのSOSだった。
糸井博明さん:
歯が痛いとか歯医者に連れて行ってくれとか、学校にもう一回行き直したいとかを両親に言えたら、何かきっかけになったかもしれないけども、
それをする力も信頼も失われていたんです。信頼感も。だから、送りつけることで、誰か気づいてくれたらと
その行動がきっかけとなり、糸井さんは家を出て、精神科のある病院の閉鎖病棟に入院した。
そして、統合失調症と診断された。
その時31歳。引きこもってから、17年がたっていた。
(長いので以下ソース)