【悲報】コーヒーがもたらした暴動、離婚、禁止令……その魅力に翻弄された人々の歴史 [979264442]
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回教徒だけの特別な飲み物
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初め珈琲は回教徒だけが飲んだ。西暦九〇〇年頃のアラビアの著名な物理学者ラーゼスの記録に、バンまたはバンチャムと書かれ、アラビアの医王、アビシェンナは珈琲を薬用としているそうである。
回教徒の珈琲は果実または核を火に焙り、または錫でいり、木製の篦[へら]でこがさぬように褐色になるまでいり、それを乳棒で砕いて熱湯をそそぎ、その粉末まで全部飲む。
今日でもトルコ人の珈琲は舌にザラザラするくらいのを美味とするのはその余風だろう。「紅毛本草」にも「また豆殻を用いる方あり、トルコ帝これを用いシュルタン流という」とある。
粉糖を入れることは一六〇〇年頃カイロで始められ、ミルクを加えることは一六六〇年駐支オランダ大使ニイホフなる者が始めたといわれる。
トルコにコーヒー店が開かれる
一四五四年頃アデンの回教解説官シェーク・ゲマレディンはアビシニア旅行中珈琲の価値を発見して、アラビア・フェリクスで一般人の飲用を許可したのが、メッカ・メジナにまで伝わり、一六〇〇年頃回教の巡礼僧ババ・ブダンによりセイロンに伝えられた。
またトルコ帝セリム一世が、一六一七年エジプトに遠征のみぎり兵をペルシャまで進めた。その時エジプトからコンスタンチノープルに珈琲が伝えられたといわれている。
トルコ各都市に珈琲店が開かれたのは十六世紀の初め頃といわれ、これは我国の足利氏の末期でポルトガルの商船が初めて豊後に現れて大友氏と交易した頃にあたる。
一五一一年にカイロにはじめて珈琲店ができて、同三〇年にはダマスカスに、三二年にアジアトルコのアレッポに、コンスタンチノープルには少し遅れて五四年に開業した。
アウグスブルグのドイツ人医師レオナルド・ラウヴォルフが一五七三年にアレッポの町に多くの珈琲店があったことを一五八二年版の著書に「立派な飲料として一般に高く評価されているのは、チャウベとよばれているものだ。
それはインキの様に黒く胃にたいへんよいものである。またブンネットと呼ばれる珈琲の実について、これはアラビアの学者アビシェンナのいう、ブンコオまたはラーゼスのいったというものだろう」と記述している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/150a651257458ee876742e2b79915d2771f553bb
コーヒー禁止令
一五一一年のカイロの珈琲店ははなはだしく市民の嗜好[しこう]に投じた。
僧侶も市民も回教の朝のミサに参列するよりも珈琲店に出勤することを好んだので、メッカの知事カイル・ベイは医師、法律家の有力者を招集して評議会を開き、その議決によって市民の珈琲飲用を禁止する法律を出した。
しかし知事の主人であるカイロの君主が珈琲党であったため、この法律は取消されかえって知事は失脚させられてその罪名は「強奪者公盗」というものである。
この時はこれで片づいたが、一五二四年にメッカの判官は風紀紊乱の理由で珈琲店の閉鎖を命じた。
しかし家庭で飲むことは自由だから珈琲がいけないのではなく珈琲店で風紀を乱すことが禁止の理由になったのである。
ウェブスター辞典にコーヒー・ショップの訳に「売淫宿」とあるのが何か関係があるのかもしれない。
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一般の人々まで愛飲するようになったコーヒーだが、その特別な魅力ゆえ、禁止や暴動の対象となっていく……。
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コーヒーが暴動を起こす
同三四年カイロでは、これが遠因となったのか珈琲騒動がもち上った。珈琲飲用反対派と、珈琲愛好党が対立して暴動を起して珈琲店が襲撃され、その店とコップがこわされたという。
同四五年にはダマスカスのシェムシとアレッポのヘケムという両者がコンスタンチノープルで珈琲店を開業した。これが大繁昌して同七〇年頃は数十店に増加した。
ここでも回教の狂信者から妨害が入った。「焙[あぶ]った珈琲は木炭と見なす。木炭はコーランの中では飲食物の中に入らない」この法典に背くことは許されないとして禁止された。
コーヒーを理由にした離婚まで……
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珈琲店は一軒残らず閉鎖されたが一度味をしめたマニアはおさまらず、結構裏口営業が繁昌した。
そしてそれから十年、一五〇〇年のアラムス二世の時にまた教会の頑固な坊さん達から「珈琲は興奮する作用があるから、これは酒の一種とみなす。
酒は厳にコーランの禁ずる所だ」といわれたが、すでにこの頃ともなれば、国民の内一人として珈琲を飲まない人がいなくなり、法典の解説官でも市長でも説教者でも飲んでいるため、禁令はいっこうに効き目がなく自然と立消えとなってしまった。
珈琲はすっかり家庭飲料となり、妻に珈琲を充分に与えないことが離婚の理由となり、結婚に先立って夫は妻に珈琲を不自由させないことを誓言しなければならなかった。
コーヒーからお茶へ
このように回教徒と珈琲とは切っても切りはなせない関係にあったが、今日の回教徒は珈琲飲みというよりむしろお茶飲みの国民となっている。
今日の回教圏[かいきょうけん]は、人口およそ四億、その分布はトルコ、アラビア、アフガニスタンを中心として西はモロッコまでの赤道以北のアフリカの一帯、さらに北インドの中央アジア、パキスタンから北支へとつらなり、北はバルカン、ロシア、南はマレーシア、インドネシア、フィリッピンにわたっている。
今日の回教徒は、珈琲ももちろん飲むが、主食の関係からビタミンCが不足しがちであり、むしろ緑茶が多用されている。
紅茶も緑茶もいずれも茶葉から造るが、紅茶は葉緑素を発酵させて作るから、ビタミンCは残らない。緑茶は葉緑素がそのまま煎出されビタミンCを豊富にもっている。野菜を食う機会の少ない肉食者には緑茶は不可欠の中和剤となる。
だから蒙古から中央アジアを経て、イラン、イラクを通るシルク・ロードとアラビアからアフリカ北岸とエジプトからモロッコにいたる地域は砂漠が多く、住民はビタミンCが不足するので緑茶は欠かせぬ飲料(むしろ食糧)である。故に日本と中国を加えこの地域は「世界緑茶地帯(グリーン・ティ・ベルト)」と呼ばれる。
これから見ると日本と中国の一部をのぞきほとんど回教圏であることに気づかれるであろう。
英国人が自国民の嗜好に合わせて、早くから紅茶製造に力を尽したことが、インドおよび回教圏と高地民族への勢力を早く失う結果になったものといえよう。 この文面で英国が紅茶製造に力を尽くしたってなんか変だな
ただの輸入じゃん 長きに渡りカフェインは多くの人達を魅了し続け…
今ではエナドリの中に収まりチー牛を虜にしている 口が臭くなるからすぐに歯磨きできる環境でないとなあ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています