歴史学者「邪馬台国は近畿で確定。箸墓古墳の年代が邪馬台国と完全に一致した。」 [999047797]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
いっぽう、纒向遺跡内でも2009年に、卑弥呼と同時代の最長20m近い大型の建物群が発見された。今度はがぜん纒向に注目が集まる。さらに国立歴史民俗博物館の研究グループが、卑弥呼の墓だといわれる箸墓(はしはか)古墳(向遺跡内)を放射性炭素年代測定法を用いて計測した結果、「箸墓古墳は西暦240~260年の間に造られた」ことが判明したのである。これはまさしく卑弥呼の活躍時期とビタリと一致する。
そこで同博物館の春成秀爾(はるなりひでじ)名誉教授が「この時代、ほかに有力者はおらず、箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した可能性が高い」と断言したのだ。その後も、卑弥呼時代の建物跡や巨大な溝などの発見が相次いだ。この結果、日本史の教科書の記述に変化が表れたのである。
いまも教科書の邪馬台国論争の箇所には、畿内説と九州説が併記されているものの、「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市
の纏向遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍)と表記する教科書が登場し、畿内説が有力になっている。
https://nodule.jp/info/ex20210103/ ってことは金印は近畿地方で盗まれて九州に持ち込まれたってことか
あんな隠し方をするくらいだからありえるっちゃあありえるが
>>7
出土した金印は後漢のだ、100年以上時代が違う 箸墓古墳って行ったことある~
めっちゃ変なとこにあるやつ 知らんけど
そもそも2千年前とかに関西人が九州の存在とか知ってたのか?
逆に九州人や四国人も本州を外国と認識してたんじゃないの?
九州は九州の王がいて四国には四国の、関西には関西の王がいたんじゃないの?
そもそも元々は論争なんてなくて、畿内が定説だった
しかし京大への対抗意識から東大閥が九州説を主張
この東大の詭弁が戦後長く続いているが、近年は東大閥でも近畿説に傾きつつある 邪馬台国は九州だけど奈良もそこそこ栄えてたってことでええやん 卑弥呼って情報の無さが紀元前の話なのかと思うけど中国の三国時代の西暦200年頃なんだと思うと日本って急速に発展したよね >>16
もともととか対抗意識なんて事実と何の関係もない
もともとが間違ってて対抗意識で真理に到達することだってあるわけで だって天皇である大和王朝を日本在来の邪馬台国からの系譜にしないと天皇家が渡来系の征服王朝だって明確になっちゃうもん 卑弥呼の金印もいつかは出るのだろうか
でも民家の真下とかにあったら無理だ >>15
少なくとも卑弥呼以前、
2000年前に隋に朝貢した奴国の王は
本州(関東以南?)、四国、九州をまとめて倭と認識しているから
少なくとも知識層においては「日本」の認識は
今とそれほど変わらない(北海道除く) >>12
九州派のことだろ村おこし&素人が騒いでるのは
纒向遺跡が無くても普通に近畿、それも奈良から大阪府の河内あたりがが邪馬台国 吉野ヶ里遺跡の年代が邪馬台国と100年以上のズレがあるのは炭素年代測定法ではっきり科学的に出てしまってる
今の九州派は魏志倭人伝にめちゃくちゃな解釈を与えて何とか威勢を張ってるだけ
日本古代史の発展のために敗北を認めてくれ どう考えても地理的に近い九州に決まってんのに政治的に天皇家と繋がり持たせたいクソどもが騒いでるだけ定期 >>18
よく明治維新で列強入りしたのが凄い言われるけど
5~6世紀頃の発展速度が日本史上一番ヤベーと思うわ
鬼道で民衆を誑かしてたのに100年ちょっとで中国の首都機能モノマネしてんのヤバイ >>24
邪馬台国論争そのものが
オラの町こそ邪馬台国だとの村おこしによって
支えられ続けているのが現状で
アカデミアな話題からは遠ざかっているものですよ >>32
急速に発展しすぎてて調べすぎると天皇に関わる不都合な真実出てきてしまいそうだと素人ながら考えてしまう
まあ、そんなのも含めて日本だから俺は許容できるけどね 畿内説派「九州説は矛盾がある」
阿波派「邪馬台国は徳島なんですよ🤓」
九州説派「畿内説は矛盾がある」
阿波派「邪馬台国は徳島😡💢!!!!」 近畿を主張する京大派と北九州を主張する東大派の権力争い >>21
邪馬台=やまと って呼ばせたいだけだもんな >>35
大陸からの渡来一派が支配者としてやってきたとか? まずこの話は
・当時の日本列島が先史時代であり文字がないこと
そして
・魏志倭人伝が中国大陸の古文書であること
当然ながら
・先史時代の日本列島の当時の遺跡をいくら発掘しても
「文字がない」ため
日本列島から出てくる証拠はその時代の遺跡の規模や種類などに
限られること
もちろん
・魏志倭人伝に書かれた邪馬台国が日本列島の何を指示したのかは
魏志倭人伝に書かれている範囲でしかわからず
特にその位置に関しては「無茶苦茶いい加減」でしかない
よって
コレはいくらやっても邪馬台国の位置なんてわからないから
学問的には当然ながら「邪馬台国のわからない」が正解 いくら日本だって言っても3世紀だろ?
地理や交通の理解はかなり進んでたんじゃないの
大陸に近いってだけじゃちょっと弱いよな >>41
間違えた
「邪馬台国の位置はわからない」が正解 >>32
推定人口の推移で日本が上位20国入りしてくるのがそのあたりの時代 100年ほど記録がすっぽ抜けてる上にその記録も中国頼みという悲しさ
考古学では測定しても100年くらい誤差範囲なので延々と議論が終わらない だからこれは
日本国内でいくら発掘作業したところで
こんな規模の遺跡があるとか
こんな種類の遺物があるといった
「それっぽいもん」しか出てこず
この手の海外でそのように認識されていた組織をこれがそうだと
同定するのは無理ゲとなる
よって
あとはすでに文字が使用されていた「朝鮮半島」から
邪馬台国に関して書かれたもんでも出ないことには
「永久にわからない」
そういう性質のものだから
卑弥呼は永久に村おこしに利用されるということ >>40
その可能性もあるし嫁を大量に送られて血が激薄になってる可能性もあるし
女を首長にして旦那を送られて実質の実権握られてた可能性もあるし
急速な発展には大陸の技術は絶対に必要だったと思うしね 別に邪馬台国という国があって卑弥呼という女王が治めていましたってだけで、それが機内にあろうが九州だろうが大和王朝と連続しているかどうかはまた別物なんだろ?
何でここまで騒いでいるの? あ
まあ一応は考古学的には
当時のヤマト王権がすでに機内にその拠点を置いて広がっていたのか
機内に拠点を置く最中だったのか
この辺にはかかるかな >>15
スンダランドからやってきた縄文人にしても朝鮮半島からやってきた弥生人にしても魏呉蜀の戦を逃れてやってきた古墳時代の倭人にしても
基本的にまず九州に上陸してそこから日本海伝いに出雲を経て天橋立まで行くか瀬戸内海を通って大阪湾まで行くかのどちらかなんだから
畿内の民は当然に九州の存在を知っているはず 邪馬台国って近畿地方のひとつの国でしかなかったんだろ
まだ日本なんて概念すらない時代だし
まだ天皇もおらんかったんやろ まあさ
「当時の日本列島は先史時代」ココが一番重要
そんな文字のない時代の日本列島の権力者を
「中国大陸でこういわれていた人がいる」と日本でその証拠を
見つけようとしても
文字がないんだからわかるわけがない
中国大陸で書かれている邪馬台国みたいなもんは
あったのだろう
ここまでで十分なんだ >>21
皇室は普通に近畿の土着豪族だろ
列島に勢力広げる過程で滅ぼした勢力の中に
後に卑弥呼で有名となる北九州政権があったってだけ じゃあなにか
魏の使者は九州に上陸してから更に遠路遥々近畿汲んだりまで行ったってことか?
当時の日本の街道なんて獣道に毛が生えた程度じゃねーのか
そもそもわけわからん未開の島国まで命を賭けて海を渡って行った以上使者が適当に話し盛ってることも考慮に入れなきゃだと思うんだが
そうやすやすと確認できるところにあるわけじゃないし話盛り放題だろ 松平が三河移住後戻り家康の祖父の時代までは大した勢力じゃなかったように
天皇もはじめはチンケな勢力だったんじゃないか。オスマンもそんな感じだ >>41 >>55
奴国までの道程はほぼ確定してる 九州に上陸したあと瀬戸内海を船で移動すれば畿内まで比較的楽にいける
さすがに陸路は使わんやろ >>23
なんで隋が卑弥呼より前の時代になるんだよ 邪馬台国について言及してる三国志って実はめちゃくちゃ凄くない? 邪馬台国は機内にあってそれを神武東征で滅ぼして取って変わったんじゃないのか それと魏志倭人伝で重要なのは
中国大陸が倭国の「軍事拠点の位置」を明確に記していること
それが伊都国の一大率
伊都国の位置まではとってもわかりやすく
その地名も現在の糸島と音が一致するため
ここが魏志倭人伝において隣国の軍事情報を記す
最も重要な箇所といえる
あとは日本列島の風俗が描かれているから当時の様子がわかり
たくさんのクニがあったこともわかる
そこらへんだけで本当にすばらしい古代日本列島に関する海外文献となる
邪馬台国の位置なんてこれらの情報に比べりゃ
もはやどうでもいい類のもんでしかないけど
そこまでの道程の「書き方」がいい加減すぎて
謎解き問題みたいになってしまい
そこだけが注目されてしまうということ 中国様がいなけりゃ西暦240年頃の日本の様子さえ分からない
土人国家 全然関係ないけど
日本の国号を宣したのは天武持統朝
天皇と言いかえたのは当時最先進国の唐の高宗、というか武周武則天の影響を強く受けて持統天皇が初
学問としてしっかりと日本史を辿れるのはここまで
それ以前は神話レベル
もう無理やねん…… >>65
後のヤマト王権となる勢力が宮崎から畿内に移動したという
考古学的証左は今のとこ皆無 だいたい頼りの考古学の方の信頼性が実にウンコなのがジャップランドだし
ゴッドハンド(笑)
バイト1人に全責任押し付け(笑)
しかも歴史修正主義者が政権を握り
統計や資料改竄破棄が得意技ときた
信用ゼロwww それなら魏から戻ってきた連中が
北九州を歩き回っていた理由を教えてチョ 実在がほぼ確定している雄略天皇で西暦400年の初めごろの古墳時代
魏志倭人伝の成立が西暦200年代後半
そのあいだになにがあったのかね
そもそも邪馬台国と雄略天皇につながりはあるのか >>65
神武東征は記紀での描かれ方から
マジでそういうことがあったとしたら弥生時代の最初の頃の話となるはずだよ
記紀で対応する邪馬台国ごろの時代
つまり弥生時代の最終版から古墳時代の最初期は
神武ではなく神功皇后の時代辺りとなる >>66
道程はいい加減ではない
奴国まではほぼ正確、おかしいのは明らかに日数行程から
帯方群治から倭へは海岸に沿い、韓国を経て南、東へ行き、その(倭の)
北岸が狗邪韓國である。七千里である。
初めて海を渡り、千余里で対馬国に至る。
また瀚海と呼ばれる海を千里渡ると一大国に至る。
また海を千里渡れば末盧国に至る。
陸路で東南に五百里行けば伊都国に至る。そこに王が居る。全て女王国に
属している。
東南に行けば奴国がある。
東に行けば不彌國がある。
南に行けば投馬国がある。水行二十日。
南に行けば邪馬台国がある。ここが女王の都だ。水行十日、陸行一月。 ネットでは九州だという声が無茶苦茶大きいのウケる
特に嫌儲は>>21この手のアホ左翼が学問を無視しイデオロギーで暴れている
でも現代の歴史学者は近畿説を前提とした上で邪馬台国と天皇家を切って考えている
むしろ現在近畿説で固まっているのは考古学の研究者成果だけど
その考古学の研究者は古墳群の研究から世襲王権制が確立していなかったと万世一系を否定しがち 昨日のNHKスペシャルネトウヨ発狂してた?
実況スレ見てないから知らんけど >>75
いや、うんざりとかじゃなく何か言いたい事あるならはっきり反論しなよ 中国では邪馬台まででヤマトゥって発音らしい
はい、答えは出たね >>76
邪馬台国卑弥呼とヤマト王権別物なら
北九州か畿内かなんてどうでもいいのに
どんな連中が言ってるんだ >>74
ほぼ全てが「方角+距離」で表現しているのに、最後の最後で「日数」に変わっているんだよね
ここがポイントだと思う 使者の気持ちになって考えれば命からがら海渡ってやってきてそこからさらに大冒険する気にはならんだろ
未開の蛮族がウヨウヨいる化外の地でさぁ
俺なら上陸して一番近い集落で聞き込みして帰るわ 卑弥呼、邪馬台国って縄文系っぽいしな
ウポポイのにおいがする
縄文は日本ではない ちな
考古学的にこの邪馬台国の時代は
弥生時代末期から古墳時代最初期に分類されるため
もちろんその「文化形態がガラリ」と変化する時代にとても
接近している時期となる
となるとあたりまえに「その支配者」や「権力構造」が
例えば銅鐸という宗教的儀式に関係したと考えられている
ものが壊され埋められるという大きな変化からも推定でき
考古学からも卑弥呼の後に権力者やその構造が大きく変化しているほうが
「自然」ともいえるんだ
もちろん古墳は時代が大きく変化した最たる証拠となり
コンビニよりも多くの古墳が建造されていく古墳時代とは
日本列島がやっとこさ大陸(半島)からもたらされた文字を理解し
利用し始め半島と同レベルの文明に追いつき始める
急速な文明化が進んだ時代
もちろん多くの戦乱も予測できるが
なにせ古墳時代も文字がない先史時代に毛が生えた程度の段階から
始まっているのと空白の4世紀のせいで
実際にどんな権力争いがありどんな戦争が起きたのかも
最初のほうでは全くわからず
なんだかんだで結局は天皇につながる権力者が統制に成功したんだろうねと
しかいえず
それを無理やり遡って卑弥呼につなげるのもアクロバティック杉で
「本当にバカみたい」なんだ >>83
それは魏志倭人伝とは全く関係ない
弥生時代の始まりから古墳時代にかけての話だね
もちろん
弥生人を渡来人ではないなんていうのはもう頭のおかしいネトウヨだけしかないから
日本人は半島経由でやってきた渡来人が
その遺伝子の90%前後を占めて形成されたとして間違いないね 顔に入れ墨しなくなったからあとから来た人間に入れ替わったんでしょ >>89
九州からは糸島での漢鏡が
物的証拠としてあげられるね
まあだからといって
それが疑似倭人伝とどうつながるのかは
機内と同じことでどうでもいいんだけど 文字も持たない原始人の集落跡見つけた所で、邪馬台国かどうかなんて判断つかなくない? >>94
おまえは考古学スレにいっちょ噛み使用する前に
その攻撃されたらマンマンマンマンいうその脳みそをどうにかしろ 晋さんが中華をめちゃくちゃにしたせいで4~5世紀のわーくにのことを記してる余裕がなかったのが痛い どうでもいいけどさも当然との如く書かれている卑弥呼の時代に卑弥呼の勢力以外有力勢力が日本列島内にない
ってのはどういう経緯と証拠に基づいて明らかになってるの? >>98
どんなものが「ない」のか「あった」のか
まったく明らかになってないよ
解っているのはこの時代にも
なんかムラではなくクニといえる規模の遺跡が
あっちこっちにあって
そこからはこんなもんが発掘されていますということだけ
その出土物には半島経由でもたらされたもんも色々あって
それはこんな風に分布していますよ
ということだけ
実は邪馬台国論争の鍵を握る遺跡は吉野ヶ里遺跡でも纒向遺跡でもなく、糸島の三雲辺り(伊都国)と福岡平野の須玖岡本・比恵那珂遺跡群(奴国)なんだよな
当時の対外交渉はこの玄界灘勢力が掌握してたから、ここがどの陣営に付いたかで邪馬台国論争は決着する
>>29
神様のいたずら(笑)なのかわからないけど、3世紀に炭素14濃度は古墳寒冷期のせいで乱高下してて、年代絞り込めないんよ
使うなら年輪年代測定法かな
>>24
いやレッテル貼りは不毛
○○説は右翼だとか左翼だとか、町おこしだとか学閥の争いだとか、知ったかぶりで邪馬台国論争に水を差そうとするバカにはお引取り願いたい あともう一つ
とっても重要な数字がある
弥生時代は植生変化による飢餓で死にかけていた縄文人の縄文時代と
比較してもかなり人が多かった
それでもわかっている弥生時代の日本列島の総人口は
たったの約60万人
これが古墳時代になると約540万に増える
邪馬台国とはそんなまだ日本列島にまばらしか人がいなかった最後の方の話 >>87
北九州はほぼ弥生系なのはわかってる
おそらく後の熊襲・隼人となる狗奴国が縄文系
>>93
文字はほぼ間違いなくあったぞ
「邪馬台国の時代」
がまだ考古学的に定説を見ていないんだよ
もし布留0式土器が4世紀なら九州説で確定だし、布留0式土器が3世紀なら畿内説で確定。本質は所在地論争ではなく年代論争 >>106
所沢中退の知恵遅れがなんかほざいてて草🤣
>>110
福岡の糸島(三雲番上地区)で硯が見つかってるし、奈良の大福遺跡からは筆の軸が出土してる
外国人(楽浪商人及び韓人)との交流に漢字を用いた可能性がある 近畿派っていくら声をデカくしても町おこしに全然繋がらないからかやたらイライラしてるよな
あんな大昔のオッパブ村がどこにあったとかもはやどこだって良いと思うんだが >>112
そんなことよりおまえが
マンマンマンマンマンと鳴くようになった原因は何なん?
纒向遺跡の時代には既に西日本広域連合体が誕生してしまっていて筑後勢力の割って入る余地が僅少ですから、『纒向大和朝廷&九州邪馬台国並存説』は課題が多い。
並存説(邪馬台国は仲哀神功に滅ぼされた)は一番人気があるんだが、私個人的には賛同できない。それなら東遷説の方が遥かに利がある。 >>116
まんさんによるチー牛叩きに対する報復ですがなにか🙄 >>110
ほぼ間違いなくあったよ
一大率とか明らかに漢系だし朝貢して文字持ってないなら恥かくだけ
北九州では奴国の時代から度々朝貢してて文字受容してないわけはない 素人考えだけど邪馬台(ヤマトゥ)と読むと物凄くしっくりくるよなあ >>118
チー牛って言葉はなんJ民がつくった知的障碍者正確には
境界性の人たちに対する差別的用語
んなもんをなんでマンサンガーで使用してんの? >>121
マンマンマンマンいっているやつが
何言っても何の意味もないよ
>>56
>皇室は普通に近畿の土着豪族だろ
それを考古学的には「畿内自生説」と呼ぶのだが、1980年代以降研究が進んでほぼ成立する余地が無くなっている。
というのも、古墳時代の大和の祭祀文化の構成要素はその殆どが外来(北部九州&吉備)で弥生時代の文化とは断絶していることが明らかになっているんだ。
有名な【前方後円墳】も円形周溝墓が発達して成立した墓制だが、畿内は元々方形周溝墓の世界だった。前方後円墳すら外来の文化。 >>122
なんj生まれの言葉だが今日において頻繁に用いているのはまんさんやろ🤣 >>124
じゃあやはり神武東征に類することはあったんか
>>120
>一大率とか明らかに漢系だし朝貢して文字持ってないなら恥かくだけ
一大率は女王国が派遣していたもんだぞ? >>127
Twitter見てみ?チー牛叩きしてるのは大半がまーんだから🤣
>>126
安易に神話を持ち出すのは不適切だと思うが、そうなるわな >>129
それおまえが見たいものだけを自分でクエリしているだけ
「フィルターバブル」
>>79
そいつ、狗邪韓国は倭だとか吹聴してたキチガイだから議論にならないよ
>>78
ほんとそれ
古墳時代中期でしょ。知ったかぶりは恥ずかしいよなぁ まあ何もかも日本の中心あたりから始まったと考えるのが自然だわな 畿内説にしろ九州説にしろ、その時期に複数ある国の1つに卑弥呼をトップとする(ホントか?)規模の大きな邪馬台国があって、当時のチャイナと朝貢関係にあった
複数ある国のうち、後に大和政権を築く国がそれに取って代わっていった
って話でしかないよね
神功皇后紀の【年紀】に関しては外国資料(三国史記・三国遺事・広開土王碑)との比較検討から年代がかなり絞り込まれている。
一部の例外(加羅七国平定記事など)を除けば、干支二巡付加することで実際の年代になるのはかなり有名なことだと思ってたんだが。知らない人もいるんだな... >>138
典型的なおばさん構文なんだよなあ(笑)
>>136
違うんだよ
1990年代以降の畿内説は東遷想定するものがおおいんだぜ
要は東遷が邪馬台国以前に起きたなら畿内説、邪馬台国以後なら九州説。そういうレベルになってきている >>143
あれ?
君
畿内説一本やりやめたんだw あごめん>>143
この>>145レスは間違い
別の人のはなしだった
>>145
いや俺は畿内説派だよ
もしくは東遷説(なおその場合は筑前説)
邪馬台国=大和朝廷非連続説は絶対に取ることがないかな。蓋然性が低すぎるから >>150
焦ってる(笑)焦ってる(笑)
図星かい🤣
邪馬台国大和朝廷非連続説ってアマチュアからは人気なんだよな
ハイアマチュアと考古学者は畿内説or東遷説取ってるイメージ。考古資料とか見ないからしょうがないんだろうね >>148
あれ
間違えてなかったわ
おまえじゃんいつものやつ
えっということは
君じゃんか
あれだけ畿内説推してたのに
どした?
>>89
いや筑前は日本一発展していたぞ。
けど九州論者が邪馬台国に比定する筑後川流域(吉野ヶ里とかだな)は微妙。だから俺は邪馬台国畿内説か筑前説を取る
北部九州を十把一絡げにするのをマジでやめてほしい。
伊都国があった糸島と奴国があった福岡平野が最強であって、吉野ヶ里遺跡なんて前述の二国と比べたら路傍の石レベルでしかない。 平日の深夜にひとりで10も20も書き込むようなことか?
どうせ当時から外国の属国なのは変わりないってことだけだろ真実は
>>15
2000年前だと関西に「王(特定個人墓)」はまだ生まれていないよ。吉備や出雲にもいない
北部九州だけ >>160
もし中国の属国だったらもっと記録のこってたやろ 考古学者なんてのは、揃いも揃って生活のためなら自分の信念も売る御用揃いなのな。
>>164
メチャクチャ残ってる方だけど
というか女王国は魏から破格の待遇受けてるし
倭人は楽浪郡設置(紀元前108年)当初から破格の待遇を受けている。
それを如実に示すのが、立岩式甕棺(紀元前75±~25±)時代の倭の副葬品。
当時の北部九州には二人の「王の中の王」が君臨していた(三雲南小路遺跡・須玖岡本D地点甕棺墓)のだが、この人達のお墓には、中国でも王侯貴族しか入手できなかった「大型鏡」が副葬されていたことが分かっている。 >>1
「50代からの旅と暮らし発見マガジン ノジュール」
あのさあ・・・
ケンモジジイとか言うけどさあ
本当にジジイ丸出しでどうすんだよ
勘弁してくれよ
倭が特別視された理由。それは遠かったから。
中国からすれば、倭の朝貢はすなわち大海の彼方まで自国の威名が轟いている事を証明する慶事だったのだね。悪い言い方だが、倭人の朝貢をプロパガンダとして利用している側面もあったのだ。だから中国は倭を厚遇した。 あと>>139この話はただのミスリードだね
俺は記紀での神功皇后が卑弥呼とどのように
関係して書かれているのかをかいただけのこと
んなもんは記紀そのものに
神功皇后摂政時期の記述に魏志云からの「引用」があるんだから
半島の文献以前に記紀そのものが
神功皇后と卑弥呼を関連付けて「編纂しようとした」証拠だろって
ことで
もちろん記紀が正確な歴史を描いているなんてことは
あたりまえに前提としたうえでの話 書かれた座標の海の上で海チョコボ潜らせたら「ひみこ」って書かれた家の表札拾ってくるかもよ ネトウヨはなんで邪馬台国を畿内にしたいのか、この根本が分からねんだわ
卑弥呼なんて古事記日本書紀に無いのに
ヤマト王権は邪馬台国からの続きにしないほうが良いじゃんw バカサヨチョンモメンのネトウヨ連呼
古代史スレはバカサヨの発狂で必ずゴミスレになる
>>173
無学な君に教えてあげると、神功紀注引は後注説もあるけど
確固たる証拠にはならないね
>>175
縦令九州説でも、邪馬台国と大和朝廷は連続していると思うよ >>168
まぁ九州上部と下で2つの勢力があって上が邪馬台国と組んだって流れよな
>>88
>考古学的にこの邪馬台国の時代は
弥生時代末期から古墳時代最初期に分類されるため
それだと畿内説確定なんだけど
九州説なら「邪馬台国時代」は弥生時代後期だぞ。年代論争知らないのにドヤ顔で邪馬台国について語るなよ 日曜日のNHKスペシャルで青谷上寺地遺跡の人骨を分析した結果
縄文人と中国系のハーフが9割だったとやってたな。 >>177
なにが言いたいのか意味不明
記紀とはその編纂時期が8世紀
そんな時代から何百年も前の過去の
文字のない先史時代の出来事を口伝や創作を元に
「でっちあげた」もんだよ
>>92
糸島の漢鏡って庄内0式併行期の平原1号墓のことだろうが、さっそく自己矛盾起こしてるじゃん
土器編年のことわかってない奴が考古学者バカにするとか100年早いんだけど >>181
あたりまえに
邪馬台国の時代とは完全に確定したものではなく
全ては当時の中国大陸で書かれた
その頃の日本列島の様子でしかないけど? 卑弥呼と紀元247年,248年の日食が畿内でも見られたならまだ畿内でもいいけど
せいぜい北九州じゃん
>>183
でっちあげたって神功紀の内容のこと?
