1月18日午後4時頃、托鉢寒行で楊樹浦を回っていた日蓮宗系の日本山妙法寺上海布教主任天崎啓昇と水上秀雄の僧侶2名と信徒3名 (後藤芳平、黒岩浅次郎、藤村国吉)の
計5名の日本人が三友實業社タオル工場附近の馬玉山路で50~60名の中国人により襲撃され、水上が租界内の外国人経営病院に収容された後24日に死亡し、天崎が全治6ヶ月、後藤が全治1年の重症を負った[11]。
日本の外務省調書によると、300人以上が襲撃に参加したという[12]。18日、村井倉松上海総領事から呉鉄城上海市長に対し謝罪要求などがなされ、
27日に最後通牒が出され、28日に日本側の要求が承認された[13]。

当時の上海公使館附陸軍武官補田中隆吉 (当時は少佐、最終階級は少将)は、1931年10月初頭、板垣征四郎大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼され、
その計画に従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた、と1956年になって証言した[14][15][注釈 1]。


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