札幌遺体切断事件の父「優しい先生」には別の顔? 過去にブログで「獣には獣として」
https://dot.asahi.com/articles/-/198719

「ヒト」と「人間」の境とは

 戦争の報道を取り上げて、こんな生々しい内容も記していた。

<「どうして人殺しをしてはいけないの」に対する根拠は乏しい、と鬼の首でもとったような底の浅い論が出まわった。そもそもどのような問いにせよ「どうして」に答えるのは至難の業なのだが>

<「殺す」が「傷つける」の究極と考えれば、人間関係とは「その関係の維持には『傷つけない(殺さない)』ことが必要だが、関係を維持すれば必ず『(殺さない程度に?)傷つける』ことがある」という矛盾(のようなもの)を孕んでいる。しかし括弧書きしたように殺すと傷つけるは程度(量)の問題だけではなく、質的な境界が(幅はあるが)存在する。それが「ヒト」と「人間」の境>

<再度問われる。「人間を殺して何が悪い」と。悪いなどと一言も言ってない。殺した時点で貴方は「人間」ではなく「ヒト」という獣になるんだよ。それは「人間」としての貴方の自殺行為ですと。その覚悟があるかと問い返したいのです。「では肉親を殺されたら?」。その時点で相手は「私にとって」獣です。獣には獣としてそれなりに応じてあげるのが礼儀ってもんです>

 殺人について「悪いなどとは一言も言ってない」「獣には獣としてそれなりに応じてあげるのが礼儀」と殺害を肯定するような言葉が並んでおり、バンドで歌っていた「ともに頑張って生きよう、あきらめないで」といった雰囲気とはまったく異なる内容だ。