文学部哲学科卒だけど質問ある? [322949747]
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>>129
「スプー」はドコモのスマホ回線からの書き込みです。
「スプッ」「スプッッ」などIPアドレスによって細分化されています。 俺はスフッで彼はスッップ
つまりIPが違う=回線が違うという事 まあレスバに負けたくない人なんだろうけど
人を無理やり別人認定するのは良くないと思うぞ >>65
答えられないなら結構です
ありがとうございました
( ´・∀・`) >>80
当人には認識不能でも他人から見たら丸わかりってケースもあるぞ
それを恐れるといたずらに攻撃的になる
もうお肌のために寝ちゃったみたいだけどw( ´・∀・`) >>138
裸のためって女なの?
話した感じではもろおっさんだったけどw >>37
あ、間違い無くあなたにもムリ
自我自己顕示欲承認欲求アイデンティティー
このいずれも真理真実また事実からさえ遠ざからせる
そんなモノが全く不要であると理解出来ないうちはまずムリ
( ´・∀・`) >>139
まあ本人が女だってんだからそういうことにしとこうよw
( ´・∀・`) 人はそれまでの感覚やら経験やらでイメージを形成し、認識や判断とはそのイメージを用いて為されるものとする。
たとえば、お腹痛い→うんこした→スッキリしたという経験から(お腹痛いからうんこしよう)となるとする
それを踏まえて「自分とはなにか?」を考えた場合、自分の感覚やら経験とそこから生まれたイメージを照合して一致すれば「これは自分である」とわかる
しかし、自分の感覚やら経験の照合先のイメージが自分以外の「〇〇とはこうあるべき」となってしまった場合どうなんのか?
それは「自分は自分ではない」という認識を産んでまうのであって、そういうのがLGBTとかの悩みに繋がんでないの?とは思う
知らんけど これは「エロ漫画を見たらシコシコしたくなる」という自己認識があった時に「エロ漫画を見てシコシコすべきでは無い」という規範により自分のイメージの照合先を奪われてまった時に「自分とはなんなんか?」と自己認識が不安定になって鬱になってまう事は必然であると思うんよ
知らんけど >>135
ナイナイ(ヾノ・∀・`)
謝ったら負けと思い込んでるキチガイだろコイツ
こんなのがたとえ仮面被っててもマトモな社会生活営めてる訳ねえ罠w ホモの哲学者とか出てきたら面白いよな
ノアハラリが一応ホモだけど
人類史妄想するよりホモの哲学者としてホモ論を突き詰めて欲しい >>146
まあ今生きてないし
もし当時ホモ文化がなくてもホモになってたなら真正ホモだが
それもわからんし 野良のキリスト者的な人が
ウヨ系のコテのIKHと間違えられてるのか >>148
人を見抜く目もフシアナさんかよw
こいつ何だったら出来るんだよマジでw 中島義道言うに
「哲学学習者にカントやニーチェその他哲学者の業績を問えば
たちまち洪水のような答えが返ってくるでしょう」と
「しかし例えば自我とは?時間とは?と問うて
待っていましたとばかりに答える学習者はほとんどいないでしょう」と
本スレに於いては私事ながら>>65や>>114など
当人の「知識(暗記能力)」でなく本質的な「認識能力」が問われる局面になると
途端に話を誤魔化すのはやはりまだまだ研鑽が足りないのかなと
まあ本人もその至らなさが分かった上で
こんなトコでブレイキングダウンやってんだろうけどさ
ワシももう寝よ( ´・∀・`) >>80
認識するためにはそれを特定する必要がある
そのためには名付けなければならない
それは囚人番号のように自然数でもいい
しかしカントールはすべでの実数を名付ける=番号を振ることが不可能であることを証明した(対角線論法)
言い換えれば全ての実数は存在を示すことはできるが特定すること=認識することが不可能なのである >>80
仏教においてもそのような概念がある
因に対する縁だ
通常縁は間接的原因とされる
しかしそれは日常言語の限界でそうとしか表現できないからだ
間接的原因とされるものはは別に考察され名付けられている
アビダルマ哲学における能作因増上縁増上果だ
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%95%E3%81%84%E3%82%93
「所作因」とも「随造因」ともいう。
あらしめる因。あるものが生ずるとき、そのさまたげとならないもの。最も広い意味で因果関係を考えるときには、あらゆるものが互いに連関しているから、どのダルマも自ら以外のすべてのダルマを原因としている。
そういう原因を能作因とよび、その意味での結果を増上果とよぶ。一つの結果が生起するとき、他のすべてのものがさまたげをなさないという点で、他のすべてのものが生ぜらるべき結果に対して原因となっているというのである。六因の一つ。
果を作る因。結果を生じる原因。一切の現象的存在(有為)のなかで、ある一つの存在自体を除いた他のすべての存在がそれ自体を生じる能作因となる。それ自体が存続することに障害とならないという意味で能作因という。
このような消極的な原因を「無力の能作因」あるいは「不障礙の能作因」という。これに対して積極的な能作因を「有力の能作因」あるいは「与力の能作因」という。 >>80
それ故日常的に使用される
何かの縁で
お陰様で
という使い方は完全に正しい
その原因を認識し特定できるならそれは縁ではなく因だからだ >>151
あーそういう意味での認識か
まあユングのいう自己もいわば仮定であって
君の表現を借りれば自己も
確かに存在を示すことはできるが特定すること=認識することが不可能なものではあるね 伝統宗教的に表現するなら
神は直接認識できないって奴だな
だからその働きによって(これは認識可能)
間接的にその存在を認識するみたいな感じだな
宗教スレでよく書くが
救われた後(つまり神、自己の働きかけを認識した後)に神を認識する、
信仰が確立するとはそういうことよな >>152
面白いね
ジェンガを一つ抜けば全体が崩れさるように
全ては関連しあって成立している
バタフライエフェクトにしても限られた系の中でならそのように言えるが
実際は全てが関連しあって一つの現象があるわけだしな
まあキリスト教なら全ては神の意志と言う感じかな
故に苦しみも悲しみも否定的なものまで肯定されうるんだよな >>156
キリストきょうでは「はじめに言葉があった」から始まるように言葉の力を信じ言葉ですべてを書き表せるという思想があるがそれを打ち砕いたのがカントールの対角線論法に代表されるように数学の力だ
それ以外にもよく知られたものに5次以上の代数方程式の解の公式は存在しない、がある
しかし仏教では言葉の限界は常識
日本史上最大の哲学者とも評される道元も「言葉は真理を得るには必要だが言葉は真理そのものではない」と言っている
これは数学を使えば見事に説明できる >>157
初めにロゴスありきのロゴスを言葉と訳すのはぶっちゃけ誤訳じゃねーかな
法則とか仕組みとかそういうほうがしっくりくる >>159
書き表せるといっても
それこそ
存在を示すことはできるが特定すること=認識することが不可能
なものなんじゃねーかな つまり数学も言語の一種であって指月の指であり月そのものではない >>161
上でも述べたが5次以上の代数方程式の解の公式は存在しない、とは存在はするがそのすべてを各々特定して書き表すことはできないということ
これが数学を含めた言葉の限界を示している
道元の言葉を数学的に表現すれば無限級数だろう
円周率πは無限級数で計算できる
しかし無限だからπそのものは永遠に書き表すことはできない
円周率さんの家はこの道をまっすぐに進めばありますがあなたは永遠にたどり着くことはできませんよ、ということだ 大学卒業しただけで偉いよ
どうせ大学で勉強したことと無関係な仕事に就く人ばかりだし >>164
別に数学を用いんでも直観的に理解することは出来るね
例えば目の前のPCモニターについてすら
言葉によってそれそのものを表現することは出来ない
刻一刻と変化する電子の位置まで正確に記述できるなら違うかもしれないが
そこまで仮に出来たとしてもそれすら不十分、つまりもっと微細なパラメータがないとはいえんしな
だから仏教なんかの思想でもこういう事が言われるわけよな
なぜなら数学使わんでもこういう事を人間は思いつけるからよな つまり数学を含めた言語表現というのは
本質的にはあれ、とかそれ、の類なんよな実は
だからあれとかそれだけ聞いてもなんのことか分からんように
あれとかそれが指し示すものを見なければならないんよな
間接的にねw >>169
確かにその通りだね
人間の嗜好の道筋のもっとも厳密な奴が数学なのかもしれないね
ただ数学をまなばなくとも仏教が学べるように
厳密な思考それ自体が認識=特定を直接担保するわけではないんよな
まさに言葉は真理を得るには必要だが言葉は真理そのものではない
だわ >>170
>ただ数学をまなばなくとも仏教が学べるように
日常言語だけでは限界があり誤解も生じると上で述べた
→>>152 真理を得るのに言葉が必要というのは
例えばお宝まで南に10歩みたいなもんだな
山田さんちの裏にある桜の木から南南西に8メートルとかいうなら
より厳密な表現になる
実はもう一枚別の宝の地図があって
今度は東に3歩とか書かれてるなら
トレジャーハンターはより宝の正確な位置に近付くことが可能になるね
宗教の言語表現が有効なのはこんな感じに似ている >>173
サヴァン症候群の人は数字の羅列を見てもその順番などの意味は解せないという
ただの数字の羅列ではなく理論を背景とした数学だ >>174
八百万の神みたいなもんよ
別に神が800万体いるわけじゃない
兎に角たくさんってことを表す数字というか数量表現よな オカルト都市伝説系ゆーちゅーばーとか好きだけど
カルトを嫌うわりに仏教は量子力学だ!とかいうの信じる日本人結構多いからな
別にそれぐらいなら笑えるけど
彼らってなぜか国粋主義的思想をしれっとぶっこんでくるのが面白いね
わざとやってるとしたら怖いわ
ほんとのところは知らんけど案件だったらヤダな >>175
そのたくさんにも可算無限と非可算無限がある 数えられる(名前の付けられる、つまり認識できる)無限とそれより遥かに大きい無限とがだ >>177
そりゃそうだろうな
幾ら数が多くたってこの世の最小単位が素粒子だと確定しているのなら
ある瞬間に限って言えばそれは本質的に有限の量なんだよな
でもそうじゃないなら数えられない無限になってしまうね つまりは止揚なんだよな
自由意思があるかないか不確定だから
この両者を無理やり白黒つけず自分の中でイイ感じに止揚するように
可算無限と非可算無限についても要は空であってどちらとも言い得るから
自分の中で上手い具合に止揚するもんなんだろうね
つうかこの両者の数量表現がある時点で
仏教もまたこのような考え方が根底にあると分かる 可算無限と非可算無限について自分なりに別の表現をするなら
人間の認識はある程度の物自体に対する正確性をもつ
つまり数えられる
と
人間の認識は物自体を全く正確に認識できない
つまり数えられない
という感じになるわけだが
これってどっちも必要だよな
コーラを1本2本と数えられるから社会生活が送れるわけだし
でも本当は1本2本というその数は人間の観点からの恣意的なりょうでしかない
という認識もまた必要だしね
だからどっちも必要なんだよな
まあぶっきょーは素人だから見当はずれなこと言ってたらゴメンね てことで仕事行く
楽しいからスレ残ってたら嬉しい
でわ一旦さらば >>176
最初に言ったのは物理学者だが
>>182
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