岩手県の奥州市埋蔵文化財調査センターはこのほど、平安時代の朝廷が築いた胆沢(いさわ)城の跡(同市)で出土した硯(すずり)から、蝦夷(えみし)が城の正門を守っていたことを示す墨書が見つかったと明らかにした。これまで蝦夷と朝廷は対立関係にあったとされ、専門家は「朝廷と深い関係にあったことが分かり、これまでの歴史観を覆す発見」としている。

センターによると、硯(縦17・8センチ、横15・7センチ、高さ6センチ)は1976年度、正門近くで出土。当初、文字が薄く読めなかったが、センターは3年前から分析を進め、赤外線カメラを使い裏面と側面に墨で書かれた「宇曹」という文字を解読した。「宇」は蝦夷の有力豪族「宇漢米公(うかめのきみ)」、「曹」は詰め所を意味し、この豪族が9世紀後半、正門の守衛や人の出入りを管理していたという。

朝廷は7世紀以降、支配下になかった東北地方にたびたび軍を送り、蝦夷と戦いを繰り返した。胆沢城は、蝦夷のリーダー阿弖流為(あてるい)らを降伏させた征夷大将軍坂上田村麻呂が延暦21(802)年に築いた蝦夷征伐の拠点。朝廷は一方、恭順の意を示した蝦夷には官位を与え、都に招くなどして懐柔に努めた。

蝦夷が朝廷の拠点を守衛していたことを記す史料が見つかったのは初めて。岩手大の樋口知志教授(日本古代史)は「力のある豪族に守衛をさせ、権威をアピールしようとした朝廷の意図が分かる」と指摘。「守衛は重役で名誉とされていただけに、朝廷は豪族の懐柔に腐心したのだろう」と分析している。(共同)

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