西暦608年、裴世(日本書紀では裴世淸)さんが日本の都までやって来て書いた見聞録に基づく『隋書倭国伝』を参照。


原文:俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 【則魏志所謂邪馬臺者也】 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近


現代語訳:「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。【邪靡堆を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。】昔は、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm