邪馬台国と大和国って読み方が同じなのは偶然なの🗾 [509981292]
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古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る
初回放送日: 2024年3月17日
私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー!古代史の空白に迫るシリーズ第1弾。謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?発掘調査と最新科学が突き止めた新事実を紹介。人骨やDNA分析から見えてきた激動の東アジア。「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは?最強の宿敵・狗奴国とのし烈な争いの結末は?未知の古墳のAI調査や大規模実験で徹底検証!日本の歴史を変えた卑弥呼の波乱万丈のドラマを描く!
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/2Z8RVKV3G7/ 蓬莱を目指して流れ着いたって説は中々ロマンがあると思った >>166
わたしのわであり我々のわだぞ
民族名とはそういうものだ >>184
青森とかの東北の北の方では今だに自分のことを指して「わ」と言うしね
倭の国というのは我々の国とか私の国って意味だろうな 昨日のNHKスペシャルで
卑弥呼はヤマト王権の初代の王って言ってたけどそうなのか?
邪馬台国とヤマト王権は繋がってるの? >>187
俺も気になってググッたよ
めっちゃ長くなるから検索をオススメする
結局分からんみたい 土蜘蛛の女性酋長一覧置いとくぞ
卑弥呼乱立祭りやで
https://i.imgur.com/sjwZIgD.png
田油津媛(タブラツヒメ)山門郡瀬高大草・神功紀 多くの民を従え、兄の夏羽が妹を補佐している。先代女王葛築目と同様にヤマトに帰順しなかった為に殺されてしまった。年代的に卑弥呼没後の約100年後の女王とされる
宇津羅媛(ウヅラヒメ)山門郡長島宇津・景行紀
八女津媛(ヤメツヒメ)八女郡北矢部・景行紀
神夏磯媛(カムナツソヒメ)田川郡佐波・景行紀 景行天皇に見初められヤマトに帰順したため国を奪われた。
速津媛(ハヤツヒメ)海部郡宮浦・豊後国風土記 碩田の国一帯を治める土蜘蛛女王で景行天皇に道案内をした。
五馬媛(イツマヒメ)日田郡五馬・豊後国風土記
比佐津媛(ヒサツヒメ)日田郡會所・豊後国風土記
大山田女(オオヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
狭山田女(サヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
八十女(ヤソヲミナ)杵嶋郡嬢子・肥前国風土記 アマゾネス軍団
海松橿媛(ミルカシヒメ)松浦郡賀周里・肥前国風土記
速来津媛(ハヤキツヒメ)彼杵郡速来村・肥前国風土記
浮穴沫媛(ウキアワナヒメ)彼杵郡浮穴郷・肥前国風土記
その他の土蜘蛛
土折猪折(ツチオリ)田川郡緑野・景行紀
麻剥(アサハギ)田川郡高羽・景行紀
耳垂(ミミタリ)下毛郡御木・景行紀
鼻垂(ハナタリ)宇佐郡菟狭・景行紀
打猿(ウチサル)八田(ヤタ)国摩侶(クニマロ)直入郡禰疑野・豊後国風土記
青(アヲ)白(シロ)大野郡血田・豊後国風土記
小竹鹿奥(シノカオキ)小竹鹿臣(シノカオミ)大野郡網磯野・豊後国風土記
堡を築いた土蜘蛛 日田郡石井郷・豊後国風土記
堡を築いた土蜘蛛 小城郡・肥前国風土記
大身(オオミ)松浦郡大家郷・肥前国風土記
大耳(オホミミ)垂耳(タリミミ)松浦郡値嘉郷・肥前国風土記
大白(オホシロ)中白(ナカシロ)少白(ヲシロ)藤津郡能美郷・肥前国風土記
三種の玉を持つ土蜘蛛 彼杵郡速来村・肥前国風土記
欝比表麻呂(ウツヒオマロ)彼杵郡周賀郷・肥前国風土記 福岡県遠賀川河口域の山鹿貝塚で4000年前の埋葬人骨が20体以上出土しており、
緑色大珠を持った2号・3号・4号の女性人骨は呪術師兼女族長であったとしている。
サメの歯のイヤリング、翡翠勾玉、貝の腕輪十数個、垂れ飾り、足飾りを全身に付けていた。
縄文人の女性が装身具を多数身に着けて埋葬された事例は全国でも極めて少なく、縄文社会の構造について一考の余地を与えている。
https://i.imgur.com/3zq0XJZ.png
女性酋長シャーマンが多いのは北部九州の伝統
ヒミコは個人名ではなく何らかの職種名あるいは君主称号だ説
ソースが中華の文書しか無いから
一方的な他国の見方の資料しか無いわけだ
日本側は自分達をそう思ってなかった可能性もあるわけだし ヤマト王権も元は大和朝廷と言ってて
70年代に実際は相応しくないとヤマト王権に呼び方変えたけど
それぐらい曖昧な呼び名だったのに
邪馬台国がどこにあったかなんて一地方に存在してたとは思えん 九州では酸性の土壌でもあんだけ鉄製武具が出土してるのに畿内ではほとんど出てきてないのって狗奴国からの脅威にさらされてた邪馬台国の時代を考えるとあり得なくね?
畿内説の奴らって特に「こうであるはず」っていう結論から入ってる気がするし >>187
学術的には証拠なし
卑弥呼、登与と「倭の五王」の血縁や勢力関係が分からないから何とも言えない
ただ、日本書紀は神功皇后を卑弥呼だと推測してるっぽい >>194
例えば今核戦争が起こって世界が滅びたとして
後の時代の人間が君のような考え方をすれば、
高度な兵器がたくさん出てくるウクライナが世界の中心となり
米、中、欧の都市部はまともな兵器が出てこないので片田舎扱いされるだろう ヤマトに討伐された九州の中規模国家集団じゃないのかよ.. >>197
中国の後漢〜三国〜晋代の銅鏡の出土の仕方が
九州中心→畿内中心→ごちゃごちゃって推移を辿ってる
それが勢力変遷を表しているのかも 神宝は奪われるモノだしな饒速日も十種神宝献上したことになってるし >>200
卑弥呼を太陽神のモデルと思わせる演出はアカンよなw 数少ないのにデビューしてる事を全般的に動くような
そうなのにもらい事故でかわいそ 邪馬台国が畿内だとすると=出雲になるんじゃないのかね島根から尾張までが勢力圏だったんだし >>143
そろそろ監視銘柄から医薬品が上がってるな
しかし0てな
占い師信じてる人もいるのか 邪馬台国が日本にあったというのは単なる妄誕
証拠が全然ない >>18
逆張りやコンビ打ちの何が悪いん?
まとめる時便利やろがw でもほぼ確定してることだけを列挙しても
・唐古鍵の弥生集落が衰退した後に、突然三輪山の山裾あたりに小型の纏向型前方後円墳が作られ始める
・急速に大型化し、その後全国に広がる前方後円墳の雛形になる。箸墓古墳。
・同時期に近くで大規模かつ方位を揃えた居館が建てられる(国内に例無し)
・そこから100年ほどは文字の記録がないが、近隣には巨大前方後円墳が建てられる続ける
・ほぼ実在が確実視される雄略の都と思われる居館が伝説通り三輪山の麓で発掘
・都はその後転々とするが、前方後円墳を作る文化は長く引き継がれる。
となると考えられるのは
血縁はともかく体制は発展継続された。クーデターはあったかもしれないが、文化的なつながりは保たれた
はっきり言って萬世一系を信じてるまともな学者なんて1人もいないが、纏向がその後のヤマト王権の始まりを否定するまともな学者も1人もいない。
箸墓が卑弥呼かどうかはわからんが、その時代で最も勢力をもった豪族の墓であることはどうやっても否定できない。 >>215
やっぱさ
どう考えても神武東遷は本当にあったんだと思うね
そんな神代の昔でもなくて3〜4世紀ごろの
ヤマトにどういう意味があったかは知らないが
オラが町とかの意味合いで固有名詞じゃなかった
んじゃないか。 >>219
という観測も一説として記載されてるよな 小国だった日本が倭を併合したって話か
多分倭が邪馬台国で日本が大和なんだろうな >>220
旧唐書だっけか
倭と日本は別種だとハッキリと書いてた >>0194 九州では酸性の土壌でも
あの畿内説の泰斗w佐原真は、近畿から出土しない理由を「奈良の土壌は鉄を溶かすから」といったそうだな
奈良の土壌を調べてもいないうえでw
金縁メガネの奥にニヒルな笑いを浮かべて言っているのが目に浮かぶ
はたして、畿内説の連中に学者としての良心、誠実さは??? >>222
>倭と日本は別種だとハッキリと書いてた
一説としてね >>217
白村江の戦いのあと唐に占領され、その後追われて筑紫から近江に逃げてるからな
それのメタファーだぞ馬鹿 >>222
だからおれは、倭を土民教化支配のために仏教を導入し飛鳥文化をもたらした蘇我氏
日本は百済勢力だと見ている
実際祢軍墓誌に百済の残党のことを日本余しょうと書かれている
日本書紀の日本も百済のことだと思ってる
なぜなら日本書紀は百済三書を元に記述されたことになっているから 豊臣秀吉は奥州 日の本まで仕置すると言っている あるいは秋田の安東氏という大名は日の本将軍と自称していた これから戦国期には日本と日の本は別の言葉であることがわかる
日の本というのは北方の蝦夷と関係する言葉なのだ なのだがもともとは日の本から日本という名称が生じたと推測する つまり日本という名称は蝦夷と関係が深いのだ 邪馬台国論争って右と左が血管切れながら殴り合うからまともな議論のスレにならないよね 大国が出来る条件って
米が安定して作れるかどうかじゃん?
当時の平均気温、平野、土壌
これらを調べて候補を絞ったらどうかな つぼのいしぶみのwiki
12世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』19巻に「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。
要するにみちのくに日本中央という石碑があるというのである それは千島列島を含めると位置がちょうど日本の中央だからというのだが、それはおかしい 千島も北海道も当時は日本国には含まれないはずだ だから解釈としては日本というのはこの場合蝦夷が住んでる地域を指すと解すると自然である ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています