【歴史】実は邪馬台国論争って決着付いてる。古代の中国人が「邪馬台国は畿内です」て言ってるから [237216734]
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西暦608年、裴世(日本書紀では裴世淸)さんが日本の都までやって来て書いた見聞録に基づく『隋書倭国伝』を参照。
─
原文:俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 【則魏志所謂邪馬臺者也】 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
現代語訳:「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。【邪靡堆を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。】昔は、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm なんで中国人が書いた歴史書しか残ってないのよ?
昔から公文書焼いてたのか?
裴世さんはヤマトの宮中に来てるわけ。
で、そこが魏志東夷伝倭人条で言うところの邪馬台国だと明記してる。
つまり、もうこの話終わってるんすわ。 邪馬台国民は各地を点々と移動する民族だったとか言い出す >>5
いや 歴史は勝者が作るんだから
この後も時の権力者に都合のいいように
変えて良いはず
そもそも「親魏倭王」は、インド北部を手中に収めた大国クシャーナ朝への印綬「親魏大月氏王」に比肩する称号なのだ
九州説の想定する、北九州しか支配してない弱小国家に渡されるような物じゃないのは明白でしょう 各都道府県の歴史好きおじさんの
出身地こそが邪馬台国。 一箇所にとどまってたわけない
占いや天災や争いで各地転々としてたと思うわ 邪馬台国の時代から見て300年後の話だしな
それは単なる誤認やろ
>>4
倭人は文字かけないやん
それに里数すら知らないらしいし
魏志倭人条でも九州以降の里程だけ突然日数に切り替わるとこあるけど、倭人から伝聞しただけってことだろうね。
大帯郡使は九州より先に行かなかったんやろ 金印が福岡から出てきたのはなんで?
後世に盗まれて埋められたのか?
>>10
ぼく生まれも育ちも東京の根無し草だから、ポジショントークじゃないよ
単純に畿内だとしか思えんのだ。考古史料見ても畿内に巨大墳墓集中してるし、日本書紀にも卑弥呼っぽい人出てくるし 中国、朝鮮半島から渡ってくるなら福岡1択でしかありえないが
>>17
出てきた金印は漢委奴国王の印綬でしょ
奴国と邪馬台国は関係ないよ
奴国ってのは北九州、福岡の那珂を支配していた王国でね。金印出土した志賀島も那珂の真北なんだ。だから何も不自然じゃない 学術予算のために九州説近畿説双方が忖度しあってプロレス 今までは年代測定の指標が古めに出てたことが判明してから
畿内説の証拠はすべてチャラになったから
研究者ですら畿内説から離れてるな 邪馬大国=都 都=邪馬大国
と言ってるだけのような気もするけど
だとしたらその時々の都の位置によって邪馬大国の場所は変遷してるという事では 飛鳥時代までは倭人は邪馬台国の存在を明確に認識していた?
そして邪馬台国から継続、または継承してきたのが今の王朝であると
>>20
福岡に居たのは奴国だよ。奴国の比定地に関してはほぼ確定してるんだ。後に儺県(なのあがた)になって那津(なのつ)になる弥生時代すでに計画的な都市が形成されていた偉大なる先進国家。
https://i.imgur.com/H00p5DU.jpg
現在の地名にも那珂川(“な”かがわ)としてその名を残すほどの覇権国家だ
古代中国人「畿内が邪馬台国です」
日本人「いや、九州が邪馬台国なんだ!」
あのさぁ...史料無視やめようや... 邪馬台国は中国に朝貢してた
天皇が中国に朝貢してたのまずいから
歴史書から消された >>4
たしか古代中国から公文書を残せと叱られてる >>4
公文書焼いてたのはいつの時代どこの国もやってたことだぞ >>8
現代の学者や町おこししたい自治体ならともかく
邪馬台国の位置でどう隋の都合が良くなるんだ?
>>30
あと、女王卑弥呼が鬼道で民を惑わす引きこもりのババアとして描写されてたのも不味い
日本書紀編者は相当これにコンプ抱いてたみたいで、むりやり神功皇后を魏志倭人伝の時代に相当する西暦200年代の人物としちゃった。
あと魏志倭人伝まで神功紀に引用して「卑弥呼=神功皇后」としか読めなくなる様にした。
つまり根暗卑弥呼のイメージを外征盛んに行った陽キャ神功皇后でかき消そうとしたわけですな。
まあ江戸時代以降になると皇紀なんてデタラメだと分かっちゃったので、現代人は欺けないのですが。 中国人目線でいうと
日本の首都=東京 東京=日本の首都
なのであり、首都が他の地域に移動したとしても
とにかく東京と呼んでるだけじゃね
>>39
面白いことに、大豪族だった吉備は百襲姫(卑弥呼に比定)と血縁を有している。
卑弥呼が【共立】されるってことは当然邪馬台国以外の諸国にとっても都合の良い人物だっただろうね。じゃなきゃ共立に参加しないでしょ?
だからこそ吉備とも血縁関係のある百襲姫が、倭女王に選ばれたのじゃないかな? 本当は邪馬一国なのに邪馬台(やまと)と読ませまいから邪馬台国と捏造してる定期 『魏志』(魏志倭人伝)の刊本はどれも例外なく邪馬壹国(邪馬壱国)か邪馬一国となっている。これを邪馬台国(邪馬臺国)とするのは根拠に乏しい。
「『邪馬台国』はなかった」では、論拠として以下のことが挙げられている。
三国志全巻の「臺」「壹」の用例を全て調べ上げたが、取り違えて「壹」と誤記していると思われるところはなかった
三国志全巻で「臺」は魏朝の王宮またはそれに準ずる王宮にしか使われない「至高の文字」だった。「邪」「馬」「卑」などの卑字をあてられる蛮族の国名に、至高の文字を割り当てることは、三国志筆者の思想からして有りえない。
現存する三国志の基となった注釈版では、五世紀時点には残っていた他の版と厳密に比較して慎重に意見を付しても原文改訂を行わないのが執筆者の方針だったが、「邪馬壹国」表記に何も注釈を残していない。このことから、当時のすべての版で「壹」と書かれていたと思われる。
三国志成立の三世紀から、現存する版が書かれた五世紀まで、金石文で「臺」と「壹」の字形が似ていたかどうかを調べたが、誤記するほど似ていたとは言えない。
『後漢書』などには邪馬台国とあるものの、『梁書』の例もある通り「魏志倭人伝」以外の全てが邪馬台国というわけではなく、邪馬台国が正しいとする根拠にはならない。
邪馬台国は邪馬壹国よりも狭義の意味での国家と考えられる。(後漢書を見る限り、邪馬台国は倭王のいるところを指す地名のようなものと思われる)邪馬壹国は九州にある国である。
なお、古田武彦は、三国志などの使用例を鑑みれば、「邪」(神秘的な)、「馬」(家畜のようになついている)、「壹」(二心なく天子に敬意を尽くす)のような好感を持ったニュアンスを含めて漢字を割り当てたと理解できるとしている。 卑弥呼は特定の個人を指す名前じゃなくて女王とかそういう称号で複数いた言われてるけどな
卑弥呼とは日の巫女(ひのみこ)のことを言っている
邪馬台国の時代には既に「出雲・吉備・畿内」の主要メンバーで同盟組まれてた事が
考古史料から伺えます。
もう九州説が何を言っても物証まで出てるのですね。
これだけ広範な地域を抑える政治勢力以外に、親魏倭王の印綬を受けるに値する連中はいないでしょう。
https://i.imgur.com/qtA6WIP.jpg 畿内でもいいけど朝鮮半島と日本の交易ルートが九州中心だったのは間違い無いだろうから首都を畿内におく動機に欠けるよね。
当時は大陸の知識って軍事機密みたいなもんだし、それを九州地方の豪族に独占されるのは危ないでしょ 晋→隋の時代に中国でも歴史が断絶してて
日本でもこの時代がすっぽり分からなくなってるんだよな
>>43
邪馬“壹”国が登場したのは宋代以降です。
それ以外は殆ど邪馬“臺”国なので、邪馬“壹”国は誤記である解するのが自然では?
https://i.imgur.com/pFSFWJD.png >>44
九州だと後の時代でも媛がトップの国がいくつもあったみたいだからなあ 九州より広い平野があり、稲作に適しているところが人口が増え中心になるのは妥当
>>48
その通りですね。「支惟(吉備)・投馬(出雲)・邪馬臺(畿内ヤマト)」から構成される女王国は九州を欲しました。
で、九州を破ってしまった様です。
実際に伊都国だけ女王国に統属すると特筆されていますし、女王国から一大率が送られて武力で支配されてる様子も伺えますね。
では一大率とはなんだったのか?私は後世における「太宰府」とほぼ同じ役割を果たしていたと考えます。
【一大率≒太宰府】
倭人条から読み取れる一大率の果たす役割は2つで内政外交。つまり後世「遠の朝廷」とまで呼ばれた筑紫太宰と同じ役割を果たしていた事になります。
①内政
>自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
↓訳
「女王国より以北
(以西と読み替える※1。先述した通り、女王国は関門海峡以東に拡がる吉備・出雲・畿内連合の事なので、それより西とは関門海峡以西の九州を指している。)
は、特に一人の大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。」
②外交
>王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
↓訳
「(女王国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行く時、及び帯方郡の使者が倭国へやって来た時には、いつも、(一大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。」
※1に関して
「御都合主義解釈やめろ。以北を以西に読み替える理由は?」
はい、2つあります。
第一に、350年後実際に都まで行った隋の使者「裴清」の見聞録に基づく『隋書倭国伝』で方角修正がなされていること。
第二に、日琉祖語から日本語と琉球語が分岐したのが1700~1450年前と推定されますから、魏志倭人伝の時代はまだ一緒だったか分岐して間もなかったか。
であればまだ、北をニシと呼称する人々が九州には残っていて、本州女王国から派遣されてきた役人との間で齟齬が生じていた可能性があります。
後世沖縄のニシバル(“北の領地”の意)を日本役人が勝手に西原と変えてしまったように。
であれば一見混同する筈の無い北と西の混同も起こり得たと考えるのです。 近畿にチョン顔が多くて九州に縄文顔が多いのはなんか関係あるの? 卑弥呼(ひみこ)がこの世を去り、3世紀後半になると、近畿地方から瀬戸内海沿岸各地に「巨大古墳」がつくられるようになります。
「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」は、前方部と呼ばれる四角い部分と後円部と呼ばれる丸い部分からなる古墳です。
丘陵地など自然地形を利用し、表面にはたくさんの石が敷きつめられ、周囲には円筒形の埴輪(はにわ)が並んでいます。
円形部分には、石室(せきしつ)とよばれる空間に、王など地位の高い権力者の遺体がおさめられていました。
さらに石室には、鏡や玉、武器や武具などの副葬品(ふくそうひん)が一緒に埋葬されていました
古墳は、4世紀後半になると九州南部から東北地方南部にまで広がっていきます。
多くの古墳がつくられた3?6世紀ごろまでを「古墳時代」といいます。
「大仙陵(だいせんりょう)古墳」は、日本で最大規模の前方後円墳です。
墳丘(ふんきゅう)の長さが486m、幅305m。クフ王のピラミッド、中国の始皇帝陵(しこうていりょう)と比べてもその大きさが目をひきます。
つくるのに1日あたり2000人動員しても16年はかかる、と計算されています。
また、古墳時代後期の古墳の副葬品の中には、「鉄製の武器」や土器、馬具など、中国や朝鮮半島など東アジアの影響を受けたと思われるものも多くありました。
古墳時代につくられた古墳の分布をみると、大型の巨大古墳は、奈良県や大阪府南部を中心とした近畿地方に集中しています。
このことから古墳をつくった各地の王、豪族らが、大和地方の王を中心に政治的に結びついた連合体を形成していたと考えられます。
これを「大和王権(やまとおうけん)」といいます。
大和王権の盟主は「大王(だいおう)」とよばれ、大きな権力を持つようになっていきます。
古墳は、前方後円墳だけではなく、「円墳(えんぷん)」「前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)」「双円墳(そうえんふん)」「四隅突出墳(よすみとっしゅつふん)」など、さまざまな形のものがあります。
えり 「なんと、全国で16万基もあるそうです。コンビニの数よりもずっと多いんですよね。」 >>58
クマソとえみしは、仲が悪く、関西が無人の緩衝地帯だった。 >>9
大乱直後で不安定、ヒミコ死後も混乱。
現在も隣国に押されて苦戦中なのに? さっさと天皇陵ほじくってDNA調べりゃいいのになー
>>58
2段階じゃないですかね
①古墳時代のヤマトは沖積地で、例えるなら江戸時代の新潟。良田に適した地域がバシバシ形成されていくニューフロンティアでもあったので余所者が入りやすかった。
②古墳時代以降は間違いなく日本の首都ですから、大陸から更に渡来人がやってくる事になる。技術を教えてもらったりもしたでしょうし、秦氏みたいな政治と結びつくために大和にやってきた政商一族も居たでしょう。 >>46
畿内説の学者は「どう考えても畿内としか思えない」と言ってるし
九州説の学者は「どう考えても九州としか思えない」と言う
学者に対する信頼感が壊れ、連中の「考え」「思い」って当てにならんのだなということを教えてくれる >>4
金印という公文書を捨てた
金は焼けないから出土した
恥だよな 邪馬台国と大和朝廷が同じものだといってるだけで
畿内だとか一言もいってない嘘を書くな
その後に昔はここにあるといわれていたとあきらかに九州の場所書いてるだろ?
昔はここだった、今は違うってことを暗にいってるんだよ
要するに東遷したってことな
>>61
すぐ混乱するのは何故だと思いますか?
連合国家だったからでしょう。
そもそも共立なのだから、諸国を結びつけていた【女王】というシンボルを失えば瓦解しかねないのも当然です。
そんな実態としては脆い女王国も、外から見れば連合全体としての版図はデカいからこそ、親魏倭王に値するのです。
>>67
いえ、隋書にそんなこと書かれてないです
>>62
箸墓古墳開ければ一発ですよ
あそこ卑弥呼の墓ですから。 古墳時代
大きさランキングだと大仙古墳大阪府がぶっちぎり
トップテン見ても大阪岡山奈良 現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。 中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。 古墳時代の天皇家と今の天皇家はDNA一致しなくて墓開けたらまずいんだろね
壇ノ浦で断絶済み
というか魏志倭人伝と日本書紀比較すると分かるけど、もろ崇神紀に対応してるじゃ
ん。人名とか一致しまくってる。
ちなみに皇紀ベースだと200年ズレてるから、編者が意図して近づけた物では断じて無く一致してるのな。むしろ編者が卑弥呼と結びつけたかったのは神功皇后の方だし。 北九州は外交用の迎賓館みたいなかんじの窓口があっただけでしょう >>68
外から見て不安定で隣国に押されていることが明記されているぞ。
>>76
クシャーナ朝も隣国に押されたりしてるよ
けどインド北部全域領域に収めてるんだし強国には違いないだろ
また、親魏~王印を貰ったのはクシャーナと倭国だけ。という事を踏まえるべきだ。
>>75
そんな単純な話でも無い。九州もまた偉大で、皇祖の一つである。伊都国の平原遺跡からは皇室三種の神器の一つ「八咫鏡」と同型と思しき鏡が見つかっている。
おそらく魏志倭人伝の時代より後世に、畿内大王家と伊都国が合併した。
九州が単独で強大だったからことが、畿内と吉備と出雲を結びつけ女王国を誕生させる動機にもなったでしょう。
https://i.imgur.com/NKNJGZG.jpg
まあここがまた話を厄介にしてる。 邪馬台国は連合王国みたいな感じか
あるいはアメリカみたいな感じか
ユナイテッドステイツ??
割と広い地域を支配してたと思われるけど
日本全土を支配してたわけではない
後の大和政権でも豪族がいっぱいいたし
そんな感じか
天皇が2600年前からいたというのも後付けだし
そもそも天皇いい始めたの700年より後くらいからだし
ちなこれ平原の大型鏡についてまとめた画像だけど、ここまで一致してたら八咫鏡と同型だとしか思えんよねw
https://i.imgur.com/58UeI03.jpg 400年後の中国人による400年前の中国書物の解釈に過ぎないのでは >>81
同じ言葉を話す部族集団だろうね
後に蝦夷と呼ばれる人種が大和朝廷によって排斥されたのは彼らと違う文化圏、言語だったからだと思われる
【人名対応】
魏志倭人伝
↓
日本書紀
①邪馬臺国の官(卑弥呼に仕えている)
伊支馬[“イキマ”(生駒)]
↓
垂仁天皇[“イクメ”イリビコ(活目入彦)]
※大王墓は生駒山の前にある
弥馬獲支[“ミマワキ”(御間城)]
↓
崇神天皇[“ミマキ”イリビコ(御間城入彦)]
─
②祭祀王
卑弥呼の後を継いだ女王:臺与(トヨ)
↓
日本国初代斎王:豊鍬入姫(“とよ”すきいりひめ)
あと卑弥呼死後に倭国が荒れた。と魏志に書かれてるでしょ?日本書紀でも百襲死亡記事の次に、崇神天皇が諸国に喧嘩売りまくって四道将軍覇権し侵略開始する記事が来るんだよね。
─
では、神武東征や九州にフォーカスしてみましょう。
具体的に畿内の大王家と九州伊都国が一体化した(誤解しないでほしいが、一体化する前も支配被支配の関係ではあった。傀儡と併合の違いみたいなもの、と理解してくれていい)のはいつか?
それは4-5世紀応神天皇の時代である
【伊都国と畿内大王家の一体化。神武東征のモデルは応神天皇!?】
─
私は、畿内の皇室と九州とが4~5世紀に一体化していたと考えます。
キーとなる国は魏志倭人伝(2-3世紀倭国の様子を記す)に登場する伊都国。
伊都国出土鏡が皇室のレガリアたる「八咫鏡」の特徴「八頭花崎八葉形」を備える唯一の鏡だという事は有名ですが、加えて応神天皇出生比定地も筑前国【怡土】郡長野村蚊田である事は余り知られていないでしょう。ここが重大なのです。
https://i.imgur.com/FJmR5rX.jpg
『天皇が畿内ではなく九州の旧:伊都国で生まれている』
─
※応神天皇は九州から畿内にやってくる史上二人しかいない天皇ですね(もう一人は実在しない神武)
伊都(怡土)で生まれたとされる応神天皇。彼が伊都国のレガリアを継承し畿内に持ち帰る事によって、畿内による九州支配が名実共に確立されたのでしょう。
事実、応神以降の大王墓には九州産の石が使われる様になるなど、考古資料からも関係の深化を伺う事が出来ます。ちな政治の中心も奈良から沿岸の大阪に移ります。
─
そんな親九州の応神天皇系が断絶し、北陸豪族継体天皇が奈良入りしてから僅か9ヶ月後、九州で磐井の乱が起きたことも示唆に富みますね?
磐井の乱は継承戦争だったのかもしれませんよ。
妄想が捗りますね。
応神天皇の時代に、九州にまつわる神話(伊都国神話)が持ち込まれたのでしょうね。
有名なニニギの天孫降臨なんかを例に出しますが、彼は降臨した際に「ここは韓国と向かい合っていて良い土地だな!」と言うのです。
これ、天孫降臨の原型となる説話の舞台が北九州(伊都国)であった名残では?
『常識的に考えて、宮崎県が韓国と向かい合ってるわけないじゃないですか。』
─
おそらく朝廷が後に熊襲を平定する際「お前らの祖先は宮崎県に降り立ったニニギの息子なんだよ。だからお前らも俺の親戚だから軍門に下れ」と説明した方が都合良いから舞台を南九州にしてチンプンカンプンになったのでしょう。当時の南九州はド田舎でここから天皇家が始まったとは考えづらいです。大陸から来てるなら北九州でしょうしね。
>>90
魏志に時代が一番近い別史料が隋書なんですよ。 中国で内乱が起きる時代って日本でも内乱が起きるんだよね、不思議なことに っていうか文字もなかった集団が急激に勢力拡大するのもおかしいから空白の四世紀あたりに中国の戦乱で逃げてきたやつが
一気に日本を制圧して各地で建国ラッシュしたんだろ。
それじゃないといきなり朝鮮半島に勢力拡大して領有権主張したりする理由がないし。
邪馬台国は日本土着国家からもしれないけど、そこで日本の歴史は一旦終わってあとは侵略者の歴史なんだよ。
>>93
寒冷化すると世界的に戦争起きますからね
倭国大乱中も日本列島では自然災害色々あったみたいで、新羅本紀に倭人が飢えて亡命してくる記事があったりします。
>>94
文字の無い集団が突然拡大するのはおかしいですか?
文字を持たぬインカ帝国が、現代日本の3倍にも及ぶ100万平方キロメートルを統治下に置いた例などありますよ。
ちなみに大陸からの移民流入は邪馬台国の時代には既に始まってます。
だからこそ前方後円墳みたいなのがバンバン立つようになったのです。邪馬台国は土着じゃないでしょう。
三角縁神獣鏡だって西王母描かれてますから、道教信じてる倭人まで居たのでは?卑弥呼も鬼道(道教のこと)やってたと魏志に記載ありますし。 3世紀から5世紀にかけての列島の勢力図が
問題なわけで
7世紀のを持ってこられてもね
ここまで九州説の方か具体的な噛みごたえのある反論を貰ってない。魏志のこの記述がこれこれこうで、みたいな話は無いの?
>>99
魏志に径100歩の墓を作ったとあるが、この規模は奈良盆地にある箸墓古墳にちょうど符合する
こうした大規模な墓は当時の北部九州地方には【一つも】無い
径100余歩(魏代の一歩=六尺=1.447mより直径150m+α)の古墳を北九州で見つけてみてください。 倭の五王(わのごおう)は、中国南朝の宋帝国(劉宋)の正史『宋書』に登場する倭国の五代の王、讃・珍・済・興・武をいう。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡り、晋、宋、斉などの諸帝国に遣使入貢し(遣宋使)、また梁からも官職を授与された。倭の五王が記紀=『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)における歴代天皇の誰に該当するかについては諸説あ
>>102
では、同時期に築かれた後円部が150mの巨大な墳墓は九州のどこにあるのでしょうか。 >>101
特殊器台は吉備の勢力の特徴なんで
それだけ持ってこられてもね
北部九州は北部九州で
糸島や吉野ケ里だけではなく大規模遺跡があるんで 嫌儲では定期的にこのスレが立つな
邪馬台国なんて日本で革命でも起こらないと
確定出来んよ
>>112
ほう。では糸島や吉野ケ里のどこに後円部が150mの巨大な墳墓があるのでしょうか?
そもそも糸島は伊都国が比定地であって邪馬臺国ではないのでは?
>>114
あなた、僕のことバカにしてる?
