そもそもが雑駁な装置にすぎないテレヴィジョンというものの視覚的メディアとしての役割はとうの昔に終わっているから、いまさらその悪口をいったり文句をつけてみたりしても始まるまいが、そのちっぽけな画面に対する蔑みの思いは、いまも収まることがない。そう、わたくしはテレビというものを侮蔑してきたし、いまも侮蔑しているし、これからもまた侮蔑し続けるだろう。だからといって、それがしかるべき社会的な態度の確かな表明だなどといいつのるつもりはない。あたかも視覚的なメディアであるかに振る舞っているテレビというものが、本質的に音声メディアにほかならぬという厳然たる真実を、その装置をあげて隠していることが醜いというだけのことだ。
 実際、映画の画面とテレビの画面とを較べてみると、その違いは歴然としている。あくまで視覚的なメディアに徹している映画では、マイクロフォンという録音器具は間違っても画面に映っていない。実際、撮影にあたってのキャメラマンの最低限の慎しみは、マイクが床の上や壁などの表面に影としてすら映っていないようなアングルを選択することにあるからだ。キャメラの近くに添えられているマイクを画面から排除することが、撮影の基本だからである。ところが、テレビの場合は、ほとんどの画面で、出演中の男女の胸もとにちっぽけなマイクが見え隠れしており、ときには、マイクを吊した長い棹を握る男どもがうろうろしているさまを画面から遠ざけようとすらしていない。このだらしのなさがいかにも醜いのである。

マイクの醜さがテレビでは醜さとは認識されることのない東洋の不幸な島国にて|些事にこだわり|蓮實 重彦|webちくま
https://www.webchikuma.jp/articles/-/2459