51年前の11月25日、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地に立てこもり、決起を呼びかけた後に割腹自殺 [579534608]
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夕方から書店はパニック状態となった。三島の本はほとんど売り切れた
11月25日が今年も――。
一人の作家がクーデターに失敗し自決した51年前のあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後、多くの人が事件を饒舌に語り記したか。
文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に追い、時系列で再構築した
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(中川右介著、幻冬舎新書、2010年刊)から、一部を抜粋しお届けします。
エピローグ「説明競争」
十一月二十五日の午後から夜まで、各テレビ局は特別番組を編成して、評論家などをスタジオに招いて、この事件は何だったのかを論じた。
その公式な発言記録は残っていないので、放送において、誰がどのような説を展開したのかは、はっきりしない。
家庭用VTRは発売されていたが、とても高価で一般家庭には普及していない。テレビ局ですら、すべての番組をビデオテープに保存しているわけではなかった。
夕方から、書店はパニック状態となった。勤め帰りに多くの人が三島由紀夫の本を求めたからだ。給料日で懐が暖かったことも影響しているだろう。
それまで三島作品を読んだことがない人々までが、彼の小説や評論を買い求めた。ほとんどの書店で三島の本は売り切れた。
新潮社をはじめとする出版社は大増刷を決めた。
この日は「日本新聞史上、最も夕刊が売れた日」と言われる。数日後には週刊誌が緊急特集を組み、これも売れに売れた。
人々は自腹を切って、切腹した三島の情報を求めたのである。
https://www.gentosha.jp/article/19936/ 人々の興奮がまだ覚めない二十六日の朝刊は、各紙とも前日の夕刊に続いて一面に三島事件の続報が載った。
そのなかで毎日新聞は、第一面のほぼ三分の一を占めるスペースに、
作家司馬太郎による「異常な三島事件に接して」というエッセイとも評論ともつかぬものを掲載した。
この文章は司馬のエッセイ集『歴史の中の日本』に収録され、文庫版では五頁にわたる。
朝日新聞には、作家の武田泰淳、評論家の江藤淳、成蹊大学教授の市井三郎による座談会が掲載され、
さらに松本清張による『「檄」と2・26との近似』という短い評論が載る。
この突発的な事件を受けて、作家たちは、マスコミからのコメントや追悼文の依頼が殺到し、突然に忙しくなった。
もともと二十五日は十二月に発売される新年号の締め切りもギリギリの時期だったはずだ。実際、三島はその締め切りに合わせて、原稿を渡したのだ。
毎日新聞社は事件勃発後すぐに司馬に事件のことを伝えるとともに、原稿を依頼したのであろう。
司馬は元新聞記者なので原稿を書くのは速いのかもしれないが、それにしてもかなりの速さだ。
この時代、原稿は手書きであり、FAXもない。もちろん、電子メールなどない。
電話で原稿を依頼し、書き終わる頃には新聞社から使いの者が受け取りに来るシステムだ。それから、新聞社の印刷工が手で活字を組む。
司馬太郎、この年、四十七歳。三島は若くして亡くなり、司馬は若い頃から白髪だったこともあり、二人が同世代とは思えないが、
司馬は三島の二歳上でしかない。
司馬はこの時期、朝日新聞に『花神』を、サンケイ新聞に『坂の上の雲』を、「週刊朝日」には『世に棲む日日』を、
そして月刊誌「小説新潮」に『覇王の家』を連載中だった。最も脂の乗っていた時期といえる。
連載の仕事の関係からすると、この時期の司馬は朝日新聞社や産経新聞社のほうが関係は深かったはずだ。
毎日はこれら二社を出し抜いて司馬の原稿を勝ち取ったことになる。
毎日新聞社に勤めていた徳岡孝夫によると、社内では、司馬の原稿を「取った」記者の功を讃える気分があったという。
徳岡自身も「説明競争の先頭を切る形になった」という評価はしている。
とはいえ、もちろん司馬は朝日にも義理は欠かない。二十六日朝刊の社会面に司馬のコメントが載っており、毎日に載るエッセイと根本の部分は同じだ。
先頭争いに意味があるのかどうかはともかくとして、司馬のこのエッセイは、第一面に載ったこともあり、かなり注目された。
表題の「異常な三島事件に接して」に加え、見出しには「文学論的なその死」「密室の政治論 大衆には無力だった」とある。
(以下略) こいつの演説内容見ると
精神疾患だよな
わけわからん筋道の話を
わめいてる 三島は反米愛国
佐藤の従米売国路線を引き継いだ安倍ネトウヨには今でも憤死するだろう 自衛隊突入決行と自決
1970年(昭和45年)11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、
面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城すると、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。
45歳没。現場はあまりにも凄惨であったため、当局の発表も、報道にも自然に抑制がかかり、現場の様子がリアルに表に出るのは、
14年後写真雑誌『フライデー』が、警視庁公安部の右翼担当部員が保管していた現場写真(三島の生首の顔)をスクープというかたちで掲載した時であった。
警視庁公安部員は、切腹から斬首に至るまでの一部始終を、止めに入ったり逮捕したりすることなく、廊下側の天窓ごしに全部ウォッチしながら、
証拠写真を相当数撮り続けていた(立花隆によると、公安部員は右翼担当・左翼担当関わらず、どんな重大な事件に遭遇しても、
それに直接介入はしないという)[404]。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/df/Mishima_Yukio_1970.jpg
バルコニーで演説(1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地にて)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB 晩年は青少年と交流するのを好んだ云々って単にオジサンが若い子にデレデレしとっただけなんじゃないか 演説するのに拡声器のひとつも用意してなかったアホw 動画
【HD映像】三島由紀夫 - "三島事件"最後の演説 〜 Yukio Mishima last Speech "The case of Mishima"
https://www.youtube.com/watch?v=JiA4HS39eRY
三島由紀夫 最後の演説 Yukio Mishima Last Speech
https://www.youtube.com/watch?v=wgGhgXBE1i4 この11月25日という決行日については、大正天皇の重患に伴い昭和天皇が摂政に就いた日であることと、天皇が「人間宣言」をしたのが45歳だったことから、
同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「神」を復活させようという意味があったと考察する研究や[340][405]、
三島が尊敬していた吉田松陰の刑死の日を新暦に置き換えた日に相当するという見解もある[344][406]。
へー、今知った
あくまで考察だが この人質になった東部方面総監の益田兼利って人は、終戦直後の1945年8月17日、
陸軍士官学校同期の晴気誠少佐の自決に、奇しくも同じ市ヶ谷で立ち会ってるんだよな
人生で二度、割腹自殺を目撃してる稀有な人生 >>13
動画見ればわかるけどテンパりっぱなしの一本調子でがなり立てるだけでこりゃ誰も聞かんわって残念な有り様
ヒトラーの演説と比べりゃ正に「役者」が違う 自衛隊もよ、さっさと入り口で射殺しときゃよかったんだよ
三島みたいなザコだったから大事に至らなかったものの他国のテロリストとかだったらどうするつもりだったんだよ >>18
同じように昼飯を邪魔するなの怒号かけまくりですよそりゃ なんか去年くらいにメディアが三島由紀夫ブーム作ろうとして何事も起こらなかった気がする >>16
ヒトラーはスピーチの達人だし、そのためのリハーサルも徹底してたし、
それを演出するゲッベルスって有能な宣伝相もブレーンにいたし >>21
大型書店にはやたら三島由紀夫の著作や関連書が並べられていたけどね >>22
そういう方面の対策せずにそのまま突っ走ったから残念な結果に終わった
出演映画でも大根だったから対策してもどうだったかと思うが 言い方は悪いがこういう犬死的な死に方は承服しかねる 総監を人質にとって大勢集めたくせに広いところで地声でやったもんだからほとんど聞こえず
決起せよと呼びかけたつもりの自衛隊員からは「きこえねーよ」「お前に何がわかるんだよ」と野次を飛ばされながら割腹
介錯もうまく行かず何回も首をストンストンとやられてやっと死亡とかいうくっそみっともない死に様 海外ではベトナム戦争が起きてた時期なのになんかバカらしいな >>22
あと、格好いい制服作って隊歌作ってまではそれが出来てた
外面を作っただけで肝心要で馬脚を表したという結果に終わってしまった >>19
自決した晴気誠少佐は元大本営参謀で、サイパン陥落の責任をずっと感じていて死に場所を探していた
益田兼利ら同期が翻意を促したが、決意は固く、自決した
1912年生まれで32歳没
妻と3人の子供がいた
その晴気誠の1つ歳上で、陸士では2期先輩で、同じく大本営参謀を務めた瀬島龍三は、戦後はシベリア抑留→伊藤忠会長と歩み、
中曽根内閣で臨調委員を務め、中曽根のブレーンと呼ばれ、2007年に95歳で亡くなった
どちらが敗戦国の軍人として相応しい方なんだろうね >>29
当時の自衛官は中卒ばっかのヤンキー予備軍だったのもある
三島みたいなエリート保守はほとんどいなかった >>32
有名な話だけど、ヒトラーのスピーチの技法の一つに「大衆はバカである。だから同じ言葉を何度も繰り返さなければいけない」というのがあって、
実際の演説でも「100万…200万…300万…400万…500万…600万…700万…800万の失業者が生まれた」(もちろんドイツ語)みたいな話し方をしてる >>35
自衛隊内だってエリ−ト保守は一部にすぎなかったのにそれと付き合うばっかりで勘違いしちゃった クーデターに乗らなかった自衛隊の人達は尊いわ。感謝するわ。ありがとう。 >>39
犯行後の証拠写真はそこそこ公開された時代だったんだろうな
連合赤軍リンチ事件でも掘り出した後の腐敗したグロ遺体写真が出回ってるし これも劇場型犯罪と変わらん
冷静に将来の構想用意してないとしか思えん 😡「自衛隊よ、立て」
「勃ってんのはお前のチンポだろ、ホモ」
「きめえんだよ、ホモハゲ」
「さっさと降りてこいよ、カマ野郎」
😭「言い負かされた、悔しい、死ぬ」グサー 割腹した三島にかける言葉はおめでとうでいいと思うよ、戦後を惨い苦悩に甚振られ生きて来たんだし 演説内容が三島とは思えないほど稚拙だ
原稿は無かったんだろうが、別にアドリブでも喋りは巧い方だったはずなのに何でこうなった おれの中の三大筋トレ芸人
三島由紀夫
松本人志
長渕剛 当時小学生だったからよくわからなかったけどもう50年も経ったのか >>48
そいつら全員コンプレックスで筋トレしてるしな > 人々は自腹を切って、切腹した三島の情報を求めたのである。 >>29
当日エリート部隊は出払っていて、残っていたのは三軍 >>40
十何年か経った後の写真週刊誌が初出じゃなかったっけ? 仮面の告白読みにくくないか?
工事現場のドカタの人が汚れながら仕事してるところとか
時代劇なんかで弓矢を撃たれまくった武士とかに妙な美意識を子供の頃から感じてたのは自分も似たようなこと考えてたからちょっと嬉しい
壊れたロボットとかかっこいいもんな 日本だけでなくて、海外でも彼の切腹は反響を呼んだとか。 >>21
三島由紀夫と全共闘の映画見たかったがコロナ禍でダメだったね 三島の切腹後に説明競争が起きたというが、説明は洪水のように溢れても的確で価値のある分析はほとんどなかったといえようw
三島がしてたハチマキの意味すら、ろくに分析されてなかったからねw >人々は自腹を切って、切腹した三島の
ここ言いたかっただけだろ >>59
クソクソのクソだったぞ映画館行かなくて良かったわ
冒頭の演説以後はゴミカス噴飯 楯の会は生長の家信者が多くいた。三島由紀夫は生長の家と谷口雅春に騙されて殺されたも同然だな。 三島は死ねばキリストみたいになれると思ってたのかな・・・
ジャップにはそんな根性なかったんや
今の日本見せたらかわいそう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています