徳川家康「江戸とかいう何もないクソ田舎、首都にしたらウケるやろなぁ」地味に有能だと話題に [228219983]
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疲弊した国々をもり立てる為の超大型公共事業
武蔵野台地よりも東の沼地を開墾、治水、干拓、造成で広大な農地に変える事業
信長秀吉がつまづいた「商売」による経済拡大の限界を「生産による供給増加」で補った 案の定三河コピペが出て来たからみんなこのスレから退散して終了だな
コレ読んでる奴居るのか? >>691
親族は早死した弟と嫁さん除けばボンクラ揃いで
藩屏となるべき子飼同士は仲悪くて派閥抗争してると思うと
昔から知ってて信用できる有力者っていうと家康くらいしか居ないもんな
前田利家は仲が良いからって天下の采配できる能力はないだろうし 家康をどれだけ信用してたかわからんけど、子孫がボンクラならどうせ続かないって諦めの気持ちも少しはあったんじゃないかな
家康冷遇しても他の有力者に裏切られたら同じことだし 何もないどころか日本最大のガス田地帯だし発展しないで資源掘ったほうがよかったろ ちょっと雪が積もったら都市機能が麻痺したり遠く離れたのに東日本大震災で帰宅困難者続出で本格的な地震きたらとんでもないことになるってのが共通の危機意識だと思ってたんだが
東京は災害に強い強すぎるぞ!!みたいな人結構いるのな >>705
そもそも秀吉には子孫って家康を関東に行かせた時点では養子しかいないからな
秀頼が生まれた後、養子の秀次は粛清されたが
他の大名を順次粛清していく構想はあった? 秀吉の方が先に死んじゃったのでわからない >>706
千葉の地下はガスがあるらしいな。
だけどそれをとると地盤沈下が 秀康が豊臣の後を継いでたら2人連続梅毒でイカれた事になってたのか GPSもない時代に埼玉から太平洋まで河の流れを変えるとか何者だよ 糞田舎に飛ばされたけど、出来ない理由を考えるのではなくって開発したら
とんでもない出来高になったんだろ >>6
関東以外は主要駅以外は高いビルすらないもんな
既に日本じゃない >>711
計算するだけやろ
古代中国ではそれを為す技術者集団を皇帝と呼び、そのノウハウを喪失することを徳を失うと呼んだ >>405
近代になると、港は日本海より太平洋に開いてた方が都合が良かった >>711
昔に川の流れを変えるのは
どうやって勢いをどこで殺すかが一番大事
そのためにデカい岩を運んできたり、デカい岩の場所に水をぶつけるんだけど
それが一番大変
信玄の高岩とか有名だし
https://i.imgur.com/elyrrOs.jpg
各地方にあって〇〇殿とか呼ばれたりしてる
それさえできれば、あとはなんとかなる。
江戸で難しかったのは玉川上水の傾斜を維持すること >>701
盛り上がったのは天領や徳川領、譜代領で
西国の大名を犠牲にしたわけだけどね
江戸関東の開発だけじゃなく
薩摩の宝暦治水事件なんかも有名だけど >>707
鎌倉や小田原や駿府では
天下が治められない時代が来て江戸の時代が来たように
もう東京は限界の老朽化スラムなんだよね >>719
何処から、駿府が出てくるんだよ
何回も言ってんだろ、家康は三河の先輩たる源頼朝の考えを読み取り、それに沿って行動したと
現代語元暦元年(1184)六月小二十一日戊寅。
頼朝様は、範頼・大内義信・太田広綱達を呼び集めて、乾杯の式をしました。それぞれ皆大喜びでしたようです。
特に源九郎義経は官職を与える推薦を希望していましたが、頼朝様はわざわざとそれを許しませんでした。
兄弟の順番に蒲冠者様を推薦したので、特にその恩義を喜ばれているとのことだとさ。
源範頼 三河守
大内義信 武蔵守
太田広綱 駿河守
三河 生誕地
武蔵 幕府開府
駿河 終焉の地
そして駿河には、源頼朝が両親を菩提したと伝わる寺もある
家康をそれを知って、ピコーンときたわけだ
誓願寺
https://www.nihon-kankou.or.jp/shizuoka/detail/22201ag2130011765 あちゃーまた三河キチガイの人がきちゃったよ
俺はNGにするけど、この人がいるとみんな退散しちゃうんだよね この人の「三河人が日本の歴史を支配してきた」の陰謀脳はどこから来たのかね。
やっぱユダヤ陰謀論や、田布施システムみたいな、論調をオマージュしたのかな。
本人が三河人で「俺は凄いんだ」が背景だったら、微笑ましいけど
それでもスレは荒らしてほしくないよね
てか、自分でyoutubeとかに動画つくって
その説を流してたら?別に差別でもないし動画削除もされないだろうし
地球平面説みたいにワンチャンあるかもよ?ないかw まぁ今時、持論を広める場所に5chは意味ないよ
もう5chでの活動はやめたら?(やんわり) 松平家3代目 松平信光創建
・信明光寺(1451年創建) 1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建) 1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
松平信光は天皇とダチの凄い奴だが、信明光寺開基の坊さんは、増上寺で坊さんやっていた新田義貞の孫の弟子だった
つまり松平家は、家康が生まれる前から江戸と縁故があったわけだ
縁もゆかりもなく、増上寺を菩提寺にしたわけではない
増上寺黒本尊
製作:恵心僧都源信
所有者の変遷
源頼義
↓
源義家
↓
源為義
↓
源義朝
↓
平重盛
↓
平清盛
↓
常磐御前
↓
源義経
↓
明眼寺(現在は妙源寺、三河県岡崎市)
↓
徳川家康
↓
増上寺 家康「唐入り?江戸の開拓で忙しいから無理!」
強運すぎだろ >>727
ほんとにそれを秀吉に言って通ってるからね
「唐入りは賛成だけど、東国武将は東国の統治で手が離せないので、まずは西国の武将を先遣させてください」
で秀吉にっこりでさ
秀吉はどこから、いつから、どれだけボケてたかわかんねーんだよ 家康「きったねえ所w穢土やんwおい!バカ息子なんとかしろ!出来なかったら死刑な!あー駿府帰りてえ」
家康「やっぱり駿府最高やわ駿府いいなあ❤穢土()」 物を知らない部外者は、三河の松平が新田一族と縁があるわけない決めつけてしまうが
実は源義国の正室のかーちゃんは、三河物部氏興原流の中原氏なのである
つまり重要なのは、郎党NO1、NO2が三河武士と伝える源義家が、何故こうも三河縁故が多いのかの研究を進める事が、松平の出自を探る手掛かりになるのではないか
三河縁故の一例として
為義流源氏の乳母の家で有名な山内首藤氏は、初代の資清と息子の資道は三河国住人の義家郎党だった
■源為義乳母父:首藤資道
首藤資清(初代首藤氏、三河国住人)→資道(源義家郎党、三河国住人(尊卑分脈))
■源義朝乳母:鎌田通清(初代鎌田氏)の嫁
首藤資清(初代首藤氏、三河国住人)→資道(源義家郎党、三河国住人(尊卑分脈))→鎌田通清(初代鎌田氏)→政清(源義朝乳母兄弟)
■源頼朝乳母:山内首藤俊通(初代山内首藤氏)の嫁(山内尼)
首藤資清(初代首藤氏、三河国住人)→資道(源義家郎党、三河国住人(尊卑分脈))→親清→義通→山内首藤俊通(初代山内首藤氏)→経俊(源頼朝乳母兄弟) そもそも日本は何もないからな
天皇すら明治になるまで家具もろくにない粗末な木造家屋に地べたに座って生活していたわけだから >>545
5万年?前は青梅より上流の多摩川も荒川水系だった >>701
江戸初期に信濃川流域とか筑後川流域とか北上川流域とか
新田開発ラッシュだったしね >>341
石器時代や縄文時代は日本で最大の人口集積地だったらしいね
でも、人々の定住化が進むにつれ、氾濫の危険性が高く対処が難しい関東平野では居住が難しくなっていったわけだ
そして未開発部分が多かった関東平野が一挙に開発され、江戸時代以降の発展に繋がってきたと 昔は富士山がしょちゅう噴火してたからな
火山灰が降り積もって農業どころじゃなかったんじゃねーかな 香川県を首都にしたらよかったのに
災害起きないし雪も降らないから >>701
農本主義になったのも結果的には持続可能な資本主義を突き詰めたからとも言えるのか… いうて浅草奥山あたりは室町期から栄えてたんだけどな >>728
唐入りで散々な目にあった西側大名はそら家康恨むわ 関東は平地平地って言われて鵜呑みにするけど、台地と谷地と平地の組み合わせでその平地部分が河川通ってるからね
荒地とか言って人跡未踏の曠野を想像すべきではない >>730
源義国の正室のかーちゃん、新田義重のばーちゃんが三河物部氏のソース貼っておく
https://www.his-trip.info/keizu/entry202.html
興原敏久(物部敏久、中原敏久)→雄笠→忠並→月弓→月雄→奉生→遠成→中原季成→女(藤原敦基室)→女→新田義重
興原敏久は先代旧事本紀の編纂者ではないかと言われている 江戸は街道の結節点でなおかつ水運の拠点で
西国でも知られる程度には都市として発展していた
北条に従属はしていても独立性が高かった利根川以東の諸大名を従えるために
鎌倉より東寄りの江戸に本拠を置くように指示を出したのは羽柴秀吉
さらに自らのブレイン集団を関東に派遣して検地・町割りや城割りを指導して
徳川家を近世大名として育てたのは羽柴秀吉が
家康を東国の太守として大きな期待を掛けていたから
秀吉自身はそれでも西国の莫大な経済利権で家康を圧倒できると信じていた >>745
偏差値50だな
南関東はコテコテの三河の植民地
世田谷に吉良さんがいて、当時の武蔵吉良氏は西尾の西城吉良から養子入り
家康にしてみりゃ、三河から三河の植民地に移住しただけの話
猿吉は物を知らない田舎者だから、それが分からず家康に関八州を与えた間抜け
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる) しかしあれだな
勘違いした田舎猿に、家康はワシが育てたと思われたら、流石に家康も頭に来るだろう
結果、猿吉一味は武家社会の歴史の汚点とばかりに抹殺された
家康が受け継いだ遺伝子
源義家
源為朝
足利義兼
足利義氏
吉良長氏
今川国氏
一色公深
足助重範
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 マヌケ「江戸は穢土から来てるんやで〜」
江戸という地名が歴史上に登場するのは12世紀の末である。
『吾妻鏡(あづまかがみ)』の1180年(治承4)8月26日の条に、江戸太郎重長(しげなが)の名がみえ、江戸氏が武士団の一つとして江戸の地を本拠としていたことがわかる。
徳川氏以前の江戸
「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。
地名の由来は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。 よく
家康は今川の人質になって、高度な教育を受けた
人質にならなければ、吾妻鏡に触れる事すら無かっただろうと抜かす馬鹿がいるが
大体だな、吾妻鏡には家康の身近な事柄が記載されてんだよ
それが記載されていなければ、家康は吾妻鏡など愛読していない
季範は額田季範だし、祐範は三河祐範だ
祐範が頼朝に付けてやった下男一人とは、安達盛長の可能性が高く
家康は安達盛長の血を引く
吾妻鏡
現代語文治四年(1188)十一月大九日庚子。
頼朝様の甥(従兄弟の間違い)に当たる僧の任憲が参りました。
未だに会った事も無く良く分からないので、質問してみると、故祐範の子供だと言っております。そこで、北の私邸の客間へお呼びになり、丁重にもてなしました。
その祐範は、季範様の息子で頼朝様のお母さんの弟です。お母さんが早死にした時に、七日目毎の供養に(故祐範が)澄憲法印をお呼びになり、成仏のためお経を唱えさせました。
それだけにおわらず、永暦二年に伊豆国へ流された時に、下男一人を付けさせて送って来てくれ、それから毎月使いをよこしました。そのような恩義を忘れる事はありません。
そこへその息子がたまたまやってきたので、これもご先祖様のおかげの良いかたみだと大変お喜びになられましたとさ。 バカ「江戸は穢土から来てるんやで〜」
厭離穢土欣求浄土」は戦国時代、徳川家康の馬印に用いられたことで知られる。
松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ隠れた。
前途を悲観した元康は松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉天室が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。
すなわち、
「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」との意味で、略
他にも一向一揆と関連付ける説もある。 何もない広いだけの沼地荒地を都市化するってロマンがあるね🏘 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています