>>162
明代には世界規模での交易ブームによって、大量の銀が中国に流入するなかで、
中国内では、地域ごとの分業化、分業化した諸地域間を結ぶ国内商業の発展、
そうした経済的隆盛を背景とした文化活動の活性化
(庶民を対象とした出版文化や、豫園や拙政園などの造園)が起こっているだろうが。

江蘇・浙江では外国の銀と交換される絹や木綿などの商品作物生産に特化するようになり、
主穀の生産地は湖広(長江中流域)へと移るなど、地域間分業の進展や産業地域の拡大が生じている。
対外交易によって儲かる沿海地域・都市部と、内陸地域・農村部の経済格差が生じるようになったが、
沿海地域・都市部は重税に耐えつつも、豫園や拙政園などの庭園を築くほどの経済力・文化力があった。
続く清代の「盛世」は、直近の明末の経済・社会の成熟の上に成り立っているものであり、
康煕帝がまったくゼロの地平から築いたものではない。

5ch嫌儲板の自称「中国史通」って、
中国の自然環境の多様性やそれに対応した各地の地域産業のあり方、
社会の大多数を構成した一般庶民や、被支配層と支配層の間に立つ士大夫層の動向といった、
中国の大部分を構成し、長年にわたって中国を特徴づけていた要素を無視して、
中国全体からすればちっぽけな存在に過ぎない皇帝だけに着目して、
全体を知ったつもりになっている君主厨・英雄史観厨ばかりじゃねぇかよ。