大型内行花文鏡については5回以上レスしたし、いつ皇室に継承されたのかまで考察してるのですが。>>88 >>105
それ当時の伊都国(糸島)が
都(統治機能を持った一大率)として機能していたって証明だよね
>>114
はいどうぞ
>>80,82,88,89,91
では、今度は伊都国を更に深掘りしていきましょう! >>117
では自ら墓穴を張っているということですね 邪馬台国畿内説でいいんだけどその論拠を隋書で決着済みていうのはね
せいぜい400年後とはいえ現代よりはるかに近接した時代において邪馬台=ヤマト(邪摩堆)であることに特段の疑いを持たれてなかったくらいの資料だろ >>115
吉備の勢力の話はどこに飛んで行ったのですか?
>>119
伊都国には代々王がいる
彼らは全員女王国に統属している。
と本文にありますよ
女王が女王国に統属するのですか?おかしな文ですね。
>>123
いや、貴方が大型内行花文鏡の話をしたがってたから切り替えたのですよ >>120
つまり糸島すなわち一大率であった伊都国は
大型内行花文鏡が出土したことで
政治機能を持ったクニであったと君は証明しているのですね >>123
つまり特殊器台の話は引っ込めたんですねw >>124
つまり
邪馬台国の政治機能は機内ではなく伊都国にあったということですね
>>119
>「世有王皆統属女王国」
これを理解しやすくするため同じく主語短縮or省略する癖がありSVO型言語である英語に訳すと
At all times, there is a king.
Everyone belong to queendom.となる。
Everyoneってのは歴代の王の事
女王が女王国に統属するなんて成立しないでしょ?違いますか? 7世紀までの記録がまともにない
文明が遅れた国だったし
文字も中国から伝来した渡来人だよりだっただろう
ということ
日本が現在の支配領域まで広がったのも
沖縄北海道を組み込んだ明治時代からで
たった150年程前からだ >>125
つまり特殊器台の話は引っ込めたんですねw >>129
今度は伊都国の政治機能がどこかに飛んで行っていますがw
>>128
なぜ?私は一大率の機能を太宰府に例えています。>>56
太宰府が筑紫島の外交内政をしていたからといって日本の政治機能が太宰府にあったとするのは論理の飛躍では?
一度、僕のレスを最初から読み直した方がいいと思いますよ。
─
貴方が疑問に思ってることの殆ど、すべて説明済みじゃないですもの。
>>131
いいえ引っ込めませんよ。
吉備は出雲とヤマトを繋げる地理的地位にあるので重要です。早期から巨大な墳墓や遺跡がたくさん気づかれています。卑弥呼に比定される百襲姫の弟も、吉備氏ですよね?
>>132
それに関しては>>56で説明してます。
貴方が疑問に思うような事は殆ど先回りして説明済みですよ。
他に質問ありますか? 戻しますね
>>1これ大陸で7世紀に書かれたもの
つまり記紀の一世紀前の文献でしかないのさ
当たり前だけど邪馬台国は3世紀の話で
弥生時代末期の話
日本の古代史で一番問題になるのは
この弥生時代末期から古墳時代にかけての
日本列島の勢力図で
もちろん弥生時代とは半島からやってきた渡来人が列島に移住する過程で
発生した時代区分のため
その入り口となった北部九州が列島の最大勢力であったのはどんだけ
ネトウヨがごねても間違いのない話
また、同時に
ここから古墳時代にかけてその勢力が機内に移動したのも間違いないが
その移動の仕方が3世紀から5世紀にかけてのいつの頃に
何処のどの勢力が機内でどのように覇権を取ったのかが
全くと言っていいほどわかってない >>134
では伊都国が存在した頃に
一大率に匹敵する機内のクニの「名称」だしてみw
そんなもんは古代の文献には書かれてないよ 九州の縄文人が火山噴火の災害から逃れて南米まで到達した証拠が土器として南米で見つかっているから諦めろ
九州の縄文人が高い航海能力を持っていて西は中国、本気を出したら南米まで到達できた海洋民だったと思うべき
倭人は海洋交易民でしたって記述は倭人伝にも出てくる >>135
そうだね
吉備の勢力が
どのようにどうなったかなんて全く解ってないもんね
だから吉備の勢力を持って機内の勢力の証明なんてできないよ >>136
一大率の機能を認識しているのに
君は機内の勢力の話が出ると
たちまち一大率を無根拠のまま矮小化するのですねw
>>137
>もちろん弥生時代とは半島からやってきた渡来人が列島に移住する過程で
発生した時代区分のため
その入り口となった北部九州が列島の最大勢力であったのはどんだけ
ネトウヨがごねても間違いのない話
─
ええそうですね。否定した事はありませんよ。弥生時代中期後期(漢委奴國王の時代)に一番進んでいたのが九州北部の奴国である事は>>27にも書きました。
また、高度な鍛冶技術を要する長刀が最初に出現したのも北部九州です。
>>138
>一大率に匹敵する機内のクニの「名称」だしてみw
─
一大率はクニではないので、クニと比較する意味が分かりません。
筑紫大宰における筑紫率と同じ派遣官でしょう。 >>142
ではそんな糸島から北部九州にかけて確実に存在したとしてよい
大勢力を差し置いて
機内の勢力は「いつ」「どのように」列島の中心になったんですか? 九州h北部だと中国に近すぎるから
畿内を中心にした
出雲も日本海沿いだし
岡山瀬戸内海経由で畿内へ シーマオ遺跡なんてのも中国で見つかっているけどこれが南米の古代文明と高い一致をしているんだよな
地元に残っている神話を見ても明らかに南米の文明の源流は古代中国にあった
古代中国人は海洋交易民と想像より仲が良くてコネで一緒に移動しましたって事は歴史的に見ても何度もあったのだろう >>143
うっわw
ムラの次はクニなのが当たり前なのにさ
伊都国はちゃんと
数千戸あったのにクニではないときたか
伊都国って書いてあるのにクニではないww
コイツ頭おかしい 大山古墳が五世紀前半らしいから
400年ごろには畿内が最大勢力になってたと思う
>>141
>君は機内の勢力の話が出ると
たちまち一大率を無根拠のまま矮小化するのですねw
─
いえ、矮小化などしておらず魏志に書かれている事をそのまま理解しているだけですよ。
一大率は「有如刺史」と評されていますよね。
魏における刺史とは、中央から地方に送られてきて管理する行政官の事なのです。
一大率をクニと同じ様な物だと思っている貴方こそ“無根拠のまま”過大評価しているとしか思えないのですが。 魏志倭人伝にちゃんと糸島の南にあるって書いてんのにまだそんな事言ってんの?
伊都国が糸島じゃないとか言い出す? お前らは賢いのかアホなのか分からなくなる時があるよ
魏志倭人伝なんて怪しいものより、より信頼できる不動の物的証拠のシーマオ遺跡と南米の文明の類似について注目しろよ
>>151
>伊都国はその名称のままクニですよ
─
貴方は>>138で
>一大率に匹敵する機内のクニの「名称」だしてみw
と書きこみませんでしたか?
一大率を国と並列して比較していますよね?違いますか?違うのなら、どういう意図で書き込んだのか説明お願いします。
>>147
ああ、貴方は「一大率=伊都国」だと思っていたのですね。それは違いますよ。
刺史とは、中央から地方に送られてきて管理する行政官の事ですから。 >>152
(ヽ´ん`)俺も最初からそう思ってました
伊都国ファンの方が居るので更に掘り下げてみましょう。私は伊都国が元々九州の覇者であったと考えています...
【九州の覇者だった伊都国】
①代々王が居た。と特筆されている
・王の存在が明記されているのは、狗奴国と邪馬臺国と伊都国のみ。
②多くの官がいる
・三人以上の官が見られる国は、邪馬臺国と伊都国のみ。
③九州諸国で唯一、官に卑奴母離(ヒナモリ=鄙守=辺境を守る兵士)の名が無い
・伊都国は辺境ではない?
④豪華な副葬品を持っていた
・八咫鏡の特徴とされる「八頭花崎八葉形」を持つ唯一の鏡が出土。
以上の4点から、本州女王国に征服される以前の九州では伊都国が主導的立ち位置に居た物と推測します。
そこでは伊都国が各地に「ヒナモリ」を派遣し統治を行っていた。
だからこそ、女王国は敵(北部九州)首脳たる伊都国に一大率を置くだけで「ヒナモリ」の統括をも可能になり、筑紫島北部全域に睨みを利かせる事が出来たのでは無いでしょうか。 邪馬台国論争の基本は
列島の北部九州勢力(遺跡の発掘状況の共通点から半島南部の加羅地域も
含む可能性大)が、半島経由で当時の大陸の歴代権力者たちと
「交易する過程」で書かれた文献である魏志倭人伝の「大陸側による」記述だってこと
だから交易の過程で大陸の権力者たちが得た列島の情報が書かれたものでしかない
そこで間違いなく名称と共に
現在地が今でも確実にわかる「クニ」があって
それが伊都国
もう一つ記述されているクニが邪馬台国だが
これは距離や方角の記述が伊都国から先は解釈が分かれてしまうため
確定してないしこれからも確定することがない「文献記述の欠陥によるもの」
だからさ
伊都国をクニではないとかさ
もう基本中の基本が全く解ってないバカでしかない
>>158
>だからさ
伊都国をクニではないとかさ
もう基本中の基本が全く解ってないバカでしかない
─
伊都国はクニではないと評価した事など一度もありません。あるなら該当レス番号を教えて下さい。
>>160
その人は一大率をクニだと勘違いしているので、乗っからないでください。 >>153
おまえは伊都国をクニではないなんていう
とんでもないこといっている馬鹿でしかない
それを踏まえた上で俺のそのレスは
この時代に一大率という統治機能が明記されているのは
クニとして明記されている魏志倭人伝だけ
おまえが機内のクニを邪馬台国であるとするのならば
その邪馬台国には統治機能である一大率すらないことになるよということ >>154
> 「自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之
> 常治伊都國 於國中有如刺史」
伊都国に一大率を設置したと書いてあるんだけど
おまえなにいってんだ?
>>163
>おまえは伊都国をクニではないなんていう
とんでもないこといっている馬鹿でしかない
─
私は伊都国をクニだと思っていますし、一貫して伊都国がクニである前提で話を進めてきたつもりです。
伊都国を国として認めない旨の発言を私がしているというのなら、該当レス番号を教えて下さい。 もしヤマト王権が邪馬台国なら記紀に嬉々として金印や魏鏡の事を書いてるわ
あ、魏鏡は大分から出土していましたね
>>164
>伊都国に一大率を設置したと書いてあるんだけど
書いてありますね。設置したのは女王国で、設置された側が女王国に統属していた伊都国ですね。 >>161
>>143
> 一大率はクニではないので、クニと比較する意味が分かりません。
> 筑紫大宰における筑紫率と同じ派遣官でしょう。
伊都国は間違いなくクニと書かれていて
一大率もまちがいなく伊都国にあると書かれているのが魏志倭人伝
おまえは伊都国をなんだとおもってんだw >>45
出雲と岡山の連携ってかなり無理があると思うぞ
普通古代の流通は海運なんだよ
舗装されてない山道を出雲から岡山に抜けるなんて、正気の沙汰じゃない
逆に言えば海を九州勢力に支配されてたからこそ出雲は無理のある山道にしか活路がなかったのかもしれない >>133
そもそも録音もないのに何で当時の発音が分かるの? >>165>>167
だったら一大率という当時の統治機能があったのは
邪馬台国と同じ国として表記されている伊都国
この時代に機内に邪馬台国があったら
統治機能が機内から遠く離れることになるよ
>>166
えーっと。普通に書いてありますね。
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_09.html
>卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
ただこれは神功紀に入ってるので真実ではない。
まあ詳細は>>38に書いてあります。
あと記紀の編者は、あの三国志の呉が朝貢してきたとか誇大表現多用して自国称揚するくらいですから、臣下であった事はむしろ屈辱で喜々として書いたわけじゃないでしょうね。 東西5ヶ月で海とかってどっからどこまでなん?
九州から伊勢湾ぐらい? 伊都国には「代々王がいた」「官と副官が2名もいた」さらに「一大率がいた」と書かれてて、かなり複雑な支配形態になってることが推察される
たとえば磐井の乱のときの福岡みたいな支配構造だったんじゃないか?
あるいは豊臣政権下における徳川家康の勢力のような
邪馬台国傘下でありながら、高度な自治を特権的に許されて連携していたのでは?
>>171
>だったら一大率という当時の統治機能があったのは
邪馬台国と同じ国として表記されている伊都国
この時代に機内に邪馬台国があったら
統治機能が機内から遠く離れることになるよ
─
また同じ説明します。
魏志で一大率は「有如刺史」と評されています。
魏における刺史とは、中央から地方に送られてきて管理する行政官の事なのです。
【【【地方行政官】】】です。
なぜ地方行政官を置くと首都機能まで地方に持っていかれるということになるのですか?それは論理の飛躍ですよ。 >>171
任那日本府みたいなもんだろ
伊都国は高度な自治を許されながら、邪馬台国の出先機関としての一大率を受け入れることで対立を避けて連携していた
>>174
そうそう!やっぱりそうですよね! >>173
東西南北が海って書いてるから畿内だとおかしいんだよな
東と北は海じゃない
蝦夷の国につながってるはず >>175
では
仮に中央が機内にあるとして
その方角はどうなるのかと
伊都国の南はどこまでいっても機内ではないですよ >>175
官と一大率が別にいる、というと官のポジションがよくわからないんだよな
地元勢力のトップが官で
中央から派遣されたのが一大率ということなのか
>>179
方角の話は俺より>>133の方がスマートに説明してる > 「自女王國以北 特置一大率 検察諸國
> 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史」
結局はこの一文が
一大率があるのは伊都国で
女王国の北に一大率と強烈に示してあるため
畿内説はこれを誤魔化すしかないのさw >>181
そんな誤魔化ししかできないということですね
少なくとも魏志倭人伝が示す大陸から邪馬台国までのルートでは
西が北寄りもしくは南寄りになっていたりすることはあっても
北と南が反転してしまうことはない
しかしこの女王国と一大率での方角の記述は反転しているのだと
無茶苦茶な解釈をするしかない
>>180
官ってのは便宜上そう書いただけで、実態は王ですよ。
冊封とは対象地域の王を一人に纏めてその一人に正統性与える事ですから、卑弥呼を倭全体の女王として認めてしまった以上は諸国の王は官と書くしかなかったのでしょうね。
後漢書倭伝の文中(魏志から引用した部分)に「国はみな王を称す」とあるのも傍証になるかなと思います! クナ国はクナト神を信仰してた勢力だろ
縄文出雲系
出雲族は縄文時代からヒスイと黒曜石の流通を支配して勢力を誇ったが
稲作渡来人勢力(神話で言うスサノオやアマテラス)に段階的に恭順していった
縄文出雲族も一枚岩じゃなく、早くから稲作化していくクニもあれば強く反発するクニもあり
それらが分裂したり合体したりしながら、最終的にはヤマトに吸収されていく 魏志倭人伝に書かれている方角とか壱岐島の時点で実際の方角とずれてるだろ
奴国までいくと実際の方角は70度ずれてる >>184
でも邪馬台国にも官がいるんだよな
卑弥呼の存在と矛盾する
そのへんは祭祀王と統治王の二王制だったのかな
>>183
>少なくとも魏志倭人伝が示す大陸から邪馬台国までのルートでは
西が北寄りもしくは南寄りになっていたりすることはあっても
北と南が反転してしまうことはない
しかしこの女王国と一大率での方角の記述は反転しているのだと
無茶苦茶な解釈をするしかない
─
いえ、見解が分かれるのはフミ国からですね
ここ以降は倭人からの伝聞でしょうからややこしくなって方角距離で論争になるのです。
例え方角が南だったとしても、水行20日水行10日陸行一ヶ月では沖縄辺りに邪馬臺国があったことになるでしょう。
そこで九州説は「放射説」で乗り切ろうとするのですが、同説の根拠になったのは350年後の隋書どころではなく800年後の新唐書。しかも倭国について書いてある記事でもなく、別の話題の所から引っ張ってきて過去にこんな用法があったのです!と
これは流石に酷い暴論ですよねぇ。 もうホントさ
この手の機内大和王権が
「弥生時代から継続して存在していた」とネトウヨちゃんたちは
したくてたまんないのがこの手の話の肝
そうしないと記紀の神代の記述が北部九州や下手したら半島に
その痕跡があるかのようにされてしまうことを恐れ続けてきたわけ
しかし記紀でもさ
あたりまえに神武は東征してるわけね
つまり何処かから東に渡り大和を創り支配したことになってるんだ
これをネトウヨちゃんたちは弥生時代初期どころかもっと遡った時代の話だとしたいが
んなわけないし
弥生時代の勢力としては中期ですら
大陸の文献でも帥升が記述され
帥升は限りなく九州のクニにいた支配者である可能性が高いため
中期にはまだ東征していなかったとするのが妥当
だから記紀に見られる東征とは
弥生中期から古墳時代初期ごろにかけての話で
神武とされた権力者もこの頃の時代の人物と推定される
>>188
官に関しては>>85に書きました。今の天皇の祖先と似た人物の名が魏志にも記載されています。
─
つまるところ、崇神天皇やらなんやらは卑弥呼の手下だったのでは?
日本書紀にも未来の事を予言できる(笑)とされる百襲姫の忠告のおかげで、崇神天皇が謀反企てた武埴を返り討ちに出来たという記事がありますが、これは百襲の命令で武埴をぶっ殺したと考えることも出来るのではないでしょうか。
予言なんてものは実際には存在しないわけですから
https://i.imgur.com/0xzxHJ1.jpg >>189
うっわ
こいつ、単位をそのまま今の時代の単位にしているぞw 3世紀と7世紀をゴッチャにしている間抜けなスレはここです >>189
で
方角の話はどうなったんです
誤魔化しましたよねw >>193
この人ね>>1
コンサータ飲んでる人なんで
思い込みが激しいの
>>190
この手の機内大和王権が
「弥生時代から継続して存在していた」とネトウヨちゃんたちは
したくてたまんないのがこの手の話の肝
─
九州説も、「神国日本が中国に朝貢していたなんて信じられん!九州山門の女酋長なんだ!」ていうネトウヨ主張から始まってますよ。
そしてそういう貴方も「神武東征」を実在の物として信じたがっていますよね。 >>196
山門は江戸時代の話だろ
なにいってんだこいつ 優しく諭してるイッチと騒いでるやつの知識格差ありすぎて草 >>191
その記事読んで思ったのは
むしろモモソも崇神も「大物主神」の手下のように見える
ヤマト史観的に、天皇より上位の存在はあってはならないから「神がかりにより降りてきた」とされてるだけで、
実際には普通に大物主神の手下として動いていたのでは?
モモソは大物主に嫁入りして、その大物主は「ヘビ」として描かれてる
ヘビの王といえば出雲族だろう >>196
と
神武が実在の人物のわけないだろ
神話は元になった誰かがいる可能性や
元になる出来事がある可能性はあっても
実在したとかあるかってのw まだこいついるんだ
自分でスレ立てでグラフ読めてなくて笑ったわ つまり卑弥呼を共立した母体として大物主勢力(出雲族)の存在は大きくて、崇神(副官ミマカキ)も大物主に気を使わざるを得なかった
それが、卑弥呼と大物主が死んだことで崇神が「俺の時代じゃー!」とばかりに四道将軍派遣して出雲を叩きに行ったんじゃないかな >>187
対馬国の南に一支国があると書かれているけど
実際は一支国とされる壱岐は対馬の南ではなく東南にあるからね
末盧国の東南に伊都国があると書かれているけど
実際は伊都国は末盧国の東南ではなく北東にあるからね 崇神の時代には
天照大神と倭大国魂神の2神を宮中に祀ったら異変が起きたため場所を移し、代わりに大物主を祀るようになった、とある
これは「卑弥呼を共立した勢力母体が内輪もめをはじめて、大国魂神の勢力は連合から離脱し、代わりに大物主勢力が連合入りした」と読める
重ねていうが、ヤマト史観的に天皇に匹敵する王の存在はあってはならないので
それらは「神」ということにされる
>>199
これで
出雲(大物主)・吉備(特殊器台・百襲の弟)・畿内(崇神)が揃いましたね 大陸からの進歩的な技術を伝来されやすかった九州北部が、覇権を握ってないのはどうしてなんだろ
とは、このスレを読んでいて思った
稲作の発達が早かったなら人口が多かったってことで、数こそ正義なのでは?と >>205
冬休みで暇なんだなええこっちゃ
法学徒が歴史教養なかったら薄っぺらいもんな ネトウヨちゃんたちにとっては邪馬台国機内説なんかよりも
「帥升と金印」
コッチの方がはるかに邪魔なはずなんだけどね
このあたりは弥生中期の列島が
北部九州の勢力に支配されていた可能性を示す
そうじゃなくても
弥生時代の半島から大陸への交易の玄関口に
こんなやつがドンと存在されてしまうと
「皇統の神代の根拠が危うくなる」
しかし金印は志賀島
半島と九州を結ぶ玄関口そのものから出てきてしまった
しかもこれ
そのころの大和はなにしてたんってなるどころか
倭面土=ヤマト=帥升=ヤマト王
なんて説まで見いだせるんでw 日本には(中国南方由来だろうか)龍を信仰してた勢力がいて、時にヤマトと対立したから
ヤマトから見た蔑んだ表現として「大きいヘビを信仰してる気持ち悪い勢力」とみなしたんだろう >>209
それこそが
3世紀から5世紀にかけての
列島内部の勢力図の謎そのもの
弥生時代には北部九州に強力な勢力があったのは間違いないし
大陸と交易していたのも漢鏡などの証拠がてんこ盛りなため間違いない
それが弥生後期から古墳時代にかけて
伊都国や吉野ヶ里といった大規模集落が
消えちゃうのさ
つまり滅ぼされたか移住したかなんだ
>>209
瀬戸内海東部に沢山平野がある。人口爆発すると一気に国力は上がる、またヤマトの沖積地は時間が経てば立つほど良田に適した“新潟”へと変貌していく。
西暦200年人口推定
東奥羽: 3万
西奥羽: 5000
北関東: 4万
南関東:6万
北陸: 2万
東山(甲斐信濃飛騨): 8万5000
東海: 5万5000
畿内: 3万
畿内周辺(近江伊賀伊勢志摩紀伊淡路播磨丹波): 7万
山陰: 2万
山陽: 5万
四国: 3万
北九州: 4万
南九州: 6万5000
総数60万
鬼頭宏,「明治以前日本の地域人口」 >>195
眠剤代わりに使えるけど肥るよねあれ
スレ汚し申し訳ないが、この「トピ主」さんきっとデブ >>211
それよりも面白いのは「奴国は倭の極南界なり」という文面
奴国=博多湾が倭国の南端ということは、倭国というのは朝鮮半島南部から対馬、九州北部にまたがる海洋国家だったということになる
それは「サメよけとしての入れ墨の風習」とも合致するし
「タカマガハラから天孫降臨してきた」という神話も朝鮮半島南部から九州に移民してきたことだろうと思う 志賀島で発見された金印は卑弥呼に送られる前の別の国(奴国)の王に送られた金印 >>205
なんだ後輩かよ 根無し草なんて辛気臭いこと言ってるんじゃありません
よく勉強してるのは分かるから話を聞きたい
ニュー浅草でいいなら奢るから >>216
加羅との関係は確かにその発掘物の共通点からなんから
面白いね >>210
いやおれも政経経済だったが文学の勉強ばかりしてた
いろんな奴がいていいじゃない この論争は「中国王朝と国交があった国内政権は
現在の皇室に連なる大和朝廷が唯一無二だとしたい
政治的思惑」がある限り決着は難しい
こんなもん普通古代の航海技術の差でとっくに
邪馬台国は九州で終わる話なんだわ 帥升(スイショウ)とスサノオが音として通じるのも面白い
スサノオは根の国と日本を行き来して、大陸由来の木の種を複数日本に輸入しているが
その記紀説話とも合致してる
ヒスイと黒曜石を支配して勢力を誇った日本原住民からしたら
朝鮮半島南部から九州北部にまたがる「倭奴国勢力」は大いなる驚異だったろう
対立と合従を繰り返しながら
>>221
>こんなもん普通古代の航海技術の差でとっくに
邪馬台国は九州で終わる話なんだわ
─
なぜそこで航海技術が?大帯郡使は伊都国に留まっていると書かれているよ?
別に邪馬臺国へ常に往来していたわけでもなんでもない。 >>221
文化流入が北部九州からで
もちろん鉄器の材料となった鉄くずの輸入も
北部九州が最も入手しやすくて当たり前
ってことは武器が揃いやすいのも北部九州だったとしてよいため
弥生時代から縄文時代にかけての支配勢力の
武力も「西高東低」であったはずなんだよね 対立と合従を繰り返しながら出雲はスサノオを取り込んだ
それがスサノオと大国主の説話だろう 日本はゴッドバンドが教授やってるような国だから未だに中国の古文書しか証拠がないのよな
>>224
しかし魏志倭人伝の時代、弥生時代終末期~古墳時代最初期で一番多くの鉄剣が見つかったのは丹後の大風呂南遺跡ですね?
また、最も基本的な生活用具たる土器の技術に関しては九州が畿内に逆転負けされておりました。
https://i.imgur.com/RU3T8Z1.jpg
https://i.imgur.com/spZYYaM.jpg >>223
航海技術を持っていたのは九州だけじゃない
たとえば出雲や兵庫、北陸の日本海側勢力も日本海沿岸で海洋公益してる
さらに朝鮮半島まで行くこともできただろう
出雲からは大量の金属器が出土しており、それらの金属材料は輸入したもの
記紀でも「タジマモリ(但馬地方の官だろう)」が常世の国にいって橘の種を輸入してくる、という話があるし
なぜ先に先進国だった九州が負けたの?
これは簡単な話ですよ
日本だって中国より産業化早かったですが、今や中国の方が4倍5倍もの国力があるでしょう?日本は途上国レベルの貧しさまで没落して行きそうでしょう?
まあ、それと同じで弥生時代後期になると平野部の多い瀬戸内海東部で人口が急激に増大していった。古代の産業は労働集約しかないので、人口即国力になるわけですね。
また3世紀になると全国津々浦々に渡来人がやってきて技術格差も平坦化していたのでし。 >>227
違う
列島は大陸の東の果てにあったため
徹底して文化文明の流入が遅れに遅れて
現代で言えばコンピューターインターネットなどの記録装置と情報配信装置に当たる
「文字文化」という高等文明の流入も遅れた
そのために列島での文字での記録がこの時期にはまったくないのさ
これをそうじゃないと思いたい人々もいて
弥生時代には渡来人が入っているのだから
文字も来たんではと
「すずり」っぽいのを既に発掘されているものからチョイスしていたんだけど
それが最近、こんなの硯ではないよとなり
また文字文化の流入が遅れていたと証明された
どうやら
弥生時代に列島にやってきた渡来人は底辺のバカばっかだったみたいで
古墳時代ごろに半島経由でやってきたのが少しはまともな
文字が使える支配階級の人たちであったとするのが今 >>228
というか、海洋勢力って国として大きくなりようがないんだよな
だって、船さえあれば個人で仕事できるんだから
その点農業国は大きな組織を作る必要性があるから国として大きくなる
だから海洋交易に不便な畿内がむしろ大国になった
畿内も大阪湾から瀬戸内海交易できるけど、逆にいえば大阪湾さえ国で支配すれば良い
九州だといくらでも個人が好き勝手海外と貿易できてしまうから支配しようがない 今の早稲田生って珍味のナス喰ったことないとか笑えるよな
俺も喰ったことないけど
>>229
そもそもタジマモリの祖先が新羅王子「天日槍」さんだったりしますね!
また新羅王にタバナ国(丹波かな?)出身の倭人が就いた話も。
まあ、リマン海流使えばお茶の子さいさいですな。
そもそも日本海沿岸沿って北上していけば、丹後抜けたあたりの所で日本海から吹き抜ける風によって勝手に若狭湾へ入り込み、そこから陸でテクテクあるくだけでヤマト入れちゃいますから、ヤマトは大陸からの影響も入って来やすいのですよ。 >>230
中国でも海沿いに都を作ることはマレだからな
西安にしろ洛陽にしろ北京にしろ、内陸こそが中原であって
海や港があることって一見都市として有利な条件に見えるけど、実は逆なんだよね
海があると組織がまとまる必然性がなくなるから国として大きくなれない >>228
鉄器副葬墓の地域別出現数とかなんで無視してんの?
>>233
畿内は超巨大前方後円墳作ったり特に住むわけでもないのに巨大都市纒向作ったり、中央に権力が集中していないと出来ない様なことやってますからね。
古代ヨーロッパで例えると、九州はギリシア型で本州はペルシア型の発展したのでしょう >>231
国内産と見られる三角縁神獣鏡にも文字が入ってるものがあるだろ
だからないわけではなかったと思うぞ
4世紀に百済から倭国に贈られた七支刀にも文字が書かれてる >>230
おいおい
こいつ九州が負けたと断定しているよw >>239
それカウントしないの
銅鏡の文字は大陸で書かれたもので
日本でのもんじゃないので
「鏡の装飾デザイン扱い」 弥生時代の最先端産業農業だったのよね
その前は狩猟採集
ていうか人類の歴史の99%は狩猟採集が主力産業だったんだよな
農業がピカピカの最先端産業ってすごい
>>239
三角縁神獣鏡、光を当てると裏の文様が反射するようです。古代はこういうので「魔法」を演出してたのでしょうね。
https://i.imgur.com/5amE2kA.jpg >>242
今でいうTシャツに英語プリントされてるデザインのものを、わざわざ英語の意味気にして読んだりしないってことだろ?
でもだからといって、それが文字であるという認識はさすがにあったと思うぞ
>>240
負けたというか畿内優位で合併したのだと思いますよ
経緯は>>88,89に書きました
天皇家のレガリアに伊都国でしか見つかっていない八頭花崎八葉鏡があるのはこういうことでしょう。 >>234
もうそれ半分早稲田出た意味ないぞ…メーヤウすらねえんだろ
三品行ってあげてね、あくまで義理で >>246
ないと思うよ
文字文化そのものがないと
ただのデザインにしか見えないのは
日本人が例えばお皿のふちにアラビア文字が書かれていても
それを文字だと認識する人は
現代人になってからじゃないかと思うし
>>243
鉄鍬があった九州は農業で有利ですが、ヤマトは沖積地で開墾を必要としない良田がドカドカ出来ていく状態だったので鉄鍬を要せずとも人口が増えたのでしょうね。 >>213
> つまり滅ぼされたか移住したかなんだ
へー、知らなかった
九州には火山が多いから、噴火で定住を諦めたのかとググッたけど、その年代に九州で噴火した火山はなさそうだ
本当に謎なんだね
なんで、邪馬台国の議論があるのか少し理解できた >>247
だったら
説とか
推定されるとか書け
ネトウヨみたいに断定する時点で
考古学「騙る」馬鹿にしか見えない
私は中間派
倭人は交易品を通じて文字の存在も知っていたし西王母が長寿の神である事も知っていた。けど文字が何の役に立つのか理解できなかった。
里数も使わず日数で計りゃいいやとしてる倭人に漢字は難しすぎたのですよ >>240
九州は「いつ」負けたのかっていうのは議論が確かにあって
一般的には魏志倭人伝の3世紀頃には畿内傘下に入ったと考えられてるけど
いやじゃあ磐井の乱はなんなんだとか
旧唐書に倭国伝と日本伝が別項として書かれてるのを理由に7世紀まで独立国家だったとか
一番遅い説で8世紀ということを言い出してる人もいるわな
俺が思うのは、九州には6世紀まで(磐井の乱鎮圧まで)ある程度の自治権があって、その自治権の強い弱いに波があるから時に独立してるようにも見えたってことだと思うぞ 九州説を取ると
ヤマタイ国とヤマト朝廷は別物ってことになるけど
いいの?
もしくはヤマタイ国が東遷したっていう結構無茶そうな説を取らなきゃなならなくなる
そもそも吉野ケ里環濠集落って完全に論外で、周囲に水田跡がねえの
あそこ弥生時代には有明海が迫る海岸線だったから
こんな途上未開人口極小ムラが戸数7万とも言われる邪馬臺国とか誰が最初に言い出したんだよ
ふざけすぎだろw >>88
同盟の印として同じ大型銅鏡を2枚作り、それぞれで分けたんだろうね
三種の神器ってのはヤマトの各勢力との合従の歴史なんだろう
ただ八尺瓊勾玉はヒスイじゃなくてメノウか赤サンゴだろうね
「瓊」の勾玉だから
そもそも当時は土壌が砂質で稲作に向いてないからね。まあ他のクニやムラでは見つかる水田跡が見つからないのも当然 >>251
うん
わかんないんだ
文字がないから記録そのものがないわけ
だから遺跡発掘でこの時期にはこういう道具などを使っている人たち
こういうものを作っている人たちがいた
そしてこの時期にいなくなったとかしかわかんない
だから古代日本列島とは
弥生時代に高度な潅漑農法と鉄器青銅文明がやってきて
かなりマシにはなったんだけど
それでも大陸や半島とはかなり遅れた文明度の地域であったため
北部九州の交易による文明流入はクニの支配力に関わる重要なファクターであり
それはちょっとした技術革新の流入で
勢力図が激変してしまうほどだったとしてよい
もちろんこの流入で最もとんでもないのが
半島や大陸からの「支配階級」つまりは文明を使いこなしている権力者たちの
直接渡来
ただしそういうのも予測はできるが
文字がないので確かめようがないのさ
出てくるのは弥生時代に「戦争が多発した」証拠となるものだけ >>255
どのみち都は畿内に移るんだから
都が移る時代が3世紀なのか4世紀なのか5世紀なのかって話なだけなんだよな
>>254
完全に自治権を失ったのは磐井の乱(もしかしたら朝廷が攻めていった可能性もあるので磐井の役?)後でしょうね。
敗戦後、中央直轄の屯倉が設置されまくりますから。 >>254
銅鐸文化の消滅とかさ
なんかすごいことがあっているのは間違いないけど
わかんねぇんだよね >>259
中国内戦で毛沢東に負けた国民党が台湾に逃げて台湾で政権を建てて今に至るわけだけど
台湾原住民は武力抵抗とかしなかったんかね
>>213
ほんとまた論理の飛躍だよ吉野ケ里とかが畿内に移ったと思ってんのか
吉野ヶ里遺跡なんてしょぼくれた後進遺跡は古墳時代の始まりで低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤が平野に置くようになって衰退したに決まってんでしょう。戦争しなくなったら丘陵の上に環濠集落作る必要も無くなるし
そんで丘陵の上も墓地として、平野の人々によって前方後円墳や周溝墓築かれたり利用され続けてますんで
消えたとか曲解して東遷説に結びつける牽強付会しないでください だから国民党が台湾に逃げて政権を建てる、みたいなことは実例があるわけだから
古代東アジアにおいても、中国の内戦、朝鮮の内戦で負けた残党が日本に逃げて来て「ここでもう一旗あげたる!」と頑張りだす事例はあったろうなと
ただ今も日本人は日本語しゃべってるように、そういう勢力に支配されるというより上手く吸収していったのが日本人なんだろうな 魏史(三国志)が倭国を重要視している背景を考えると邪馬台国が17,000里と遠方の理由が見えてくる。
三国時代に魏呉蜀で争っており不安定だった情勢もあるが、それ以上に魏内部における「魏を建国した曹操の一族」と「後に軍事クーデターにより実権を握り禅譲により魏から晋を建国した司馬懿の一族」の勢力争いに注目すべきである。
三国志が編纂されたのは晋建国後の西暦260年以降であり、司馬一族が王位を簒奪したのでなく正当に禅譲されたと主張したいという思惑があった。
魏により「親魏〇王」の称号を受けた国は2つあり以下のようになっている。
229年 曹真 西方 大月氏国 16,370里 親魏大月氏王 10万戸
238年 司馬懿 東方 倭国 17,000里 親魏倭王 7万戸
曹真は西方諸国からの朝貢をうけており一番遠い大月氏国(クシャーナ朝)は首都から洛陽まで16,370里という遠方から来ている超大国であり親魏大月氏王の称号を贈っている(後漢書)。
一方で司馬懿は東方征伐での功績があり、呉と通じていた遼東・楽浪郡帯方郡の公孫淵を討ち東方諸国への道を開いた。
この翌年239年に卑弥呼の朝貢が訪れたのは偶然ではなく司馬懿による要請があったと思われ、
「大月氏国にも負けない規模の大国(7万戸)が大月氏国以上の遠方(17,000里)から訪れた。それは司馬懿による功績である」とする目的があり、後に三国志を編纂する時にも司馬の功績と皇帝としての正当性を表す必要があったのだろう。
〇TIPS
・三国志筆者の陳寿は皇帝曹髦殺害の経緯を隠匿し禅譲の正当化を図るなど晋のために筆を折っているとされる。
・後漢書など他の史書では東夷・北狄・西戎・南蛮の四夷それぞれの伝があるが三国志には東夷伝しか存在しない
西側(大月氏国)の功績は後漢書により確認できるが三国志では抹消されている
・魏志を読むと朝鮮半島北東部の濊については距離についての記述が一切なく、南部の韓(馬韓・辰韓・弁辰)は地域全体の大きさの記述や国名はあるが国々の方角や距離など詳細な部分は書かれておらず曖昧にされている。
また不弥国から邪馬台国までの距離も明記されず水行二十日・水行十日陸行一月と日数換算で首都までの距離を曖昧にした上で、まとめて「帯方郡から首都邪馬台国まで12,000里(∴洛陽から17,000里)」と首都までの距離を提示している。
私はこのスレで確信しました。
ハッキリ言って九州説は無理解による物ですね、まず魏志倭人条に目を通すことすらしていない。
①伊都国と一大率を同一視
②刺史知らない
③吉野ケ里が別に消え去ったわけじゃない事も知らない
こんなんで強気で突っかかって罵倒してくるんだから凄いよね
これがひろゆき現象って奴? 機内だって言ってた京大とそれを気に入らないから九州だって言った東大とのメンツの問題だから 日本列島が今と形も場所も違うのに現代の地図にあてはめて探してわかるわけねえだろボケ😳 >>267
それが不思議なことに畿内の3世紀の遺跡からは銅鏡はまったく出てないんだよな
3世紀の遺跡からは木と土器しか出てこない
肝心の箸墓や周辺遺跡からも木と土器だけ
三角縁神獣鏡は4世紀以後の遺跡からしか出てこないのよ つまり古代日本は中国に朝貢してたってことでいいよね
>>265
古墳時代が始まる直前には北東アジアで内戦が連発していましたね。
1.半島北部で戦争[125-169]
>『魏志東夷伝』
「順帝・桓帝の間に高句麗が遼東へ進攻。途中で帯方県(平壌あたり)知事を殺し、略奪行為を働くも169年に漢帝国から本軍が派遣され、高句麗王伯固は降伏する」
2.半島南部が大荒れ[146-189]
>『魏志東夷伝』
「訳)桓帝・霊帝の末、韓・濊(扶余毛民族)は彊盛となって郡県では制御できなくなった。」
・倭国大乱[146-189の内の8年間くらい]
「桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れ互いに攻め合い、何年も主がいなかった。」 >>255
100年以上の暗黒時代挟んでるし
分裂して消えたか狗奴国に滅ぼされた小国で連続性なんてないやろ
足利が日本国王良懐を詐称したように前の国から連続してることにした方が話がスムーズだっただけかと でも昔のことなんてわからないしね
移動したのかね
九州→畿内
ちなみに朝鮮の「三国史記」に面白い話が載っています。
それは朝鮮半島から『太陽の精』が大岩に乗って日本に行き王になったという話。
─
A.D157年新羅の東海岸の浜辺に延鳥郎(イヨンオラン)・細鳥女(セオニョ)の夫婦が住んでいました。
ある日、延鳥郎が海にいって海藻を採っていると、突然一つの岩があらわれ延鳥郎をのせて日本へ渡っていきました。
この延鳥郎を見て日本の人びとは、これは尋常の人物ではない といって、彼をその国の王としました。細鳥女はいつまでたっても夫が帰ってこないのを不審に思い夫を探しに浜に出たところ、そこに脱ぎ捨てられていた夫のわらじを発見しました。細鳥女もまた例の岩に上ったところ、延鳥郎の時と同じように岩は細鳥女を乗せたまま日本へ渡っていきました。日本の人びとは岩が一人の女を運んできたのに驚き、そのありさまを王に申し上げ、その女を王に献上し、その妃としました。この時、新羅では太陽も月もいつもの光を失いました。宮廷に仕えている日官が「これは日と月の精が日本に行ったからであります」と王に申し上げました。そこで、王が使者を日本に送りなんとかして二人を新羅に帰らせようとしましたが、延鳥郎は「わたくしがこの国に来たのは天命でありますので、帰るわけにはいきませんが私の妃が織りあげた美しいしろ絹がここにあります。これを持ち帰って天神に祭ればきっとよい結果が得られます」といって、新羅からやってきた使者にその絹を与えました。使者は新羅に帰って一部始終を王に申し上げ、その言葉どおりお祭りをしたところ、それから後は太陽も月もまたもとのように輝くようになりました。天神に祭ったその場所は日光を迎えるという意味で、迎日県と名づけられたがそこが現在の慶尚北道迎日郡です。
実際に158年7月13日、朝鮮半島で皆既日食起きてるからこの話(後の岩戸隠れのモチーフ)は信憑性あるかもしれませんね。
tps://i.imgur.com/mqYtESd.jpg
すまん三国遺事だったわ。 どっかの田んぼで金印がみつかったろ
なんで田んぼに落ちてた?
>>277
まず魏志に径100歩の墓を作ったとあるが、この規模は奈良盆地にある箸墓古墳にちょうど符合する。
一方でこうした大規模な墓は当時の北部九州地方には【一つも】無い。だから移動してない
墓が無い以上九州説はあり得ない。物証がない。 >>214
なるへそ、稲作の伝来が早かったからといって、別に九州の北部が他地域より生存に優位って訳ではなさそうだ
稲作が本州の隅々まで伝播し定着するまでの間に、九州北部めっちゃ発展できるでしょと思ったんだけど、弥生時代ってもんが、めちゃくちゃ長ーいから、あんま関係ないのかもね 邪馬台国は九州北部の小国
(魏史では司馬家の功績主張のために大国として書かれる)
狗奴国との戦乱が再燃した時に速攻滅亡し100年以上の暗黒時代を迎える
その後勢力を伸ばした国が邪馬台国を詐称し歴史ある大国と騙る
「九州の小国で速攻滅んだ説」が一番しっくりくる
>>285
出雲は人口5万戸と記される二番目の大国「投馬(ヅマ)国」になると思います。
①九州から水行20日で出雲(投馬)
②そこから水行10日で若狭湾
③そこから陸行一ヶ月でヤマト(邪馬臺)
というわけです。 魏志倭人伝って書かれた時期や人違うやつもまとめて編纂されてるんでしょ? 卑弥呼の後継が台与(とよ)なんだから
当時邪馬台国はやまとこくって読まれてたのは明らかなんだよなあ
なんでみんな頑なにやまたいこくって呼ぶんだろ
邪馬台国がやまとだと都合が悪い人がいるの? 他国の歴史書の中にしか自国の歴史が書いてないってホントウンチ国家だなw
まあ中国が残し過ぎな気もするけど >>281
百歩にこだわらなくていいでしょ
里数や戸数と同じで大げさに書いただけだろう
>>290
魏志倭人伝傍系21カ国に都蘇國ありますが、これ土佐国では?と思ってます。
https://i.imgur.com/6dxFjCh.jpg 邪馬台国
やまたい
山たい
山みたい
山のかたち
山形県だな 匈奴だ吐蕃だ鮮卑だ邪馬だホント昔から中華思想はあるんだな
隣国は呼称でも馬鹿にしようって意識が凄いねw
基本頭王莽なんだろうな
ほう
思うに日本海ルートで国々を説明していったから、瀬戸内海の邪馬臺国行くまでに通らない国家は傍系21カ国にまとめちゃったんじゃないかな
狗奴国に比定した、後の遠江国久怒だけど
静岡なんてど田舎じゃんと舐めちゃいけない
天武天皇が始めた大嘗祭
遠江は斎田に選ばれまくってる。またヤマトタケルも駿河や相模で土地の豪族から火攻めにあって殺されかける。手強い敵対勢力が居たのではないか
https://i.imgur.com/sda5s2D.jpg
また呉の紀年鏡が出ている事も面白い。魏は呉と対立し、女王国は魏によって支援されていた。 >>278
天日槍をもとに創作された話かもしくは天日槍の話かな >>4
天武天皇が古事記作らせたときにそれに書いてること以外は間違いとして廃棄させた 当時邪馬台国以外にもあったのに
なんで邪馬台国だけこんなに気にしてんの? 国記には中国様から金印貰ってうれピーとか書いてあったのかな 「魏志倭人伝を素直に読むと〇〇になる」
素直に読んでわからんから揉めてるのに
よく新書とか素人の言説で出てくる枕詞 何回このスレ立てんの
いい加減鬱陶しいからNGするわ 楚の郢や歴代中華帝国の京師と一緒で
首都をヤマトと呼んでただけ >>4
九州の呼称
九州という言葉は、律令制で9国があった以前から存在する。「九州」は、もともと古代中国で全土を九つの州に分けたことに由来し、中国ではその全域のことを意味する。日本でも平安時代は「九州」は日本全体を指す言葉として使用されたし、書物も残っている
それが朝廷の力が弱まった平安末期からいつの間にか今の九州地方だけを指す言葉になった
何故こんなことになったのか
九州には別王朝(倭国)が存在したという説がある。日本の九州も倭国が中国にならってその支配領域を九州と名付けたのであれば辻褄が合う
日本国による倭国征服後、旧倭国の存在は抹消されて日本国の歴史に取り込まれている。ただ、庶民は九州という言葉を元々の意味で使い続けた
倭国が九州に存在した痕跡は残っている
倭国の首都は太宰府にあり、大宰府には天子の居所であることを示す「紫宸殿」「朱雀」「内裏」といった地名が残っている。太宰府は山城(神籠石)により防衛され、神籠石は大宰府を取り囲むように配置されている。太宰府の条坊築造時期は藤原京条坊築造時期より古い
中国の歴史書(旧唐書)では、倭国伝と日本国伝の2つが並立し、もともと小国であった日本国が倭国を併合した説が書かれている 古代の中国人の言うことそのまんま聞いたら海の上になるって1000年前からわかってることだろ
中学校行かないやつが独自研究するとこうなるんだなあ 卑弥呼=神功皇后説というのがあって
九州説をかたくなに否定してる奴は、神功皇后の実在そのものを抹消したがってるフシがある。
すなわち、三韓討伐の功績を好ましく思ってない連中だ そんな事は素人に言われるまでもなく
おりこんで議論してるでしょうに そもそもこの頃の日本は海上国家だろ
瀬戸内海中心の国家で、中国に行くときは北九州を経由してる
学術予算のために陸地を重要視してるから変な話になる ちなみに、卑弥呼は個人名じゃなくて
役職名な、歴代卑弥呼が何人もいる 元は東南アジアから黒潮に乗ってきたバイキングみたいな連中だろ 自分の地元と卑弥呼を結びつけて俺凄いオナニーしたがるいつもの様相
実に哀れ 卑弥呼をネタにした恋愛ゲームとラノベのメディアミックス作品で「火魅子伝」というのがあるけど
あれは出るのがちょっと早すぎだったなw
異世界転移+軍師無双+ハーレムものは、今だからこそ受け入れられるのだが 「それ証拠になってないから」
地元が邪馬台国オジサンは全部それで認めないからな
一生無理やろな決着つくのは >>266
金印の称号は倭王、王=中華皇帝の家臣って位置なのよ >>4
マジレスすると蘇我入鹿ぐらいの頃に落雷かなんかが原因で国庫の書物が大量焼損してる
そこが燃えたら他に歴史書が残らないような管理されてたってのも杜撰な話だが >>321
中国なんかよりもっとはるか昔から
日本には文字があるぞ
神代文字という文字が何種類もあった
その代表的なのがヲシテ文字とカタカムナ文字
さして最古の文字と言われてる龍体文字
これらの存在は時の権力者からすると歴史上かなり都合が悪いので
歴史から消し去られた 今で言う右翼の本居宣長が、属国なのを納得できなくて九州説を作ったような?
新井白石の方が先かもしれんけど オレは邪馬台国マヤ説を提唱してる
「マヤ」をついうっかり逆さにして「ヤマ」と書いてもたんや
時代的にもちょうどマヤ文明が栄えた時期やし ほぼ確実に九州だろう
出てくる遺物のレベルが違う
日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は魏の曹操の墓から発掘されたものと同等のものと鑑定された
金印を授与される王国は九州にあったのは間違いない 日本最大の銅鏡の本物も展示してあるし機会があれば伊都国歴史博物館にもどうぞ 畿内だとすれば方角も距離も現地の習俗も魏志倭人伝は全て間違いとなる
そんな資料は全く信頼できないし邪馬台国の存在自体が怪しいとなる これが証拠になるならとっくに決着付いているだろうに
ほんとチョンモメンって知能が猿以下だな >>324
マジレスすると、天皇記や国記を焼いたのは蘇我蝦夷 >>329
1/5の短里でピッタリだから逆に信憑性高いよね >>316
中国人「お前の国なんて名前?」
日本人「ワレ?」
中国人「ワ国(難聴?)だな」
中国人「あの国王っぽいの何て名前?」
日本人「姫巫女!」
中国人「ヒミコ…」 邪馬台国の時代のものって近畿から全く出てこないけど
九州からはどっさり出てくる 中国の歴史学者が邪馬台国は九州といってなかったか? 邪馬台国なんてクーデターを画策した司馬懿仲達の捏造だよ、
つまり全くの架空の国、こんなので騒いでる中国人馬鹿過ぎるw >>325
ネトウヨのまとめサイト信じちゃった人? >>324
国記は持ち出されたと記録に残ってるけどな >>324
船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る >>344
神代文字は日本全国いろんな神社に数多く残されてるんだが
その言い伝えや歴史とともに
龍体文字なんかは、天皇家に代々伝わる秘宝として
伊勢神宮にずっと保管されていて
過去に昭和天皇が一般公開したんだぞ。
天皇家(本当の天皇家の血筋かどうかは置いといて)は、隠された本当の歴史を知ってるからな。
嘘の文字を伊勢神宮で保管なんかするかよ。
書き換えられたら嘘の歴史ではなく、本当の歴史を少しぐらい勉強しようぜ。 司馬懿と陳寿らの作った三国志は東方向への進出を過大に書いて逆に西南北の話は書いてすらいないからな ヤマト自体九州にあったんじゃないの
後の「ミヤコ」みたいな用法でしょ
政治(うずたかい場所で神との交信や祈念や占いなどの儀式)を行う場所 >>347
やべーやついて草
なにか一つでも中国以前に日本に文字があったって論文持ってこいよ
個人ブログじゃなくてちゃんとした論文な
天皇が公表したならあるだろ論文くらい >>342
中国じゃ九州でほぼ確定になってるらしいな
ttps://www.youtube.com/watch?v=mhf9qR6fwUc 邪馬台国は奈良ヤマト政権で狗奴国は河内のおっさんの国じゃなかろうか?
ヤマト政権前には先住民の国があったしね >>347
本当の歴史を勉強するので入口になるサイト教えてください先生! 日高見国をもっと研究しようぜ
多分そっちのが日本人のルーツ >>350
そういう人ってきちんとした証拠があるなら分かるけどなんで誰か言ってたからってだけで簡単に信じられるんだろうか? そもそも日本書紀古事記が嘘だし、そう考えたら邪馬台国とヤマト政権が無関係でもどうでもよくなるし畿内派の奴らも急に畿内に拘る必要なくなる 『畿内』とはそもそも周代の言葉で国の都城を中心にその近辺の地域を表す首都圏みたいな言葉。王畿の内。
現代の日本の近畿地方が近畿とか畿内と呼ばれてるからそれが2000年前もそうだったとは言えない。
『九州』も周代の言葉で、中華の王が治める中華全土を9つの州に分けてそれを九州と呼んで、王が直接統治してる全ての土地を表す。
ではなぜ日本の九州は九州と呼ばれて近畿は近畿と呼ばれてるのか と
まあまずは古田武彦を読め ネットには逆張りが多いからしょうがない
あと九州説の方が本売れるって所もある >>359
奇をてらった本が売れるの代表的なのは古田武彦
あらゆる考古資料を否定する学問軽視の「九州王朝説」唱えてるわけだが、当然学会からは全く相手にされてないトンデモ説
でもネットでは信奉者が多い >>4
葛城円の館は、焼き討ちにしたし、
蘇我入鹿もそう
前王朝の歴史は焼き討ちだよ
石にでも彫れば良かったね 九州にも邪馬台国と卑弥呼で飯食ってる人がいるんだ
今更無粋だ 近畿大嫌いのネトウヨも邪馬台国は畿内であってほしいの?なんで? >>331
中国のサイト調べたら確かに九州確定されてる
しかも犬奴国が邪馬台国に負けて本州に逃げてヤマトになったそう >>231
文字がないから文明が遅れていて弱いということにはならない。
モンゴルで文字が発明されたのは13世紀で満州はもっと後だから >>227
ゴッドハンドのやつは考古学の教授じゃなく民間の考古学マニアだろ >>9
別に邪馬台国に与えたもんでなく卑弥呼に
与えられたもん。邪馬台国にはまだまだ
力はないのでは? 【お知らせ】畿内説とは頭悪い人たち描いた100%空想の世界でした
魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります
このように倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が
次々と出てきたため中国側は混乱し、誤解釈して記録してしまった。
行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png
この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている 普通に考えて考古学って低能の寄せ集めだろ?
本職は土方
そいつらの妄言集が畿内説だ 大分出身の後輩から邪馬台国は大分の宇佐だと聞いたが? >>190
「ウヨだから邪馬台国を九州のイチ豪族だった」ことにしたいひともいるし
サヨだから九州にしたい人もいるしサヨだから畿内にしたい人もいる
両陣営ともにそういうの一旦取り払わないといかんよムリだろうが こいつのスレって議論じゃなくて、認識してもらいたいために立ててるから、意味ないよね お前等こんな話してるんなら当然これは読んでるんだよな?
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/file/kiyou7/no07_03.pdf
>>175
そら中国(魏)から見たら女王国なんて地方だしな
こういう基本的な事を理解しないと史書は理解出来ないぞ
そもそも最初に自女王國以北と書かれてるんだから刺史の仕事の範囲に女王国も含まれる
ちなみに女王国というのは連合国の事な
【なぜ有如刺史と書かれたら地方行政官になると思ったんですか】 >>331
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の黙殺されっぷりは草枯れるレベル
あれが近畿から出てたら確実に「動かぬ証拠」扱いされてるやろ >>382
邪馬台国については有象無象の自称考古学者がウジャウジャ居るから 中国父さんの記録癖は超古代から尋常じゃないからそのうちポロリと出てきそうだな。 ウヨに人気があったのは九州説
御用学者とアマチュアに絶大に支持されてた
御用学者がいなくなった今でもアマチュアに九州説は大人気 「大和王朝の支配権が古代から九州にまで及んでいたという近畿説を取るとかお前ネトウヨだな!」
「古代の大和王朝が中国に朝貢していたことを認めない九州説を取るとかお前ネトウヨだな!」
2つの立場が争う地獄のバトル
>>381
>そら中国(魏)から見たら女王国なんて地方だしな
こういう基本的な事を理解しないと史書は理解出来ないぞ
そもそも最初に自女王國以北と書かれてるんだから刺史の仕事の範囲に女王国も含まれる
ちなみに女王国というのは連合国の事な
【なぜ有如刺史と書かれたら地方行政官になると思ったんですか】
─
いや本文そのまま読んだだけですよ。
「刺史」て州長官の事ですし。
そんで、本文中でも刺史の役割を一通り説明してから、それが魏国における刺史に似てるという説明が来るわけです。
規模感の話なんて誰もしてないんですよ。そもそも都は邪馬臺国ですからね?伊都国は都じゃないのだから地方でしょ
>そら中国(魏)から見たら女王国なんて地方だしな
↑
だからここで勝手に規模感にすり替えてるのが謎。本文中に州長官の様な物だとハッキリ書かれているのに、なぜ州長官だと思ったのか?なんて聞かれても意味不明。
>>331
>金印を授与される王国は九州にあったのは間違いない
─
九州にもありましたね。もちろん邪馬臺国はありませんが、漢委奴国王の印綬を受けた「奴国」がね。
「金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)」や福岡市の志賀島で見つかった金印とともに「鉄鏡も奴国に伝わっていたレガリア(王権の象徴)で、弥生時代中~後期に伊都国との争いに敗れた奴国が、伊都国に渡るのを避けるため金印を志賀島に、鉄鏡と鉄帯鉤を日田盆地に埋納したのではないか」
https://web.archive.org/web/20170428020955/https://www.nishinippon.co.jp/nnp/oita/article/324753
こういう考えも出来るそうですよ。ふむふむ確かに。 「漢の委奴の国王」の印章をいまどき「奴国」の印章扱いしている時点で議論に参加する資格ないよな…… 「奴」は当時の音で「du」
つまり「津(づ)」=「湊」の意味を持つ地名
『な』の「津」に無理やり比定している時点ですでにお笑いだが
まあ「な」の『津』と同じ可能性はまああると言えばある
>>391
どういう意味?
委奴(イト)国ってこと?当時の奴はドとは読まないよ。 奴国だった博多に3世紀中葉の纒向型前方後円墳である那珂八幡古墳があるからなー
出土品の三角縁神獣鏡は京都椿井大塚山古墳、岡山湯迫車塚古墳から出土した物と同笵鏡みたいだし
卑弥呼の時代にはもう畿内勢力が九州北部にまで影響してたって事で畿内説が有利だと思うんよね
>>392
上古音 奴na
中古音 奴nuo
だと思うけど
奴がダ行で読まれてる当時の文が一つでもあるなら教えてほしい。 すまん
1スレに100レス近くつけるようなキチガイには触ってはいけないと宗教で禁じられているんだ……
またよくあるのが
「倭奴国は匈奴と同じで蔑称としての奴を付けただけ。音韻関係ない」て説
ま、ありえないね。
「漢籍電子文献」で調べてみると「匈奴」は「匈奴」として出てきて「匈奴國」では1例ほどしか出てこないのだ。
つまり「匈奴」は民族名・国名として「匈奴」なのであって「倭奴国」の場合とは違う
「匈奴王」と「匈奴單于」でも出てくる。
けど奴国の場合は「倭奴国王」として書物に出てくる。 >>389
規模感の話なんてお前しかしてないよ
仕事内容が魏国における刺史に似てるというだけでその官職が地方行政官だなんて何一つ書かれてない
お前が規模感の話と勘違いして地方行政官だと言ってるだけ
邪馬臺国は単なる女王出身国の辺境だよ、本文にそう書かれてる
>だからここで勝手に規模感にすり替えてるのが謎。本文中に州長官の様な物だとハッキリ書かれているのに、なぜ州長官だと思ったのか?なんて聞かれても意味不明
お前が規模感の話にすり変えてるだけやで
最初から最後まで仕事内容の話しか書かれて無い
>>390
奴じゃないぞ「倭奴」な
匈奴くらいは知ってるよな?それと同じだよ
フン族がラテン語でHun・niと記録されてる事からも、匈奴それ自体が民族名だった傍証になるわね
>>399
クソワロタ
早速出ました珍説。俺>>397で説明したよ
>>399
①仕事内容が魏国における刺史に似てるというだけでその官職が地方行政官だなんて何一つ書かれてない
→地方行政官に似てるなら地方行政官である可能性の方が高いのでは?
地方行政官では無いとする貴方の説の方が本文に基づいてない、いっちゃ悪いけど妄想の域を出ない。
②お前が規模感の話と勘違いして地方行政官だと言ってるだけ
邪馬臺国は単なる女王出身国の辺境だよ、本文にそう書かれてる
→邪馬臺国は戸数7万で倭人条中で一番の大国として書かれています。
読み直してから出直してきてください。 >>386
ウヨに九州説が人気とは不思議やな
ウヨなら大和説を好みそうなもんやけど 本当にどうやったらこんなキチガイが生まれるんだろうね?
>>399
『後漢書』「倭伝」には「倭国之極南界」という記述がありますよ?倭奴国と倭国が別記されてるのですがどう説明するのですか? >>390
その後の調査で「曹操陵墓の副葬品と同じものである可能性が極めて高い」って判明してるぞ
それも日本側じゃなくて曹操陵墓の発掘責任者の言
金印とは2世紀も離れてるな つい最近まで山でドングリ食ってた民族が邪馬台国なんて作るわけないだろw平安時代とか全部捏造 >>383
機内って3世紀の遺跡から中国や朝鮮半島と関連のある遺物の発掘が乏しいんだってね
機内説でよく邪馬台国とされる纒向遺跡も長年発掘に携わった関川尚功氏に言わせると、とてもじゃないが大陸と交流があった王都と言えないみたいだ
氏は書籍も出しているけど、この講演動画がまとまっていてわかりやすい
ここで箸墓古墳も4世紀のものだと主張している
https://youtu.be/dA3e14517Ek
>>408
詳しく調べてみましたが、鉄鏡は呉が敵対したため青銅が手に入らなくなった結果作られたので魏代製造で間違いないようです。申し訳ありませんでした。
では>>390を撤回します。
─
ですが、例え同時期の物であっても、邪馬台国が九州であった確証にはならないですね。
なぜなら金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の見つかったダンワラ古墳は鉄鏡以外の副葬品の殆どが凡庸な物、墳墓も直径30mで中小零細豪族規模だからです。日田の豪族は日下部氏と言われますから、日下部氏が天皇家から再分配されたのでは?
中国では鉄鏡の方が格上です。が日本人が何処までそのことを認識していたかは怪しいでしょう。銅鏡にも「鉄鏡より錆にくく」「研磨が容易だった」という利点がありますから。
いえ何よりもむしろ、直径30mの小墳墓から出土したことこそが、当時(ダンワラ古墳は5~6世紀の物であるから年が経っている)の倭人が鉄鏡の価値を忘れ去っていた事を表すのではないでしょうか。 >>397
出てきててウケるw
ガイジの特徴、「都合の悪い事は無い事にする」が出てるなw
>>401
という事で自分と自分で議論してきなよwww
>>402
そもそも元首は卑弥呼なんだから内政のトップが地方行政官っぽくなるのは「当たり前」
それを地方行政官であるとする貴方の説の方が本文に基づいてない、いっちゃ悪いけど妄想の域を出ない
>>405
単に倭奴国とされたのは金印与えた時代だけだったというだけの話だろ
その後しばらくはただの朝貢してくる属国だからな
>>410
>とてもじゃないが大陸と交流があった王都と言えないみたいだ
─
そりゃ、倭人条見る限り邪馬臺国は直接大陸と交流していないのだから当然では?
韓や帯方郡からの使者は伊都国に留まっていて、それより先に進んでいる様子はありませんよ。
外交文書も伊都国で一大率が回収して、女王の下(邪馬臺国)に伝送するシステムですもの。
https://i.imgur.com/FN9PnNN.png ちなみに当たり前だが当時の倭人は自分達の国を倭奴国だなんて思ってないしそもそも国名も無い
しかも貰った金印は倭奴国じゃなくて委奴国だからな
200年後の末裔達が委奴国の文字を見て「俺たちの国はいと国!」と間違ってしまうのも仕方ない >>412
重要なのは「そんな高級品(が含まれるレベル)の下賜を中国側が記録に残さないわけがない」ことじゃね?
だからこそ金印(記録アリ)と一緒にもらったやつかもって話に説得力あると思ったわけやろ
この疑問は「実際記録してる」って考えたらあっさり解消よ
>>413
①そもそも元首は卑弥呼なんだから内政のトップが地方行政官っぽくなるのは「当たり前」
→なぜ刺史(地方長官)と評された一大率を頑なに内政のトップだとするのか
本文は、元首卑弥呼が国を治めているのを助けているのは男弟だとしている。
むしろ普段引きこもって鬼道に耽る卑弥呼の代わりを果たす内政トップとして書かれてるのは男弟の方では?
②単に倭奴国とされたのは金印与えた時代だけだったというだけの話だろ
その後しばらくはただの朝貢してくる属国だからな
→これ、後漢書の記述なんですが。
>>415
いや当時は奴をドとかトとか読まないけど
ナとかヌだよ
奴婢だってドヒじゃないだろ
>>415
あと、奴(ナ)国という名前は消えてない
以降も奴国があった地域は儺県(“な”のあがた)とか那津(“な”のつ)と呼ばれ続けたし
今も那珂川(“な”かがわ)が残ってるでしょう? 蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ!(`・ω・´) >>417
それ、昔の卑弥呼時代の一時期に弟が卑弥呼を補佐してただけの話やでw
>>418
時代をちゃんと考えようなw
>>419
???
伊都国は日本の話だぞw
日本人がどう読んだかの話なんだから漢語なんてなんの意味も無いぞ
中国の史書の話と日本人(倭人)自身の発音の話をちゃんと区別出来るようになろうな
伊都国の鏡は多分応神天皇の時期に皇室に継承され神器八咫鏡になったし
北九州諸国は消えてない
>>422
>日本人がどう読んだかの話なんだから漢語なんてなんの意味も無いぞ
いや漢字は漢語読みやろ
それとも奴(ド)が訓読みだと思ってるんすか? >>424
なんでまったく同じ読みすると思ってるんだ?
まさか、音読みは中国と同じ発音とか思っちゃってる?w
>>425
そりゃ音読みって呉音・漢音・唐音がゴッチャになった物なんだから輸入した当時は中国語と一緒の読み方だったに決まってるでしょ
万葉仮名だって殆ど呉音だけどそうじゃん
呉音の意味知らない人いないっすよね?
呉音を日本人独自で開発したと思ってる?違うよ?中国からそっくりそのまま漢字の読み方輸入したんすよ? >>383
中国の王族がお宝を持って日本に逃げてきた
日本では地位を築けず、地方小豪族として日田に住み、
数百年後には滅び、先祖から伝わるお宝とともにダンワラ古墳に埋葬された
それだけの話だと思うぞ
そもそも発音方法知らなかったら文字あっても読めなくて無意味やろ
で、文字輸入した直後は訓読みなんて無いから外国から音韻輸入するしかなかったのだ
>>416
正始元年の鏡ですか。
では女王に渡された後いかなるルートで日田豪族の手に流れたのかが問題ですね。 >>394
年代が違うから流れが逆だよ
九州の三角縁神獣鏡は3世紀古墳から出土するが
畿内の3世紀古墳からは三角縁神獣鏡は一枚も出ていない
なぜか100年以上後の古墳からしか出ない
だから畿内の三角縁神獣鏡は、九州から100年後にレプリカとして作られたものか、もしくは九州から100年後に畿内に持ち込まれて古墳に埋められたものだよ
つまり九州の王家が複数畿内に引っ越して、先祖から伝わる三角縁神獣鏡を畿内に埋めた
どう考えても三角縁神獣鏡は3世紀の畿内には存在しなかった >>432
中国側の歴史書に書かれてないんだから、正式に日本に持ち込まれたものではないんだよ
普通に考えたらそうなる
だから中国滅亡王朝の残党がお宝を持って日本に逃げてきたってことだろ
中国国民党が中国のお宝を持って台湾に逃げてきたようなもん
台北の故宮博物院のお宝ってそうやって台湾に持ち込まれたものだからな
>>433
黒塚古墳の三角縁神獣鏡は?
あと畿内の場合天皇陵指定されて発掘出来てなかったりするからなあ 昔九州説唱えてた人らも畿内に鞍替えしてんだよなNHKで見た 三角縁神獣鏡は国産くさいから、調べてもあまり意味がない >>436
もう観光業界から裏金貰ってる奴とバカ以外九州なんて言って無いから >>403
邪馬台国は中国に朝貢してた属国
その邪馬台国が天皇家の祖先であるはずがない
邪馬台国は九州を収めてた豪族にすぎない
というのが右翼思想だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています