>>166
> 最近のオタクは「作者と作品は関係ない」が信条みたいだが、そのせいなのかな。

そのせいではないんだよ、これからその辺りかくけど、結論から言って
「PCがオタク文化・美少女文化の最先端になった時代に、
 オタク文化に理系自称する人間が流入した影響」と言える。

> 作品の感想が作品の中だけで完結してる。
> 制作者の作家性やそのバックボーンとなる社会や文化まで視野を広げた考察が見えない。
> 作品を映画の歴史の中に位置づけるという視点も感じられない。

それは、理系を自称するオタク君たちが最も苦手で、
かつての先輩(文系学問に精通するオタク)達に対するコンプレックス、敗北感、そういうもののせいで
「客観的な証拠、具体的な数字以外は、論評の根拠にならないし、してはならない」
という風潮を生みだしたからだ。

かつてオタク趣味っていうのは文系趣味の一つだったのは言うまでもないだろう。
小説を読み、様々な批評を読み、インタビューだのなんだのをを読み、様々な作品を鑑賞し、
人間関係や影響してるされてるの情報、その当時の世相や社会のありよう、
その作者や作品のバックグラウンドを推測し、語り、分析する。
まさに人文科学そのものを遊びに適用した趣味がおたく趣味だった。

パソコンに美少女ゲームが流行ってから、および、パソコン通信という「語り」が出来るフィールドが出来たことで、
オタク趣味というのは「理系」の人間に開放された。少なくとも当時のパソコンを操る程度の知識は必要だったから、
次第に理系を自称する人間がシェアを増やしていった。

だが、理系の人間ってのはつまり人文科学、社会科学から逃げた精神的引きこもりの人間であるから、
おたく趣味者がかつて行っていたことが大の苦手なんだな、何しろ素養がないし訓練もしていないから。
だから、アニメ批評、ゲーム批評をしても簡単にあしらわれるし、「相手にならない」と笑われる。
それが、「俺達は世界のすべてを知る科学の申し子であり、数学の子供である」という
理系自称クンたちには我慢がならない。

そんな彼らが生み出した論法が
「作品それ自体で批評すべきだ」
「作品のどこにもそんなことは書いてないし、作者も言及していない、お前のそれはただのお前の感想だ。
 違うというのなら、客観的な証拠、科学的な論拠を持ってこい」
「数字こそが客観的指標の最たるものであり、これを超える指標はどこにも存在しない」
という論法なんだな。

これを突き詰めたのが、西村博之の「それってあなたの感想ですよね」「なんかデータあるんすか」っていうやつだ。

これが客観的な証拠だ、数字だ、これ以外に論拠は存在しないし、それ以外はタダの感想だ、
お前がどれだけ本を読もうと研究しようと分析しようと、俺達の「思ったこと」と何ら変わらないものでしかない、
それを自覚しろ、という態度が進行したんだな