創価学会・東洋哲学研究所「本来のイスラムは戦争と暴力の宗教ではなく、平和と博愛の宗教。人類は皆アダムの子孫で兄弟 [377482965]
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イスラームにおける戦争と平和観
岩 木 秀 樹
はじめに
現在の紛争の多くは、イスラームが関与していると考えられている。確かに、 イラク、シリア、パレスチナ等のイスラーム世界で、紛争が多発している。紛 争要因の全てをイスラームに還元することは危険であるが、一定の関連がある ことも事実であろう。
またイスラームは国際政治において大きな影響力をもっている。近い将来、 イスラームはキリスト教を抜いて、世界最大の宗教集団になるといわれており、 信者数から考えるとイスラームは発生以来、現在が最も勢力のある時代かもし れないのである(塩尻 2007:197)。
このようなイスラームに対して、戦争と暴力の宗教であるとの偏見も未だに 散見される。したがってイスラームと戦争の関係を考察するためにも、その戦 争と平和観を分析することは重要であろう。
本稿ではまずコーランにおける戦争と平和観を概観した後、ジハード概念を 検証する。その後、イスラームの国際秩序観と戦時国際法を述べた後、戦時国 際法についてのグロティウスとシャイバーニーの比較を試み、最後に今後の課 題を展望する。
1 .コーランにおける戦争と平和観
21 世紀に入って、宗教が非寛容や暴力と関連づけて語られている(Huda 2010:xiv)。特にイスラームはその傾向が顕著で、イスラームの観点からの戦争や 暴力の研究は多いが、平和構築や紛争解決の研究は少ない(Abu-Nimer 2003:181)。
本来のイスラームは戦争と暴力の宗教ではなく、平和と博愛の宗教である。 平和において、最も大事な概念は公正であり、平和は政治的・社会的・経済的 公正が生活のあらゆるところで実行されなくてはならない(Ateş 2006:50, Ergil 2010:19)。イスラームにおいて、公正は絶対的価値であり、その上で社会的・世 界的平和を構築していくことが重要なのである(Abu-Nimer 2010:77, Doğan 2006:252)。
イスラームは孤児や貧者、未亡人などの弱者に対する温かいまなざしを持っ ており、相互扶助の思想も有している(Doğan 2006:254)。また寛容性1)や人類意 識も説いており、人類はみな兄弟であり、全てアダムの子孫であると捉えてい る(Sarıçam 2006:105)。
さらに生命の尊厳も説かれており、「他人を殺す者は、人類すべてを殺すのと 同じであり、他人を生かす者は人類すべてを生かすのと同じである(コーラン 5章 32 節)。」
ただ、この他人とはイスラーム教徒なのか、非イスラーム教徒なのか、はっ きりしない。平和に関しても、イスラームは最終的には暴力を容認しており
(Abu-Nimer 2010:36)、またイスラームの枠内での平和の可能性もある(塩尻 2008:306)。多くのイスラーム帝国において、非イスラーム教徒に対して不平等の もとでの共存であった側面も忘れてはならないだろう。ただユダヤ人差別や魔 女狩り、異端審問などを行っていた当時のヨーロッパに比べれば比較的寛容で 共存していたのである。
このようにイスラームの寛容性や平和観において、一定の譲歩が必要ではあ るが、現在、明らかにイスラームに対して戦争や暴力の宗教との偏見が見られる。
確かに、コーランにおいて暴力的な表現が散見される。「神聖月が過ぎたなら ば、多神教徒どもを見つけしだい、殺せ。これを捕らえよ。これを抑留せよ。 いたるところの通り道で待ち伏せよ(コーラン 9章5節)。」この節は剣の節とも呼ばれ、非常に厳しい好戦的な表現である。ただこの節は、628 年にムハンマド とメッカの人々との間に、ブダイビーヤの和議が結ばれ、その後にメッカの人々 によって和議が破られ、この時に剣の節が下されたとされる。よって「多神教徒」 とはメッカの人々のことである(大川 2004:27)。またこのコーラン9章5節には 以下のような句が続く。「しかし、もし彼らが悔い改めて、礼拝を守り、喜捨を 行うならば、放免してやれ。神は寛容にして慈悲深いお方である(コーラン 9 章5節)。」このように単なる好戦的な表現ではなく、かなり限定的であり、他の 節にもこのような限定は見られる。「神の道のために、おまえたちに戦いを仕掛 ける者と戦え。しかし、度を越して挑んではならない。神は度を越す者を愛し たまわない(コーラン 2 章 190 節。」これも限定的かつ防衛戦争を念頭に置い た表現である。
剣の節はイスラーム教徒に敵対し、イスラーム教徒を殺そうと襲ってくる不 信仰者に対する戦闘的な命令であり、平和裡に共存する人たちに対しても殺せ という殺人指令ではない。コーランに描かれた様々な戦闘シーンや暴力的な表 現などを、キリスト教の聖書を読む時と同じように、神の壮大な計画の一コマ として比喩的、象徴的に読むべきだろう。塩尻によれば、そもそもコーランに は戦闘的な命令は 5・6 箇所のみであり、平和や寛容を勧める章句は 100 を越え ているのである(塩尻 2007:181,185)。
(以下リンク先 >>2
聖典に殺せなんて書いてあんのかよ
どこが平和だよ… 世界全員がウンマのっ構成員なら平和な世界が訪れるはずって話だけど
世界平和のために世界を滅ぼす、的なJRPGラスボスの理屈 右手にコーラン左手に剣で、力で改宗させて、いやだという人間は殺してまわったくせに
まあ嘘をつくのもイスラムの教えのひとつだからね 現代の「イスラム過激派」ってだいたい英米のカネが流れてる連中なのよね
日本人はアホだから自分で調べない ,-――――――-.
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l jジェンキン鮨 l
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i ト、ミミ ,r‐- 、``'ニ=‐、.彡リ.
ヾ,iハ゛.´-=o=-i.; _,. ` 彡'i)
`、j,' `゚''´:.ノ i::-=o=-.ハン / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
i, ` ,、/ i_ `` ,r' < よおポンコツw
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:i' i:| !:::l _,r.、;;;;;,r''´ヽi. ll::i i::i l:::'i 大森の海苔養殖してた在日韓国人にあんなに大勢の日本人が騙されたんだろうな >>7
一神教の問題は世界全員が例え唯一神と崇めたとしても決して争いは無くならないという現実だよな
これだけガチガチの聖典が在るにも関わらずどうしても派閥が出来て殺し合うのが人間
「お前の神は俺の神じゃねえ」という根本から始めないと人間調和とは真逆の思想 日本で働いてるイスラム教徒の人に会ったことあるけど
日本人よりずっと静かだったわ 異教徒または多神教徒を「殺せ」って書いてる時点で教義が凶暴と言わざるを得ない
自由・人権・民主主義という近代理性が切り開いた世界では中世の世界観は用済みとしなければならないでしょう
そもそも同じイスラム教徒ですらシーア派とかスンニ派とか言って殺し合ってる時点でねぇ >>本来のイスラムは〜〜〜〜
↑
これ、本来の仏教は〜〜系と同じで聞き飽きた。全く説得力無し。日本は寛容な多神教レベルの妄言 書いた本人は無自覚だろうけど、「自由・人権・民主主義」はたしかに近代、つまりpre-modernの産物だった
自由と人権の議会制民主主義は、現代ではもうすでに死んだ
不祥事とそれへの開き直りと成り上がり特有の品の悪さが鼻につく維新の連中は
この点だけはすっかり割り切って現状把握していて、行動してる
連中は利己的な戦国大名や三国志の群雄と同じノリで動いていて
「え?俺らの何が悪いの?」って感じでしょ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています