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ごんはラストで果たして死んだのか?ということです。

新美南吉はこのシーンで、ごんが死んだとは一言も書いていません。銃弾が命中したとも書かれていません。しかも「うなずきました」とあるので、少なくともこの時点では生きていたことが明示されています。もしかしたら、ごんが倒れたのは単にびっくりして思わず死んだふりをしただけではないか?

それなのになぜか、ごんは死んだことにされていて、今まで私も信じて疑いませんでした。これは常識を覆す発見をしたぞと一瞬思いましたが、もちろんそれに気づいたのは私だけではありません。

「なぜ『ごんぎつね』は定番教材になったのか」の本には、小学4年生の感想や「その後」を想像した作文が紹介され「子どもたちのなかには、兵十が動物病院へ連れて行ったとか、応急処置をしたら治ったといった後日談を書いている子どもが数人いた」そうです。

しかし筆者は「ごんは致命傷を負ったと読むのが大前提である」と断言します。私にはその根拠がよく分かりませんでした。

開智国際大学紀要にある遠藤真司さんの「小学校国語科教材の読み方」という論文がインターネットで読めます。「ごんは死んだのか」という私の疑問と同じことが書かれていました。授業で「文中のどこにも死んだという言葉がないので、死んだとは言えない。僕は生きていると思う」と発言した子がいて、論争になったといいます。

学生と教員にアンケートしたところ、「死んでない」または「死んだとは限らない」という回答が38%だったそうです。この多さに遠藤さんは「愕然(がくぜん)」としたと記します。そして、新聞などの説明文では「文章中に何の言葉が書いてあるかが極めて大事」だけれど、文学作品では「死んだ」と書いていないことを死んだと想像させることこそ「文学の文学たる所以(ゆえん)」と批判します。

「ごんぎつね」の世界観に合わせて、死んだ、もしくはこのまま死んでいくと読まなければならない。そう読むことが、 「ごんぎつね」の正しい読み方であり、解釈であり、正しい想像である。教師としても、子どもたちにそのような読みにさせていく指導をしていかなければならない。この作品の最後に「こうしてごんは死んでいきました」などの記述があるかどうかが問題となってくるのではないのである。文学作品は、書かれたことをもとに書かれていないものまでをも想像するのである。