批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

クリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」観た。日本では公開は未定となっている。

 同作は米国ではバービー人形を実写化した「バービー」と同時公開となった。両作を組み合わせ、キノコ雲をモチーフにしたコメディータッチのファンアートが「バーベンハイマー」なる名のもとで流行し、日本で強い反発を買った。「バービー」の配給会社は7月31日に謝罪を表明したが、両国の原爆投下への感度の差を顕わにした出来事だった。

 そのため日本では「オッペンハイマー」についても警戒感がある。同作は原爆開発を主導した同名の科学者を主人公にしている。開発過程は丹念に描かれるが、被爆者の悲惨さは映像でなく台詞で言及されるだけだ。問題意識に欠けるとの非難はありえよう。

 しかし、筆者の印象では同作は基本的には反戦反核映画である。オッペンハイマーは確かに原爆を開発した。しかし反戦運動にも近づいていた。戦後は原爆の父として一時栄光を手にするが、原爆投下の結果に衝撃を受け水爆開発に反対し、赤狩りの時代がくると逆に告発されてしまう。映画はそんな時代に翻弄される科学者の心情を、人間関係の悩みを含めて丹念に描き出している。

 人はだれでもまちがう。ノーランが主題としたのは「まちがう科学者」としてのオッペンハイマーだ。そんな映画を「加害側が主人公だ」という理由で拒絶するのは残念だ。日本でこそ公開されてほしい。

 広島・長崎への原爆投下は大量虐殺であり正当化できるものではない。バーベンハイマー騒動は、残念ながらそれが世界の常識になっていないことを示している。鈍感な米国の消費者に怒るのは当然だが、同時にそれを許してきた日本の外交姿勢も省みるべきだろう。5月の広島サミットでも、バイデン米大統領の原爆資料館への訪問には配慮が滲んだ。

 核抑止の平和はリアリズムだろう。しかし核使用の途方もない残酷さも現実だ。前者を認めることは後者への沈黙を意味しない。核抑止が再注目される時代だからこそ、日本は被爆国としての責務を忘れてはならない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6236369e8780a7b8dd6f7c1b2b10d1a80392a4be