神功紀って百済記使ってるんだけど知らないの?百済は4世紀に史書を文字化してるんだぞ 邪馬台国=ヤマト国が九州政権で、アマテラス=卑弥呼。その後神武東征で畿内に本拠地を移した。これやろ >>184
いやいや
俺は魏志倭人伝が伝えることと
日本で出土するものとを関係づけてもその証拠にはならないよとしてまいすよ >>187
会話になってない
そこ引用ってしてるんだけどw 「青谷弥生人」は、最も脳が残っていた「第8頭蓋」を元に、頭蓋骨の形状から再現した顔、
DNA分析で明らかになった情報を組み合わせて完成しました。DNA分析の結果、
母方は東アジア由来の渡来系、父方は日本列島に定住してきた縄文系の子孫でした。
https://www.kouiki-kansai.jp/koikirengo/jyuminsankaku/mailmaga/reiwa2nendo_2/6832.html
卑弥呼も父方の血統は縄文系だったかもしれない
>>189
よくわからん
お前は半島南部で出土した弥生系土器や広型銅矛ごときで半島南部倭説を唱えてた一知半解知恵遅れガイジなくせに、邪馬台国に関しては冷笑主義になるんだな
まあ単に知識が無いから何も論じられないだけだろうと思うけど
>>190
魏志じゃなくて百済記だよ
古事記の原資料の「旧辞・帝紀」の成立は8世紀よりも遡るよ >>192
あー
俺はよくわかったよ
君が差別用語を積極的に使ってしまう
人格に問題のある人だってことは
もう間違いないかなw >>193
は?
魏志伝の引用があるよとしているのに
なんでそんなもん後付けでもってきたw >>194
君
マンマンヘビって名前で確定したみたいだよ 日本の歴史書に書いてない国の存在とか立証不可能だわ
物証が出土するまでは何も分からない 昨日NHKで胡散臭い番組やってたがこの頃からジャップは中国父さんにおんぶにだっこ状態だったらしいな(´・ω・`) 昨日NHKで胡散臭い番組やってたがこの頃からジャップは中国父さんにおんぶにだっこ状態だったらしいな(´・ω・`) >>200
それは無理
書いたように邪馬台国とは
中国の文献がいっていることで
その文献が日本で何を示すのかは
日本側の文献で証明するしかないが
当時の日本は先史時代つまり文字がないため証明は不可能
これが邪馬台国論争の本来の基本
>>199
ホケノ山古墳から鉄鏃出てるだろ
1999年くらいの発掘だから爺さんとかは知らないのも無理ないが これはファビョった左派学者がまた国士を引きずり下ろす捏造キャンペーンを始めるな
坂本や聖徳太子の次の犠牲者は誰だ?
中臣鎌足朝鮮人説とか繰り出してきそう 卑弥呼の墓が前方後円墳だったら使者が言及してないのはおかしい >>172
要は書物の中で距離とか単位を盛ってるんだんべ?
>>200
文献資料じゃわからんから考古資料を参照するわけだしな 邪馬台国と大和政権の継続性はないと思うのよね
女王のシャーマニズムを中心とした政治から、神話の神秘性に正統を求める大和政権では、政治形態が全く違いすぎるもの そらそうよ
中国父さんは超先進国で挨拶する国には気前良い
>>205
聖徳太子非実在説はむしろ左派学者から批判されてるんだが
>>207
盛ってると考えるのが自然だろうな
ただ、実際に短い単位が存在したとする「倭韓短里説(安本美典先生)」ってのも存在する >>210
よくある誤解
卑弥呼はシャーマンではない
公衆の面前で動物の格好で踊るのがシャーマン シベリアとか北方民族の文化
卑弥呼は引きこもって卜占 中国の南方のほうの文化
全く違う >>210
祭祀今でもやってるし政治形態はその時々で中国参考にかわってるじゃん
>>206
建設途中の前方後円墳を地上から見ると円墳にしか見えないよ
河内大塚山古墳っていう未完成墳があるから調べて見てみるといい。先に後円部を作るから前方部は真っ平らなんだよね 年代的には壱与の遣使が280年で確実に存在する仁徳天皇陵が考古学的に400年くらい
仁徳天皇の前にも最低数代はいたろうから邪馬台国が畿内にあったのなら
ヤマト朝廷と連続している可能性は高い
同時代にあって抗争してたかもしれんが
九州説だったら平原1号墓が卑弥呼かな
祇園山は甕棺の年代的に厳しいだろう 壱与の遣使は266年だったスマン
何と勘違いしたんだろ
>>218
畿内説の場合は
・卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命
・臺與=豊鍬入姫
に擬せられる
同床共殿を辞めて斎王を宮から離し、巫女が頂点に君臨する体制に終止符を打ったのが崇神天皇、ということになろう > 漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある
この漢の鏡って三角縁神獣鏡のことでしょ
これを漢鏡と言い切るのはいい加減にやめたほうがいいと思うんだけど、今や教科書にそう書いてあるんだな
>>220
へ?卑弥呼が埋葬されてる様子って倭人伝に書かれてなくね?
>卑彌呼以死 大作冢
だから描写されてるのは墓を作ってる様子だろう
>>224
三角縁神獣鏡は分類上「魏晋鏡」だから違うな。この場合の漢鏡ってのは岡村漢鏡編年7-2、つまり画文帯神獣鏡とかの事を指している。
ただ俺はそんなものは邪馬台国論争の本質ではないと考えていて、むしろ北部九州で長期保有されていたであろう漢鏡4-6期鏡が庄内式期(3世紀前半)に畿内に一斉に齎され、畿内から地方へ再配分されてるのが超重要だと思う。
「東遷」でもない限り威信財がこんな動きすること無いんじゃないかな。或は燕が殷の青銅器かっぱらったみたいな感じで、畿内が九州を攻撃して銅鏡を盗んだというシナリオもあろうが、考古資料からして当時の後進地域の畿内では軍事力で九州に敵わない。やはり「東遷」を想定するしかない。 西暦57年 漢委奴国王印
西暦107年 帥升が後漢に朝貢
西暦238年〜266年 邪馬台国が魏・晋に遣使
西暦600年に遣隋使を出す前から漢字を使える者が日本に居たのはまずまちがいないな。
>>229
57年の朝貢って、光武帝の北郊祀に合わせた完璧なタイミングでやってるからね
中国人と日常的に交流していたと思いますよ。硯が出土しているし、ごく一部の層は漢字も扱えたでしょう >>229
いないよ
そんな人が
いた証拠とされてきた硯の文字は「マジック」だったし
これで硯とされてきたものが
本当に硯だったのかも怪しくなり
その文字が書いてあったとされる硯が硯じゃないんじゃねとされたことで
その他の類似した硯とされたものも硯じゃないんじゃねとなった
だから日本列島での文字使用の証拠は
また元の年代まで戻った
>>233
お前マジでバカなんだな
摩耗の様子から砥石と区別して「硯」と判断していたわけで、マジック騒動でも全く揺らいでないぞ >>229
漢字使えた人がいたなら一切記録残ってなの謎だけどなあ
ガチで知ったかぶりするのやめろよ
どうせウィキペディアとかネットニュースだけ読んで論文には目を通してないんだろうけど...それ研究者に対する冒涜だからな
>>235
朝鮮半島南部の昌原市にある茶戸里1号墓(紀元前1世紀中頃)からは硯と筆のセットが出土して文字使用が確実視されてるんだが、半島南部で当時の記録は残ってないだろ
同じことだよ 筆記のテクノロジー未開発とか当時の日本終わりすぎだろ >>175
卑弥呼自体が日本史で大した人物じゃないから >>234
ああ
それまだ強弁しているだけで
その根拠が希薄だよ
墨の痕跡といってもさあどうだか
そもそもこの石硯とされる出土物
いろんなところからこれも相じゃねと無茶苦茶出ているけど
砥石にしか見えないし
これだけで出るのに石硯とされるものだけしか出ず
筆がまったくないし 近畿説を唱えるなら大和王権との繋がり立証するのが手っ取り早い
神功皇后の形跡掘り返すのがいいんだけど
天皇陵に比定されてる古墳は調査出来ないから
結局何も分からん、詰み
つーか昌原は倭とかなり縁のある場所で、実際茶戸里1号墓からは福岡製の銅剣も副葬されてるんよ。で、糸島には中国人が滞在していたと推定されるメチャクチャ楽浪土器が出土する地点(番上地区)もあるわけ。
これで漢字が使用されていないと想定する方が難しいでしょ?中国人めっちゃいたんだからさぁ。蓋然性ってもんを考えようよ
>>241
>砥石にしか見えないし
そりゃお前ネットで画像検索したらそうよ
摩耗の様子が砥石と硯じゃ全然違うの。硯だと中心から同心円状にすり減って行くのよ
>これだけで出るのに石硯とされるものだけしか出ず
筆がまったくないし
だから奈良県の大福遺跡から筆軸っぽいもんも出てるでしょ? 邪馬台国は朝鮮半島
これが嫌儲の総意でよろしいか?
>>242
九州説だろうと邪馬台国は大和朝廷とは連続していると思うよ
銅鏡の動きや大和の祭祀文化の変遷を見るにね >>227
琅邪郡も有るし泰山で始皇帝が封禅の儀式して琅邪台を作ってるから
邪の原義は悪い意味だけではないんじゃないか >>240
限りなく卑弥呼=天照大神でしょ
そう考えると重要な人物
卑弥呼の亡くなった年って日本では記録的な皆既日食が起きてることが分かってるから、当時の民はそれが卑弥呼による影響だと信じただろうね
その伝説が天岩戸に卑弥呼が隠れた時から太陽が見えなくなった伝説に繋がる
>>248
砥石は真っ直ぐに傷が付くから判別可能だよ。いいからお前は論文読めよ。まとめサイトとかwikipediaとかで得た知識だけじゃなくてさ >>252
その論文が強弁だらけになったのがマジック事件以降だねw
文字つったって物語とか系譜書けるほどのものじゃないぞ?そういうのは百済ですら楽浪遺民受け入れてから始まるわけでな
文字使用=史書編纂とか思ってたら大間違いですわ >>233
中国側からの詔書を読むのにも日本側から上表文出すにも
日本側に文字を理解できる者が居なければ出来ない。 大体さ
弥生時代にはあたりまえに土器があった
土器には文字の痕跡がない
あっても線形の記号のようなものだけ
そんなんでなんでいきなり板石硯なんてもんが
出現するのさ
>>255
>その論文が強弁だらけになった
論文の題名と著者言える?
まさか知らないのに強弁だらけとか言うわけ無いと思うけど
>>257
というか魏志倭人伝に「伊都国で文書管理してた(大意」って明記されてんじゃんというお話だわな >>257
ん?
文字そのものは輸入品として銅鏡に書かれたものが
入ってるんだ
なのにそれが国内で生産された銅鏡となると
まったく文字が入ってない
詔書を読むとかいっているけど
ンなもんまったく弥生時代に出土なんてしてないよ >>259
それこそネットでそのまま似たようなもんが読めるよw だいたい史料がないんだから今さらどうしようもない
おそらく邪馬台国は九州
しかし日本の統一国家ではなくて、近畿にも似たような規模の国勢力があった
>>258
いや貝蔵遺跡の墨書土器とかあるだろ
何で知ったかぶりしちゃうの?こいつ病気持ち? >>235
古代から中国歴代王朝と人の交流が多分に有った北方遊牧民諸族も記録を保持してない
>>261
>なのにそれが国内で生産された銅鏡となると
まったく文字が入ってない
え。お前マジで言ってんのか?
小型仿製鏡や倭製鏡には普通に漢字刻まれてるぞ (ただ模倣しているだけだから文字を理解していた証拠には出来ない)。頼むから次から次へと嘘をつくのやめてくれよ >>266
田は果たして「漢字の田」なのか
それとも線形の記号なのか
証明できたらいいですねw >>268
似たようなもんじゃんw
銅鏡での文字使用は問題あるとの証言おつw
「漢字が入った土器は存在しない」
→墨書土器あるけど
「仿製鏡に文字はまったく入っていない」
→メチャクチャ入ってるけど
>>271
>銅鏡での文字使用は問題あるとの証言おつw
当たり前だろ
誰も最初から銅鏡に刻まれてる漢字を根拠に日本列島での文字使用を論じたりしてねえんだよ。お前がいきなりバカな事を言い出したから訂正したんだろ? >>261
朝貢を認めらて王号を認められるなら当然詔書もセットだろう。
詔書が現存するかどうかは別の話 文字の話はさ
基本だけど
これが確定すると考古学会を揺るがす大ニュースなわけw
でも「まだまったく確定してない」のね
なぜか?
その間接的な証拠となるものが
ことごとく中途半端で怪しいから
特に板石硯なんてゴッドハンドかよといえるほど
一つの事例からこれもこれもとすでに発掘していた
展示品からコレもじゃねぇぇええええっとなった経緯があんのさ
だからこの手の話は絶対に鵜呑みにしないほうがいいし
弥生時代に文字が使用されていたなら
土器や銅鏡にその証拠がもっとあるはずだし
筆もそのままのものが出てきたり
墨も板石硯の件数から言ってその塊があっちこっちから出てないと
あまりにもおかしい
そういうものでしかない 一大率に関しては九州説だと女王の本拠地に近すぎないか?
わざわざ派遣する意味あるのかって感じ
つーかお前自身が例示した糸島の漢鏡(とされる鏡群)が、殆ど倭製と見られてるだろ
具体的には中国から渡来した鏡師の「陶氏」が製作に関わったとされているのね。当時の北部九州はそれだけグローバルな地域だったわけ、漢字使われてない確率の方が明らかに低いんよ。 >>275
仮に
現存していてもそれが読めるかどうかはまた別の話なんだよ
>>276
>証拠がもっとあるはずだし
墨書土器も知らなかった馬鹿のくせに、単に自分が「証拠」に辿り着けてないだけって想定は無いんだな。まず論文読んでから出直してこい >>281
田は漢字なのかそれとも線形記号なのか
答えてみ
君が結論出せたら
ニュースになるよw
>>277
糸島は紀元前1世紀から対外交易を掌握してた最強港市国家だったから、邪馬台国の所在地がどこにあろうと抑える必要性はある そもそも邪馬台国や卑弥呼って本当に居たの?
魏志倭人伝の内容って本当に日本の事を指してるの? 南九州あたりは、縄文人のDNAが結構残っている
弥生系渡来人は九州を素通りした可能性も考えねばならん
素通りして関西圏に >>284
そこ重要だね
魏志倭人伝には正確な情報もあれば
創作だろというもんも含まれている
その創作だろってとこが「口伝での伝達ミスを」
つまり伝言ゲームの結果生じたもんだったり
書いた奴や伝えたやつが適当なこと書いたり言ったりした結果として
「捕らえたときに」
正確な情報と誤情報の比率がちょうどいい具合に
当時の情報伝達過程で起こりうる「誤差」と一致したりすれば
その確度は上がるかもね
なぜ九州を素通りして近畿の方が渡来系形質が濃いのか、といえばそれは4世紀末以降の動向に原因を見いだせるだろう。
須恵器(半島の陶質土器から派生)が大阪でメチャクチャ出土していることからも分かる通り4世紀末以降に韓人が大挙して畿内にやってきているのだ。弥生人とかそういうのではなく、韓語を話す韓人が来てる。そりゃ遺伝子変わるだろうって >>280
読めなきゃ王号を受けたかどうか確認できないだろ
>>284
居たと思うよ
少なくとも倭人伝を読む限り中国皇帝は倭国の使者と面会しているし、帯方郡使者も「直接」卑弥呼に会っている。
虚像でこれは中々難しいんじゃない? >>7
あの金印は、後漢の奴だから別物、iq低い事いうな >>289
あー
マジな話さ
現代人では
近畿と同じくらい四国で弥生人の遺伝子比率が高いのは
どう考える?
あれ原因全くわかってないけど
なんだろ? >>15
それが一つの国と認識され出したのが、だいたい2世紀ごろ、魏志倭人伝で一大率というのが出てくるがコレが奈良大和政権の軍事組織と思う、つまり卑弥呼前から九州は近畿に支配されつつあった >>290
そりゃ昔は言葉を覚える役割の人がいたわけよ
それで説明できるよ
人間ってさ言語中枢は物凄いから言葉をしゃべる能力は
あらかじめ備わっているようなものだが
文字は5千年くらいの歴史しかなく
子供のころから教育されてやっとこさ使えるそういう
まだ新しい能力なわけ
だから言葉を記憶して覚えるほうが
人類にとっては何万年も前からやっている能力となるんで
「支配」は無いだろう。
確かに糸島には畿内甕が飛び地的に集中して出土する地点が存在するんだが、その畿内甕を正確に分析したら「筑前型畿内甕」といって、福岡平野系だったことが判明しているんですよ。
だから考古資料的に見ると伊都国に一大率を置いてた主体勢力は奴国ということになる。 >>294
九州でも大分が渡来系が多かった、弥生時代に人口爆発した西九州より、過疎地だった関西や四国に渡来系が沢山移住したんだと思う、あと出雲とか山口の土井ヶ浜から直接入ってる >>298
それがさ
現代日本人の全ゲノムを調査すると
九州よりも「近畿と四国」の方が弥生系遺伝子の比率が高いのさ
「筑前型畿内甕」の集中出土地点は三雲遺跡(伊都国王都)から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近なんだよね。
つまり伊都国の玄関口、最重要地域に奴国人が滞在していたということになる。これが一大率の痕跡なんじゃないかと一部では言われている。 >>297
伊都国に一大率置いてるのは奈良大和だよ、卑弥呼の前から福岡の一部は大和の勢力に入ってた、後漢から金印貰った直ぐ後くらいには福岡の一部に奈良大和政権に下ってる、すれに抗うのが久留米朝倉の狗奴国
>>301
物証が無いからそれは無い
そもそもロジスティクス的に遠すぎて直接統治なんて出来ん。だからこそ大和は福岡平野の奴国に「接近」して「協調」を試みたんだろう。支配したとかそういう力関係は伺えない >>299
それは知ってる、シミ 縄文、白血病遺伝子、ソ連のレヴィン博士の調査でも九州が縄文アイヌに近いと出てる、それは西九州で縄文系のまんま弥生文化を受け入れて人口が増えたからだと思う、九州の古墳の人骨も縄文系の遺伝子が強かったと
>後漢から金印貰った直ぐ後くらいには福岡の一部に奈良大和政権に下ってる
デタラメ
金印貰ったのは西暦57年で、畿内だと土器編年Ⅴ-0。ちょうど近畿の共同体祭祀具が「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変化した時期だが、当時の近畿は後進国すぎてとてもじゃないが福岡平野には敵わない。 >>302
ヤマトタケルとカワカミタケルは佐賀の筑後川支流での出来事、早い段階で福岡佐賀は奈良大和に落ちてるよ、それこそ吉野ヶ里の戦闘は奈良大和との戦闘だわ
そもそも畿内に「王」が現れるのは西暦200年頃(纒向石塚)なんだよな
それまで社会の階層化が全く進んでいなかった奈良盆地に突如として日本最大の弥生墳丘墓(しかも在地の墓制は完全無視)が現れるから、たぶん王様はよその地域からやってきたんだろう。それまでの畿内はただの後進国。
>>305
弥生時代後期の大和に「王」の痕跡は無いけど?鉄鍛冶すらまともに出来ない当時の大和がどうやって福岡平野と戦うのよ?
福岡平野は農具すら完全鉄器化してた最強の先進地域だぞ?話にならんわ >>304
奈良と言うと語弊あるが、奈良と出雲の連合だよ、奈良はまだ有力では無いが、出雲は巨大勢力だったし、出雲と九州は覇権争いで確実に戦争してる
出雲に「王」が現れる(西谷3号墓)のも西暦150年頃ですから。畿内より半世紀早いけど北部九州より遥かに遅いよ 九州にいたのが卑弥呼でならあたりにいたのは別の部族
それか九州の卑弥呼が勢力拡大により遷都したと俺は思ってる
後者なら九州説も奈良説も説明がつくな >>306
近畿は狗奴国説あると思うね
邪馬台国は神功皇后がいた敦賀辺りにあったかもね >>296
言葉を覚える役割が居たなら字を覚える役割なり
最初から字を使える帰化人や子孫もいるだろ。
中国から何百年も人が流入して中国と何度も使節が往来しながら
文字を使える者が一人も居ないなんて有り得ない
近畿=狗奴国は中々厳しい。
むしろ北部九州(奴国)と纒向(大和王権)は蜜月の関係にある。例えば奴国は畿内甕受容して前方後円墳作ってるし、纒向には奴国から鍛冶技術(かまぼこ型羽口)が移転されて半島系技術者(鍛冶遺構付近から瓦質土器)まで差配されてる。
敵対してる国同士でこうはならんわな >>312
卑弥呼は、箸墓古墳だろう、つまり奈良だ
ではこの奈良大和に移住した卑弥呼とはどこの人間か、基本的には福岡県人では無い大分付近の渡来系の末裔だと見てる
もし福岡県人ならわざわざ福岡を裏切るような事はしないからでも大分なら奈良や四国の渡来系の人と仲良しだから福岡に良い顔しつつ奈良本命あり得る、基本的に瀬戸内四国、出雲は渡来系が相当増えてた筈、岡山吉備の温羅とか温仁(オニ)も渡来系だよ
>>317
別に福岡裏切ってないだろ 纒向と書かれると
おちんちんヘアーイタイイタイの思い出が頭を横切る 九州では、朝倉久留米が神功と戦争してるから狗奴国である可能性大企業、宗像は元々日和見で、中立政策、出雲福岡奈良と敵対せずに来てる、北九州市大分は基本的に奈良大和の飛地、四国は完全に奈良や出雲の植民地
こんな感じだよ 九州にも強い部族が成立していて
それを避けるように近畿や四国に渡来人がきたのかも知れん
では九州の強い部族の正体は?
初期の渡来人が縄文人と協力して
作り上げたとか?
>>32
魏志倭人伝しっかり読むと分かるけど
倭国は徴税システムも辺境防衛官(ヒナモリ)も整備されてるし、帯方郡にはわざわざ交易関係の人物と見られる「都市(=市場管理者)牛利」を派遣しているし、宗教の力?だけで纏まっていた連合には見えないよ
かなり先進的 >>323
九州は紀元前から先進国で沖縄まで移住してた、伊都国の帥升王の頃には後漢から金印貰って栄華極めた、日本列島一の巨大都市だったんだよ
渡来系なんか受け入れる余地はなかったし、基本的に怪しい中国韓国人は本州や大分に押し付けてた 二柱の神は相談して「今私たちが生んだ子は良くない。天つ神の所に参って相談しよう」と、ともに高天原に帰って、天つ神の指示を求めました。そこで、神の命令に従って太占(ふとまに)で占ったところ、女神から先に声をかけたのが原因だったことがわかりました。
さっそく二柱の神は淤能碁呂島(おのごろじま)に戻り、再び天之御柱(あまのみはしら)を回って、今度は伊邪那岐神から先に「あなたは、なんていい女なんだろう!」伊邪那美神が続けて「あなたは、なんていい男なんでしょう!」と言って再び交わりました。
そうすると、次々と立派な国が生まれました。
一番初めに生まれた子は、淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)=淡路島。
続けて、伊予之二名島(いよのふたなのしま)=四国を生みました。この島は、胴体は一つですが、顔が四つあります。顔ごとに名前があって伊予国(いよのくに)=愛媛を愛比売(えひめ)といい、讃岐国(さぬきのくに)=香川を飯依比古(いいよりひこ)、粟国(あわのくに)=徳島を大宜津比売(おおげつひめ)、土左国(とさのくに)=高知を建依別(たけよりわけ)といいます。 >>101その通り、吉野ヶ里とか政治力はないと思うね、あそこはない田道ヶ里と言う地名が近くにあるので、田道間守と関係してると見てる 大化の改新前、もしくはずっと後の記紀編纂時でも
この時代の様子を伝える文献が何かあったかもねー >>326
コレ見ると四国は、渡来系が多く、イザナギイザナミも渡来系だと思えるんだが >>328
文献あっても紙が無いし、日本には文字を書く習慣が無かった、多分漢字知ってた人居ただろうけど、後世に伝える事はしようとしなかった、稗田阿礼の地道な調査で紐解いたと言うのは事実に近いと思う
いや渡来系は日本中が欲しがってたんだぞ。
特に大和は4世紀末以降半島からたくさん渡来人を連れてくることに成功したから、大陸の先進技術で堰や護岸施設や灌漑用の池(韓人池)をバンバン作り農業生産力を拡大し、かつ渡来人の分配(ヤマトに従うなら渡来人分け与える。地方も渡来人欲しいからヤマトに従う)を通じて権力を更に集中させていったんだよ。
5世紀末の倭王武(雄略天皇)になると「治天下大王」とか名乗りだしちゃうわけでな。 出雲が高句麗からの影響を受けて、その歴史はそのまま古事記に記されてる、四国の開発も出雲の手によるもの、だから四国大分は渡来系の血筋が強い、温羅の居た吉備地方も渡来系だし、山口も基本的渡来系だった、だからこの辺を秦国と呼んださ、彼等が奈良に遷都しヤマト政権の礎となったのは明らかだ
福岡人が奈良を征服したと言う事実は無い、この説は完全なるサヨクの妄想である、もし福岡人が奈良を制圧したなら、近畿が渡来系比率高まる筈が無いだろ、近畿四国の人は大陸や半島から直接来た人々なのだから 国生みの順番
淡路島
四国 ※ここで飯依比古(穀物の神みたいなもん)登場
隠岐の島
九州
壱岐
対馬
佐渡島
本州
これを渡来人たちが
列島各地を征服していった順番として捉えると
まずは瀬戸内海を通って淡路島に渡ったがうまくいかず
四国に渡ってここから発展していったとなるが
もちろん考古学上では最初に高度農耕が始まったのは
北部九州板付あたり
しかし実際に弥生人が根付いた比率が高かったのは
ゲノム調査から四国と近畿
だから最初に渡来し北部九州と交流があった勢力とはまた別の
渡来系勢力がまず淡路から四国に渡り根付いて
そこから九州を侵略し本州かなと
古墳時代前期のヤマト王権は威信財を(三角縁神獣鏡とか)配りまくったり交易差配することで求心力を維持していたわけだ。
地方首長から見たヤマトはいわば、会うたびにプレゼントくれる親戚のおじさんみたいな存在だろう。
しかし中期になって半島南部から人や物が流入し、畿内がその分配権を握るとまた話が変わってくる。銅鏡などの威信財なら別に無くたって構わない(あった方が嬉しいけど)程度のものだが、農業生産を左右する渡来人の入手は地方首長にとって死活問題。故にヤマトには頭を下げてご機嫌取りをしなければならなくなる。
古墳時代前期は、ヤマトが地方首長のご機嫌取りをしていたのに、中期になると立場の逆転が始まる。
現代のゲノム調査が全部2000年前に適用出来ると思ってるのが謎だな。四国に渡来系が多いのは古墳時代以降の「畿内→四国」の人の流れを想定するべきだろう。 そもそもの話なんやが
邪馬台国が九州でも幾内でもなく台灣、沖縄諸島だったらどうすんの?
ヤマト王権は普通に隆盛したんじゃないか?
>>332
いや近畿に渡来系殺到したのは4世紀末以降の話なんだから、邪馬台国(3世紀)関係ないでしょ? >>335
やっと意見したか
飯依比古はどうする? >>333
当たらずとも遠からず、基本的にヤマト政権に繋がる支配層の征服順と考えて良いと思う
おそらく出雲に拠点持ってた一族と思う >>324
そんな徴税システムあるのに文字なかったのか >>337
出雲と大和は基本同じだから国譲りとはそう言う事 >>339
それがあの島根鳥取辺りは弥生人の遺伝子比率が低いときた
弥生時代には日本列島内(東北・南九州除く)で遺伝子の差なんてほぼ無いよ
差が生まれたのは古墳時代中期以降だろ。数秒考えなくてもわかることだぞ
>>340
魏志倭人伝に、伊都国で文書管理してる旨明記されてるじゃん
漢字使ってただろう 元々、邪馬台国など無かった説はどうだ?
あくまで卑弥呼と言う巫女が各地を転々としていただけで
日本は豪族が各地を支配してた
中華から見たら統一する呼び名と代表者が居なかったから邪馬台国の名前を作って卑弥呼を代表者にした
これなら見つからない理由と整合する >>344
もういいよ
根拠なき断定の連続しかしないなら
価値なし >>340
インカで使ってた紐の結び目の数で数字の記録してたりとか文字がなくてもありとなんとかなる >>346
それだと
台与の存在が浮いちゃうので面白いけど
ちょっと無理があるかも >>46
だから韓国で新たな古墳が発見されると戦々恐々になるのか
イザナギイザナミや国生み神話は淡路島の話ばっかりしてるんだから、東瀬戸内の海人が伝承していた神話を大和王権が吸収して再構成した神話であろうことは容易に想像付くだろ。そっから史実を見出そうとするのには慎重になった方がいいぞ。ましてや稲作伝来は紀元前10~9世紀の話で、んな時代の伝承残ってるわけないんだし >>351
朝鮮式山城は
はくすきのえの戦い前後にかかるはずなので
もっと後かな
>>351
神籠石は飛鳥時代のものでしょ
淡路島自体に先進的な文化があった痕跡は一切無いんだが、立地的に東瀬戸内一帯の海人にとって重要な場所だったから神話が作られたんでしょう。それを征服ルートだとかばかみたいな妄想されると困るだろうね なぜ農耕が始まって何世紀と経ったのに
文字による記録が残らなかったのか?
農耕を伝えにやって来た渡来人は
文字を教えなかったのか? >>342
島根鳥取全体では無く、青谷遺跡単体だと高いし、土井ヶ浜の弥生人は半島に頭から向けて埋葬してたから100%渡来系だわ この時代に他の有力者が居ないから決定って
あまりにも雑じゃないか 『神皇正統記』(1300年代、著者は南朝の公卿・北畠親房)
〈日本は三韓と同種也と云事のありしか。かの書を桓武の御代に焼捨られし〉 でたあっ
仏教スレと並んでキチガイが集まる歴史スレ 漢の奴隷国家の邪馬台国は九州北部の吉野ケ里遺跡にあった
しかし漢字の理解がすすんだ倭人はヤマトと名乗る事をやめて独立することを決意
奴隷の証である金印を捨てて空白期間をへだてて日本を名乗るそれまでの公文書は破棄した
ヤマトと日本は違うんだぜと主張するために日出る国とか言ったり涙ぐましい
紀元前10~9世紀にやってきたのは農耕が出来るだけの土人だから
紀元前4世紀に金属文明が日本列島にもやってくるけど、これもまだ文明化されてない半島南部からの伝播。
稲作伝来から800年経過した紀元前2世紀末(108 BCE)半島北部に中華の窓口(楽浪郡)が設置されて初めて、半島南部や倭に楽浪商人が往来し漢鏡や太刀、漢字などが齎されるわけ。
>>357 ①古墳時代以降のいわゆる「ヤマト王権」は、纒向遺跡を代表とする畿内の政体が拡大発展したものと見て間違いない
②『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝にみえる「邪馬台国」と、ヤマト王権の関連性は全く不明であり、両者が別物であっても何の問題もない
③遺跡の規模や年代から「邪馬台国」の所在を論じることは無意味で、文献に見える「銅鏡百枚」や印綬が墓から出土するか、文献に見られる「墓の周りに作った百余人」の殉葬者などの直接的な証拠がなければ、どこかの墓を卑弥呼の墓だと断定することは不可能
考古学的には①こそが重要なのであり、ヤマト王権が纒向・箸墓から発展したのは確実である
魏書にたまたま記された「邪馬台国」がどこにあろうと、はっきり言ってどうでもいい >>356
四国大分が渡来系が強いからそう考えてる、彼らも元々は半島や大陸から来た一族だよ
淡路島拠点に瀬戸内四国を制覇したのだろ >>18
何を持って発展とするかだな。
中国は文化的には発展してたけど
軍事的には北アジアの覇権国に制圧されてその属国だったのがその歴史。
劉邦も中国圏は統一できても匈奴に降伏してその臣下
>>365
いやどうでもよくないです
突如として纒向に諸地域の祭祀文化を継承する権力が出現した理由を説明する必要があるので。畿内説の場合それは「女王共立」に起因するものになるでしょうけど すでに書いたように
邪馬台国があったとされる弥生末期は
列島人口が60万から500万人台に延びていく
本格的なクニの発展期につながる入口の時期
だから群雄割拠で入り乱れていて
安定してはまた荒れてのようなことを繰り返していたとするのが自然なので
中国側がその安定した一時期を記録したのが
魏志倭人伝であってもおかしくはない
だからその場所なんて
ホントどこでもいい >>360
九大の研究もだいたいコレだったね、だから福岡人が東征して奈良に居座るアンポンタンの説は説得力失った 今みたいに別れたのは白村江以降だろ。
九州から半島南部にかけて別の国が成立してたけど
半島からも追い出される形で最終的に大和王朝にまとまった。 >>368
その議論を進めるためには邪馬台国の所在論争はほとんど意味をなさない
なぜなら邪馬台国は文献的概念であり、そこに記された情報を考古学的な遺跡と対比させる方法がないから
北部九州の諸邦や中国地方、北陸の考古学文化との比較でヤマト成立の意義を考えることは重要だが、邪馬台国がどこにあったかは関係ない
ほんと知ったかぶりの馬鹿だなぁ
弥生末期は既に領域国家同士が結びついてるんだわ。群雄割拠は弥生時代後期の話。そもそも入り乱れてない(平和になった)から日本中で環濠が埋没して開放的な集落(纒向など)が続々建設されていったんだろ >>354
>>355
wikipediaに
「神籠石が何時頃作られたかも判明しておらず、」
とある通り飛鳥時代とは言い切れないみたいだけどね
古墳時代とも言い切れないとも言えるけど >>373
基本的に邪馬台国に入ってるのは福岡佐賀、大分から四国奈良大和だからどこに邪馬台国があるかより、卑弥呼はどこ出身なのか考える方が意義がある 日本に漢字史料が爆増するのは白村江の戦い以降
日本書紀の漢文には中国人が書いた正しい漢文と百済人が書いた文法の怪しい漢文が混在してる 西暦200年ごろ、トンガあたりで大噴火が起こった
地球は寒冷化していた
海水面は今より低かった
水深100~200mあたり掘れば邪馬台国でてくるよ
>>365
>文献に見える「銅鏡百枚」や印綬が墓から出土するか、文献に見られる「墓の周りに作った百余人」の殉葬者などの直接的な証拠がなければ、どこかの墓を卑弥呼の墓だと断定することは不可能
ここに羅列されてる物こそ何の根拠にもならないんだが。銅鏡は普通分配されるから卑弥呼の墓から100枚ピッタシの鏡が出るわけないし、親魏倭王の印綬は臺與の墓に副葬されてるかもしれないし(或は本来九州にあった金印が畿内に東遷)、殉葬もたまたま似た墓があるだけかもしれん。素人ってこんなのが邪馬臺国の証拠になると思ってるんだから笑っちゃうよね もちろん弥生末期から古墳時代にかけても
今度は文化形態がひっくり返る銅鐸破壊なんてものが起きているため
戦乱があって当たり前
だから当然ながら卑弥呼によって複数のクニが一時的にまとまっていたと
することはその後を継いだ台与のその後が消息不明であることからも
やっぱり自然で
魏志倭人伝がその一時的な平安の時代を書いたものである可能性は
十分にある
そうなるとほんとに
その位置なんて「やっぱりどこでもいい」 人種的には北アジア系のモンゴロイドが中国と半島を征服して
遊牧民の去勢とかの文化を持ち込んで原住民を宦官とかを仕立てた。
だから日本は明治まで馬の去勢をしてなかったほどその手の文化が希薄だけど
中国と半島には根付いてるし宦官も成立していた。
民族の成り立ちが複雑な日本と比べて 騎馬民族征服説は半島や中国の方にぴったり当てはまる説だったわな >>376
良好な人骨サンプルが採取できたとしても、「卑弥呼の墓」が確定されなければ彼女がどこの出身者だったかはわからないから、堂々巡りの議論になるよね
卑弥呼かどうかは置いておいて、各地の大墓の被葬者の出身地を比べることには大きな意味があると思う
何度も言うけど対外交易路を掌握していたのは玄界灘勢力(伊都国・奴国)なんだから、この勢力と密接な関係にあった地域こが邪馬台国なんだよ。
墓の大きさとか鏡とか殉葬とか遺跡の大きさとかマジでどうでもいい。 >>375
朝鮮式山城は確かに謎が残っていて
行橋にある神籠石はなぜか朝鮮半島ではなく
瀬戸内海側を向いて築かれているとか
他にもなんで北部九州から瀬戸内海にかけて
こんな大規模なモンが作られているのに記紀にはその建築の様子について
書かれてないに等しいのかとかあるね
こんなのはこの朝鮮式山城が作られた時代の列島の支配者と
今の天皇につながるとされるヤマト王権の支配者とに
連続性がないとでもしないと説明がつかない 邪馬台国=ヤマト国に決まってるじゃん
国名の発音ほとんど同じだし >>379
よくわかってるじゃないか
実際には銅鏡百枚が出ても印綬が出ても、たとえ百人の殉葬がみつかっても、それはあくまで副次的な証拠であり、その墓が間違いなく卑弥呼の墓である証拠にはならない
つまり、どこかの墓が卑弥呼の墓であると証明することは考古学的にはほぼ不可能だということがわかる
そんな状況下でどこが邪馬台国か、どこが卑弥呼の墓かを論じることにあまり忌みはないんだよ。文献的概念をむりやり考古資料に結びつけるより、考古学的な証拠だけで歴史を論じる方がよほど正しい
この視点に立てば、箸墓が卑弥呼の墓かを論じることはあまり意味がなく、纒向がヤマトにつながること、北部九州の先進的な弥生社会がなぜかその後の列島全土に広がる文化の担い手にならなかった(なれなかった)ことを論じるほうがよほど意味がある まだ近畿にきてないイメージあるけどなあ
きうしうやろ時代的に >>385
仮にそうだとしても
今度はその時代の中国が認識していた「ヤマト」ってのは
今でいうところのヤマト王権と同じものなのか
この大問題はそのまま残るわけ
ヤマト王権なんてもんの存在が
まああっただろうと認められるのは
今のところは古墳時代からなんで
そっから先に遡って弥生時代にもヤマト王権があって
それは今の天皇まで連続性があるなんていったら
トンデモ扱いとなるのが今は当たり前
ちなみに遠賀川式土器(弥生土器)と前期突帯文土器(縄文土器)が共伴する集落とかあるわけで、進取の精神で弥生人に混ざって稲作を始めた縄文人も居たんだぞ なお、少し前に話題になった河南省安陽の西高穴二号墓が曹操墓であるかどうかの議論も、邪馬台国と箸墓をめぐるよりはよほど具体的である
①墓の年代が文献に記載された曹操墓の年代と近い
②墓の位置が文献に記載された曹操墓の立地に近い
③墓の構造が同時代の諸侯王クラスのもの
④副葬品は少ないが、墓から「魏武王常所用…」と刻された遺物が出土した
などが根拠となるが、特に重要なのは④である
①~③だけでは当墓を曹操墓と判断する根拠は薄弱だと言わざるを得ない
箸墓を卑弥呼の墓とする根拠は現状①②くらいしかなく、その程度の根拠で被葬者を断定するのは危険きわまりない >>289
その渡来人が政権乗っ取って
正当性持たせるために作られたのが
天皇って存在だね 流石に女王を戴いた大規模な国が同時期に二つあったとは考えにくいし
古墳に葬られた女性の遺骨と相当数の殉葬が揃ってれば高確率でそこが邪馬台国だろうと言っていいんじゃないの?
確定はできないだろうけどさ 畿内説だとして、倭人伝に瀬戸内にしろ山陰にしろ九州から畿内までのルートが抜け落ちてるのはなんなんだろうな 百済と新羅は日本のパシリでした。
魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期~後期(5~6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。 >>396
日本の気候だと遺骨は残らないから無理だろ
>>400
なんだお前古田説支持者かよ
旧唐書曲解してそう そもそも空白の4世紀の間は
朝鮮半島と日本に住んでる人らは自由に行き来してて人の交流が活発だった
>>402
骨は溶けるけど「歯」はエナメル質で残るからだいたい性別判断できるよ 天皇のDNA鑑定やりゃいいのに
なんでやらないの? 朝鮮半島の影響をチラホラ匂わすバカチョンが沸いてるが、日本が縄文時代だったころ朝鮮半島は完全に無人でした。
朝鮮半島には五千年前よりも昔の遺跡が全く存在したせん。 >>404
百済と新羅は日本のパシリでした。
魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期~後期(5~6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。 > 「この時代、ほかに有力者はおらず、箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した可能性が高い」
これ「墓が見つかったから畿内説で決定だ」と言ってるのではなくて
「畿内説から導けばこの墓は卑弥呼という事になる」と言ってるんじゃないの???
論理が逆だ 魏志倭人伝にしか卑弥呼や邪馬台国の情報がないのに魏志倭人伝の情報をスルーする畿内派
>>408
北限じゃなくて北岸な
北の対岸と解釈するのが通説だし >>408
しかもこれは結局のところ
>>404ってことでしかないってこと >>413
北限だバカ。
大陸に北側をくっ付けてる朝鮮半島に北岸なんてない。 全部四国から目を逸らすための詭弁にしか聞こえない
そんなに都合が悪いのか >>414
倭人が朝鮮半島南部にデカイ古墳作りまくってんのに倭人の支配を認めないバカチョン。
>>415
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 >>418
なのに結局乗っ取られたんだから
何やってんだか俺らの先祖って感じだよな ヤマタノオロチとは邪馬台の大蛇
つまりヤマタノオロチの伝説は邪馬台国を征服したことを物語化したものであり邪馬台国は出雲にあった
という説を今5秒くらいで思いついた 何故か邪馬台国の話になると学者がバトルを繰り広げる嫌儲の伝統風景
>>418
じゃあ古墳時代中期以降、ジャップランドは須恵器(陶質土器から派生)が席巻するから日本列島が韓国人に席巻されたって理解でOK? 「対馬は日本より韓国の方が近いのになんで日本領なんだ?」
「対馬は日本に侵略された韓国固有の領土!!!」
昔は朝鮮半島南部も日本領だったからその通路上の対馬も日本領なんだよバカチョン。 同時代に複数の王国が存在していて
中国の記録係がそのことを理解してなかったんだよ 卑弥呼の時から奈良時代でだいぶ時間あるからなあ
400年くらいか?今と関ケ原くらいやから
なにがおこってもおかしくないわなあ >>403
古田説はひどいもんだが全てを否定するものでもないと思ってる >>424
「対馬は日本より韓国の方が近いのになんで日本領なんだ?」
「対馬は日本に侵略された韓国固有の領土!!!」
上のこんなこと一言も言ったこともねーけどw
見えない敵と戦うのはやめた方がいいよ
つーか弥生時代後期の時点で対馬と半島南部の文化は全然違くなってるから。半島南部は倭ではない。 文献は中国頼みだけど遠い国のことを正確に書いてるかというとそこまで信用は出来ないだろうね 日本の歴史書、中国の歴史書、朝鮮の歴史書、そして朝鮮半島に残る史跡が日本による朝鮮半島南部の支配を証明しているのだが、なぜか朝鮮人だけがこの証明された史実をうけいれようとしない。 百済と新羅は日本のパシリでした。
魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期~後期(5~6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。
>>432
宋書では百済の方が倭より格上の扱いだけど
知恵遅れネトウヨ知ったかぶりすんなよ 考古学的におもしろいのは、
①弥生時代の先進地域は間違いなく北部九州であり、大陸との交流の中で優れた先進技術を多数保有していた
②しかし、北部九州の諸国はあくまで「クニ」形態の政体を維持し続け、それを統合(または連結)するような大きな政体を作らなかった
③そのような広域政体は、弥生時代には決して先進的とは言えなかった畿内地域からおこった。前方後円墳の日本各地での分布が、ヤマト政権が広域に影響を与えた(あるいは各地の社会が古墳祭祀を受け入れた)ことからわかる
④日本列島においては、古墳祭祀という、どちらかというと呪術的で情緒的な紐帯が「クニ」から初期国家へのステップアップに寄与したらしい
北部九州という弥生のトップランナーはなぜか次の時代のトップランナーにはなれず、むしろ田舎くさい畿内の呪術政権の方が次の時代のトップランナーになった
そのへんが国家成立の機微というか、変化の要因を考える上で本当におもしろい >>431
俺は日本人だからそれは認めるよ
でもその後その覇権争いで『大敗』したのが白村江
そして半島からは完全撤退、日本は唐に対して今のアメリカに対する羨望の眼差しと同じものをみせるようになるわけだ 魏史(三国志)が倭国を重要視している背景を考えると邪馬台国が17,000里と遠方の理由が見えてくる。
三国時代に魏呉蜀で争っており不安定だった情勢もあるが、それ以上に魏内部における「魏を建国した曹操の一族」と「後に軍事クーデターにより実権を握り、禅譲により魏から晋を建国した司馬懿の一族」の勢力争いに注目すべきである。
三国志が編纂されたのは晋建国後の西暦260年以降であり、司馬一族が正当に禅譲されたと主張したいという思惑があった。
魏から「親魏〇王」の称号を受けた国は2つあり、以下のようになっている。
229年 曹真 西方 大月氏国 16,370里 親魏大月氏王 10万戸
238年 司馬懿 東方 倭国 17,000里 親魏倭王 7万戸
曹真は西方諸国からの朝貢をうけており一番遠い大月氏国(クシャーナ朝)は首都から洛陽まで16,370里という遠方から来ている超大国であり親魏大月氏王の称号を贈っている(後漢書)。
一方で司馬懿は東方征伐での功績があり、呉と通じていた遼東・楽浪郡帯方郡の公孫淵を討ち東方諸国への道を開いた。
この翌年239年に卑弥呼の朝貢が訪れたのは偶然ではなく司馬懿による要請があったと思われ、
「大月氏国にも負けない規模の大国(7万戸)が大月氏国以上の遠方(17,000里)から訪れた。それは司馬懿による功績である」とする目的があり、後に三国志を編纂する時にも司馬の功績と皇帝としての正当性を表す必要があったのだろう。
〇TIPS
・三国志筆者の陳寿は皇帝曹髦殺害の経緯を隠匿し禅譲の正当化を図るなど晋のために筆を折っているとされる。
・後漢書など他の史書では東夷・北狄・西戎・南蛮の四夷それぞれの伝があるが三国志には東夷伝しか存在しない
西側(大月氏国)の功績は後漢書により確認できるが三国志では抹消されている
・魏志を読むと朝鮮半島北東部の濊については距離についての記述が一切なく、南部の韓(馬韓・辰韓・弁辰)は地域全体の大きさの記述や国名はあるが国々の方角や距離など詳細な部分は書かれておらず曖昧にされている。
また不弥国から邪馬台国までの距離も明記されず水行二十日・水行十日陸行一月と日数換算で首都までの距離を曖昧にした上で、まとめて「帯方郡から首都邪馬台国まで12,000里(∴洛陽から17,000里)」と首都までの距離を提示している。 魏史(三国志)が倭国を重要視している背景を考えると邪馬台国が17,000里と遠方の理由が見えてくる。
三国時代に魏呉蜀で争っており不安定だった情勢もあるが、それ以上に魏内部における「魏を建国した曹操の一族」と「後に軍事クーデターにより実権を握り、禅譲により魏から晋を建国した司馬懿の一族」の勢力争いに注目すべきである。
三国志が編纂されたのは晋建国後の西暦260年以降であり、司馬一族が正当に禅譲されたと主張したいという思惑があった。
魏から「親魏〇王」の称号を受けた国は2つあり、以下のようになっている。
229年 曹真 西方 大月氏国 16,370里 親魏大月氏王 10万戸
238年 司馬懿 東方 倭国 17,000里 親魏倭王 7万戸
曹真は西方諸国からの朝貢をうけており一番遠い大月氏国(クシャーナ朝)は首都から洛陽まで16,370里という遠方から来ている超大国であり親魏大月氏王の称号を贈っている(後漢書)。
一方で司馬懿は東方征伐での功績があり、呉と通じていた遼東・楽浪郡帯方郡の公孫淵を討ち東方諸国への道を開いた。
この翌年239年に卑弥呼の朝貢が訪れたのは偶然ではなく司馬懿による要請があったと思われ、
「大月氏国にも負けない規模の大国(7万戸)が大月氏国以上の遠方(17,000里)から訪れた。それは司馬懿による功績である」とする目的があり、後に三国志を編纂する時にも司馬の功績と皇帝としての正当性を表す必要があったのだろう。
〇TIPS
・三国志筆者の陳寿は皇帝曹髦殺害の経緯を隠匿し禅譲の正当化を図るなど晋のために筆を折っているとされる。
・後漢書など他の史書では東夷・北狄・西戎・南蛮の四夷それぞれの伝があるが三国志には東夷伝しか存在しない
西側(大月氏国)の功績は後漢書により確認できるが三国志では抹消されている
・魏志を読むと朝鮮半島北東部の濊については距離についての記述が一切なく、南部の韓(馬韓・辰韓・弁辰)は地域全体の大きさの記述や国名はあるが国々の方角や距離など詳細な部分は書かれておらず曖昧にされている。
また不弥国から邪馬台国までの距離も明記されず水行二十日・水行十日陸行一月と日数換算で首都までの距離を曖昧にした上で、まとめて「帯方郡から首都邪馬台国まで12,000里(∴洛陽から17,000里)」と首都までの距離を提示している。 >>1
NHKの最新の学術調査とネットのこういうの全く違うんだけどなんで 同年代の中国だとその当時の国や人物が歴史書にしっかり残ってるのにね 考古学の総本山が奈良で邪馬台国九州説の仕掛け人だよ
奈良に決定して論争決着は彼らが一番困る事
何故なら大衆が興味無くしたら予算減るから
>>437
でも魏略の時点で「万二千余里」はあるよね トンキンの学者からしたら本当はトンキンにあって欲しいけど関西にあったら悔しいじゃないですかだから九州って言い張ってる 魏志倭人伝←一冊の本があるように思わせようとしてるけど数行しか無いらしいな 九州から近畿まで支配してたでいいでしょ
歴史なんてコロコロ変わるしあてにならん
年号覚えるだけ無駄日本史とか無くしていいよな >>442
司馬懿の手引きで邪馬台国が曹叡に遣いを送りクシャーナ朝と同規模の国だと主張したのなら特に矛盾はないかと
親魏倭王の称号を出したのはその時点で大国だと認めたからだろうし 九州だって邪馬台国とか卑弥呼で商売してる人がいるんだ
ほっといてやれ >>74
中国は大陸国で陸地の距離や方向はほぼ把握できるけど海上や水路は把握できなかったんだろうな
そのうえ当時の日本は高い山に森林が生い茂ってますます位置情報は掴みにくかった >>431
支配の形にも色々あるからな
長崎の出島みたいな状況だったんじゃね >>148
国が何十個もあって合従連衡しながら戦争してたと記録されてるのに、連続してると考えるほうがよっぽど蓋然性なくない?
普通に考えて何度も覇権移動してるでしょ いや教科書への掲載を真実性のバロメーターにすんのおかしくね? 南に船でこんだけ進んだのだから
パプアニューギニアで良いと思う
イレズミ入れてるし 箸墓古墳から「卑弥呼様江」って書いてある銅鏡がでてくれば全員納得するんだろうにな 途中までは当時の国名がほぼそのままの地名で残ってんのに邪馬台国は地名が残ってないな 弥生時代の三種の神器(剣、鏡、勾玉)
が同じ墓からセットで出土した遺跡
年代順 遺跡名 所在地
1. 吉武高木 福岡市西区・・・弥生初期
2. 三雲南小路 福岡県糸島市
3. 井原 福岡県糸島市
4 須玖岡本 福岡県春日市
5 原の辻 長崎県壱岐市
6. 七ケ瀬 佐賀市大和町・・・弥生末期
7. 平原 福岡県糸島市・・・弥生末期
※三種の神器は弥生末期まで北部九州でしか出土していないので
神武東征は弥生末期以降となる。 ジャップ史は幕末以来、ネトウヨとそれに忖度するアカデミズムによってグチャグチャにされ続けてきてるから
本当のことを言うと発狂するネトウヨを始末しない限り前に進まない 他に有力者がおらずって魏志倭人伝の記述だけだろ
中国と直接取引してなかっただけで他にもおったかもしれんのに 魏志倭人伝には卑弥呼の墓は郭無し棺ありと記載している
郭とは石室の事で、棺は棺桶の事だから卑弥呼の墓は棺に
直接土をかぶせただけの簡素な墓と言うことなので円墳か方墳
の事、前方後円墳は石室があるから箸墓古墳は卑弥呼の墓では無い >>464
想定出来るのは地名変更だろうね
まあ倭人伝素直に読めば大宰府から筑紫平野の範囲だから
明確に漢系名称の大宰府の可能性あるんじゃないかな キングダムから500年後もまだわかってないって日本ヤバイな >>433
出たよバカサヨチョンモメン
朝鮮半島南部が大和朝廷の支配下にあったこと認められないバカサヨw
広開土王碑も日本軍による改竄!とか馬鹿チョン馬鹿サヨの低能さよ 文明の光の届かない蛮地でコソコソやってた連中はどうでもいい
安倍さんの聖都下関が邪馬壹国だよ >>468
>卑弥呼の墓は郭無し棺ありと記載している
それ結構言われてるけど、実際は卑弥呼の墓の言及じゃない
倭国の文化風俗を記述した箇所で卑弥呼の墓の部分の記述じゃない
女王である卑弥呼の墓は普通に郭がある可能性高い 九州説は今更やめられないという結論に至ってるからな
こういうのは利権化しちゃダメだ >>471
現在世界大覇権のアメリカなんて500年前存在すらしてなかったけどな 3世紀のこともよくわからんのに皇紀2600年とか笑っちゃうよな >>475
止められないのは近畿説だろ・・
実際考古学的論拠は九州しかあり得ない 邪馬台国はぶっちゃけどっちでもいい
ハッキリさせるべきは、倭の五王はそれぞれの時代にいた天皇なのか、それともヤマト王権とは別の九州王朝なのか
そっちが重要 邪馬台国九州に誕生
外国の脅威か自然現象か神託か領土拡大かは分からんけど東へ移動
畿内に途中経過場所が残るってだけっしょ 「あり得ない」みたいに出発点を固定して理論化することが既に間違い
子供のケンカじゃないんだからな 魏志倭人伝が邪馬台国の場所特定に役立たないのは子供部屋から世の全てを知る賢者の集団が集うこの板では今更 話すまでもないだろ
方角が間違ってるか距離が間違ってるかあるいは両方 間違ってる >>479
うんだうんだ
どこにあってもヤマト王権に繋がらんならどうでもいい国 関東人は、やたら集団で行動したがるし、
依存体質だしでめちゃくちゃ女々しいよねw
関東人はホント情けない性格だわw 九州説以外ありえない
九州説が一番しっくりくる
九州説を積極的に否定する証拠はない
九州説をはじめから否定して論を進めるな
九州に何らかの勢力があったのは確か
邪馬台国の場所なんかどうでもいい ヤマト王朝については天皇が水サミットだかで水の神の話し交えて大陸からアジア通り日本に伝わった旨スピーチしたってさ
天皇が発言したぐらいだから大陸→九州→本州で王朝は同じなんでない?
平定後に血が混ざったり変わってそうな雰囲気はあるけど 北海道と関東東北は
チョンコの巣
畿内はヤマト民族が住む場所だからな
むかしから日本の歴史は畿内の歴史
まず日本史がどういったもんか分かってない >>487
平定後っていうより西から東に移って行く過程で混血しながら進んだかもな
中国でも周王朝時代の楚、蜀、呉は中原からの流民の受け入れ等もあって黄河文明と長江文明の混血がある程度進みその後秦漢の時代で更に混血が進んだと言われている
ある程度の人の集団が移動すると混血は自然に行われて文明文化の交流も進む >>479
史料がほぼない空白の100年を遺構の考古学調査だけで繋ぐのは難しいだろうけどなあ かつて流行ったヤマト=騎馬民族説は物証がないがDNA 鑑定からすると満州国の方から集団で移住した連中がいたのは確からしい ネトウヨ歴史観で万世一系の天皇家が居るにも係わらず中国に朝貢していた勢力が日本国内それも大和朝廷の直ぐ近くに存在していたんだぜ…
紀元前660年に国が出来たのに紀元後200年にもなってまだそんな勢力が畿内に居たなんてさ…
そんなんで良いの? 奈良なんて大昔からヤマト国なのに馬鹿じゃねえのかと
それに変遷する、いわば「元ヤマト」は九州にきまってるわけで
新井白石の邪馬台(ヤマタイ)読みに洗脳されてるの、ノータリン白痴バカの昭和人だけなんですよ 那珂八幡古墳(福岡市博多区)の立地がね
今でも九州でもっとも繁華な場所
最高権力者としての強大な首長が九州に居たとしたら、この場所に箸墓古墳の縮小レプリカである前方後円墳を作らせるわけがないんだよ 邪馬台国は上層民が入れ墨
大和朝廷は上層民に入れ墨入ってない
別の国だと思う >>470
普通に近畿に邪馬台国があって大和国になったと考える方が自然じゃね 九州に渡来人の王朝があったけど近畿の王朝に滅ぼされた
滅ぼしたついでに渡来人の建国神話をパクった
こんな所だろ >>495
外国との関係強化を築くにあたって上級が刺青してるのはまずいということになったんじゃね >>492
だから一般的にウヨは邪馬台国九州説とか九州王朝説になる しかし纏向遺跡から九州の土器や朝鮮半島の土器が見つかりませんでしたwwwwwwww
畿内に邪馬台国があったわけがないだろwwwwwwww 邪馬台国は
鹿島神宮、香取神宮のある茨城県のタカマガハラ説が面白い
鬼道=古神道=太陽信仰
東へ東へと移動した 当時から日本書紀の作者は邪馬台国が九州にあると思ってたから神武東征神話を作り上げたんだろ
邪馬台国が機内にあると思われてたなら、天皇家は日本列島の始まりから機内にいたことになってただろう >>501
そもそも神武天皇は実在したのかという疑問がある >>492
縄文人は農耕をしてなかったから農耕から発明される暦を持っていないかった。
だから採集狩猟生活の節目である四季の変わり目を年の節目としていた可能性が高い。
つまり今の一年を四年として数えてた時代があることになり、
天皇家と日本人のルーツが縄文文化にあることが確定する。 古墳の年代が一致したからなんだってんだよw
邪馬台国しか日本列島に国がなかったわけでもなかろうに 大阪の芸人が大陸系の顔をしているのが多い理由はやはりこれかな
沖縄とかも顔違うしな 東遷を荒唐無稽な 嘘っぱちとするのは俺は無理があると思ってるわ
大阪に入ろうとして敗北して兄が死に、三重に向かい奈良に入った記述の部分が妙にリアリティあるからな 宗教的民俗学的に宇佐八幡宮がある限り九州説は覆らないよ >>101が指摘しているとおり、大陸側の人たちが弧状列島(倭の主要地域)を見聞するための列島側の玄関口に那珂八幡古墳は立地している
だから那珂八幡古墳を作った首長が属していたヒエラルキーは、三国志の原資料を作った人にとって
=倭の当時のヒエラルキーとしてまず最初に知ることになる権力
ということになる。これを無視して別の権力と“だけ”接するなんてことは不可能なわけ 中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方でつくられたものらしい。(呉の領域)
鍍金鏡(トキンキョウ)は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。←九州で出土 このスレでもそうだが古代日本語やシナ語の発音とかの言及がまったくない
相変わらず何十年も前の話をループしている
文献史学考古学以外に神話、言語、生物学などの知識がなけりゃ土俵に上がる価値なし お笑い同人誌に過ぎない日本書紀に拘泥するネトウヨが全ての元凶 金印やら中国でも貴重という金メッキ鏡3枚が九州で出てる時点でなぁ
畿内説だと大事な印鑑と鏡をうっかり近畿から九州に謎移動して紛失した事になるのか? >>510
それは近代に大日本帝国領域の某方面から
東洋一の工業都市大阪へ大量の出稼ぎが来たからでは >>516
古代中国語に言及するなら発音はヤマトで確定してる
あとわざわざシナとか使ってるとお里が知れるぞ 古代の日本人は中国語が読めなかったので漢籍に和語を当てはめて読んだ
これが訓読みなのだが
そのとき目印になる記号をつける方法を半島人が教えてくれた
これがカタカナの起源だ
つまりカタカナの起源は朝鮮 >>522
お里もなにも中国にはモンゴルウイグルチベット満州その他の多数の言語があるから
中国のいわゆる漢民族の言葉をいうのはシナ語になるだろ >>487
混ざるも何も当時の半島弥生人・列島弥生人と
現代日本人・朝鮮人のゲノム構成で今もほぼ変わらん >>506
近畿への農耕の伝播とヤマト王権伸長ではあまりに時代が違い過ぎる
>>522
上古音は確定していない
適当ぶっこかないように そういや卑弥呼のみこって巫女なの?
対外的な元首まで女王って珍しい感じするね、宗教政権だったにしても名目トップだったとしても どうせ皇紀2600年を作り話と断定する勇気はないんだろ?
それをしない限りその辺りの歴史を研究しても意味ないんだよ 博識モメン教えて
なんで邪馬台国とか昔の国は中国に朝貢してたんや?
それ以前に中国に攻められたことあったんか? >>384
岡山の温羅(渡来系)が山城で吉備津彦と戦ったと言う記述あるけど、行橋勢力も大和政権と戦ったのでは?当時教育は大和政権だった訳だし >>529
倭国大乱で、難民が海渡って辰韓(のち新羅の領域)に逃れてきたりもする時代を経てのことだからね
記述にあるとおり当時の倭人自身にとっても異例のことだったが、おそらくアニミズム的な祭政重複体における過去の嘉例として現地民に記憶されていたんだろうと思う
つまり、危機的な状況において女性(巫)が先頭に立ったという説話があったんだろう
のち飛鳥朝に至っても、巫(女性)が戦陣においては担がれて望(見る呪詛)などの呪詛や呪詛返しを担っている >>504
そもそも、卑弥呼って日本書紀でいうだれだよって話だよな。
倭国大乱→卑弥呼擁立で乱が収まる→女王国として安定→女王亡くなりまた大乱→女王の姪を擁立して安定
この流れ、どこにあってだれがやってんのよっていう。
まあ体面があるから、朝貢してたとか親魏倭王の金印もらったとか、
女王の姪が晋に使い出してたとかまあそう言うところはカットするとしても。
女がそんな偉大な存在なのは許さんから歴史から抹消したった!みたいな話かね? >>529
日巫女=アマテラス=宇佐八幡宮の主神姫大神
卑弥呼の時代に2度九州で皆既日蝕が合ったのは古代天文学で証明されてる 関西は嫌いだが皇国史観は絶対守らねばならないネトウヨが
フリーズする >>533
朝鮮から「あいつらエグいから取り敢えず取り入っとけ」という教えをされてたとか、
朝鮮にいて当時の中国にえらいめにあわされたたやつの子孫が日本に来て支配したからとか? よほど決定的な証拠でも出ない限り一生決着つかないよねたぶん 日本語と韓国朝鮮語の文法はほとんど一緒だから、大和の支配層は半島系なのは明らか
蘇我や平家も渡来人らしいし、行基の両親は百済人
なんだけど、半島と比べて日本語が母音子音の数が非常に少ないのがわからん
井上ひさしによれば昔はヤ行音など今より音数が多かったらしいが
半島南部に音数の少ない朝鮮語を話す集団でもいたのかと >>533
中華にささやかな貢物を持って行くと何十倍もの下賜物を朝貢国に与えられた
戦争が弱くプライドが高い中国人が考え出した安全保障政策 >>540
親魏倭王印って、当時の中国のやり方だと日本には存在しないことになるんだっけ。
卑弥呼が魏から金印もらったとして、卑弥呼は亡くなり魏も晋になり
イヨだかトヨだかまあ卑弥呼の後継者が晋に挨拶に使いをだしたってことは、
その時点で金印は返還して新たに晋からなにがしの印をもらう、
みたいな流れになるのが通常と聞いた。 >>533
古代中国が日本列島を攻めたという歴史はないが
お返しが美味しいからだろな
「これ、うちで取れたどんぐりとケンモメン(奴婢)です」「ほんじゃお返しに色々やるわ」という流れ
武以降の時代なら日本と朝鮮半島を支配する権威を欲しがって だろうけど >>541
後に日琉祖語となるO1b2の弥生語と朝鮮語で同系統ってだけ
2300〜3000年前入植の弥生人と1700年前に伸長したヤマト王権じゃ
時代が違い過ぎてヤマト王権=朝鮮系の証左にはならない どこでもいいよこんなの
邪馬台国とかなんかホルホルできる要素があるから定期的に騒いでんのか? >半島南部に音数の少ない朝鮮語を話す集団でもいたのかと
朝鮮語ではなくO1b2の言語でしょう
先弥生人の源郷は遼河近辺と目され半島居住してたのは確定してる
当時の半島南部と北九州北部が同系統の集団でも何も不思議ではない >>547
どうでもよくない
邪馬台国の真実は歴史の浪漫 >>465
三種の神器も重要なアイテムだし、卑弥呼の墓が前方後円墳か否かは重要なのはわかる
あと、邪馬台国連合が畿内含めた大国であるか、福岡周辺だけの小国かと言う点も重要
キミは福岡周辺だけと言いたいのだろうが、そうとすると、神籠石とかは大和政権からの守りである事になるのかね? >>542
いつから中国と日本の接触てあったんや?
秦の始皇帝時代の不老長寿の薬求めて日本に来た徐福ってのは実は日本には来てなかったみたいやがいつなんや?
その最初の接触から朝貢始めるまでの間に何かがあったと思うんやが >>542
あいつら受けた屈辱を100年単位で覚えてて国力付けて返してくるからな…
劉邦がやらかして属国扱いされる屈辱から100年後にやり返しとかだっけ? >>536
埼玉稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣により軍事英雄としての実在が示唆される大彦その甥王とされるのが「御間城入彦五十瓊殖天皇」
実名かはさておき、「五十」に注目してほしい
3世紀の当時というのは、おおきな数字はそれを用いること自体が才能~呪能と結びついていたのではないかな。当時の倭人のあいだでは
ここまで考えていくと、やはり目立つのは「倭迹迹日百襲姫命」に含まれる数字の大きさだよね
迹迹日の解釈は他にもあるけれど、数字優先で考えると10×10なのかもしれない
そのうえさらに百
要するに、とんでもなく大きな数字を名前に織り込んでいるようにも見える
大王の「五十」と比較にならないくらい >>549
邪馬台=八幡説結構好きだな
元は正体不明の神・八幡
ヤハタ=八つの旗=大和言葉で連合国の意
ヤマタノオロチの尻尾から剣=征服と鉄器文化獲得の象徴 そもそも弥生時代に北部九州の住民と近畿の住民は
異民族だから同じ国では無い、弥生末期に北部九州にあった
邪馬台国連合勢力が畿内の異民族を征服したと言う事 >>552
史書では朝貢して金印を得た奴国からだね 活動時期とお墓の時代が被ったらダメじゃん
お墓にいるときは死んでるんだから そもそも4世紀に九州征服が記紀に記されてるんだから
邪馬台国北九州説は記紀とは何も一切矛盾はしていない >>519
2世紀までは福岡が倭の首都だったから後漢の金印があるだけの事 なんの根拠もないけど
九州北部のいくつかある連合国家の長でしょ
そうとしか考えられない ・金印が現在の皇室に伝わってない、形跡も無い
・記紀には卑弥呼の記述・伝承も無い、倭人伝の引用だけ
・記紀では4世紀の北九州征服がはっきり記されている
・記紀では征服された北九州では土蜘蛛の女王が乱立していたと記される
どう考えても邪馬台国は北九州、卑弥呼の死後100年後には分裂崩壊
みんなもっと記紀を信じようよ 一豪族でしかない邪馬台国を
伝聞で聞いただけの魏の官僚が勝手に過大評価しただけだろ
遠くの大国からも貢ぎ物があったとした方が
国の箔がつくからな
だから魏志倭人伝以外に
邪馬台国や卑弥呼の記述が見つからない >>567
箔というか三国当時の政治状況が絡んでるね
倭の朝貢を可能にした公孫氏を降した司馬懿の功績喧伝、呉への牽制 >>565
「知ってる話を全部書いてみた。整合性?神代にはいろいろ不思議なことが起きるんだよ」というノリの本に記述がないのは重要な点だよね 100余国が争う倭国大乱の中で生まれた九州北部の小国連合だったけど狗奴国に滅ぼされ速攻で消えたとかじゃねーの
後に遣いを送った全く別の国が手続き簡略化のために同じ国ってことにしただけで
足利義満が日本国王良懐の代理として手続きやってたのもあるように昔の文献にある国を継承してるってことにした方が話がスムーズだろうし >>562
印鑑だけじゃなく上に書いたけど三国志時代の中国でも珍しいとされている金メッキ鏡が九州で出土してる確か鹿児島
魏志倭人伝と時代も合う 誰かおしえて
天皇が紀元前660からいる
卑弥呼ってのはその天皇を差し置いて魏とやり取りしてたの?
戦国時代の天下人みたいな位置づけだったのだろうか?
それとも魏と交易があった数々のヤマトの中の一国(地方)の代表だったの? 日本列島に色々と部族があってその一つが邪馬台国ってことじゃないかな
奄美は最初は琉球に属してなかったし、奄美群島の中でも地域ごとに別々の方言・生活してたというのがあるけど、そんな感じじゃなかったのかな >>533
当時は朝鮮半島北部までが中華の領域だったから半島人も倭人も相当慎重になってたっぽい >>575
卑弥呼は元々居た
天皇は渡来人で吸収合併しながら東へ進んだと考えてる
間違ってたらすまんがまぁ歴史ロマンだし楽しんだもん勝ち >>563
博多の那珂八幡古墳に納められていた舶来の三角縁画文帯五神四獣鏡は備前車塚古墳や椿井大塚山古墳から出土したものと同じ鋳型で、中国三国時代の鋳造品がこれらで共通してみられ、円筒埴輪が流行するより前か遅くともその最初期あたりの造営、という共通点もある
この墓が作られた時期には畿内の首長層と葬送の形式まで共通させるような緊密な関係があったことは明白なんだよ >>570
自分で言ってるじゃん、何故神代と人代が分けられてるか考えよう
勿論人代だからと記紀の記述が全て正しい等と言う気は無い >>575
天下人ではない、戦ってる国があるとはっきり書かれてるから
上で別の人が書いてる通り呉を牽制するために 誇張して 国力を書いていると考えるのが妥当
天下人 みたいな位置付けしてる人(倭王武)はしばらく経ってから出てくる
卑弥呼の死後の話から倭王武の間の日本に関する記述がないんだよね
だから色々と妄想すると楽しいことになってる >>572
そういうことな
何も難しく考える必要無いんだよな、史書にもちゃんと書いてあるし >>494
墓制の採用が支配の証って当たり前のように語られてるけど本当なの?
横穴式石室は高句麗辺りから古墳時代中期に九州に伝わって後期には近畿でも採用されたけど
これは高句麗に九州が支配されて後に近畿も支配されたってことになるの? >>573
日田からも凄い鏡出てるんだよな確か
>>575
皇紀は神話の記述から編み出したものなんで
そのまま信じるのは学術的に論外
宗教的には知らんし馬鹿にするのは良い事ではないが 日本に強い巨大統一王朝があったっていう妄想が混じらせる勢力がいるからいつまでたっても結論でないよなこれ >>584
九州は高句麗に支配されてないけど
前方後円墳はヤマト王権拡大の証拠という事になっている 数日前に富雄にある富雄丸山古墳ってとこから色々な物が出土してニュースになった
その中に女性のミイラがあって、そのミイラには「卑弥呼」って名札が付いてた >>587
考古学的にも史学的にもヤマト王権の伸長は4世紀だと確定してるのにね んでも、当時の地形しだいでは他の場所も可能性あるのかね?
まだ発見すらされてない状態でさ。 研究費目的と町興しでずっとプロレス続けるだろうな
個人的には時代も合う中国の専門家が確認した鏡出てる時点で邪馬台国は九州だと思うけどね >>579、582、585
サンキュー
いや、みんなすげーよ
中学の時に三国志が流行ったけど、桃園の誓いで読むの止めた位だから
トンデモ論にやられないように気をつけます 朝貢って鉄器とか文字とか暦とか有用なもの貰えるし支配されず冊封してもらえるからリターンの方が大きいんで基本やり得 秦でもBC221〜だから、倭人伝と三国志にしか記述がないってことは、中華王朝にとっては取るに足らない存在だったんだろうな
大型船の技術がもっと早く発達してたら我々はいなかったかも知れないがw 畿内にも大きな勢力が居た
ただそれだけのことじゃん
なんでそれがヒミコなんだよ阿呆チャウ 実際アカデミックの場では九州説なんていないらしいね
昔テレビで畿内説vs九州説っての見た時、畿内説の学者が
「日本で考古学に携わる人は5000人ほどいる中で本気で九州説を信じてる学者は片手で数えるくらい」
と言っていた
言われた九州説の学者は反論するでもなく苦笑いしてた >>597
そりゃあ畿内説がそんな事言ったら苦笑いするしかないでしょうw で、その九州説の学者は
大学時代に教授から畿内説と九州説に分かれて討論しろと言われたが、
九州説が誰もいなくて教授から
「お前九州説やれ」と言われて嫌々始めてライフワークになったと言ってた
もう10年くらい前の番組だけどそれまで畿内説と九州説で五分五分の闘いしてるもんだと思ってたからずっこけたよ >>584
逆にさ、時代が下って筑紫君磐井はヤマトと競争的な権威であることを誇示するために石の人馬で自分の陵を際立たせた、とされる。現に石人石馬石盾はおもに九州地方で明白に土器埴輪の置き換えとして流行していたことがわかってる
しかし、ヤマト王権のワカタケルに忠実な吏僚であったことを誇示する内容の銀象嵌銘大刀の出た熊本の江田船山古墳でも石人が用いられている
これは、石人がかならずしもヤマトへの反対を示すものではなかったことを示している
それでも地域の主体性を強く感じさせるものだったから岩井の反乱記述において石人石盾が強調されているのだろうし、強い憎しみによるとみられる石像への破壊行為も認められる
この流れって、九州説と畿内説をイデオロギー的な桎梏として後付けで聖なる怒りを表明する行為と似てない?
昔の人にもそういう心の動きはあったんだろうね >>599
五分五分じゃないって、今時本気で纏向主張してる人は居ないぞ >>546
その弥生とヤマト王権を埋める時代にさらに半島からの渡来人が加わってるから
それでいっそう近づいたわけだが >>603
私は今のとこ古墳人説は支持しない
古墳人O2は弥生人O1b2入植時に既に交雑していたと考えている ちなみに縄文人はD系統(アイヌの直の祖先)、
先弥生人はO1b2の遼河系統で弥生語の系統(現代日本人の基層祖先)
古墳人はO2は黄河系統で漢民族の分派(現代日本人ゲノムの大半)ね >>604
なるほど
言語でいうと弥生時代の倭人到来によってほぼ古代日本語ができたとして
古墳時代はそういう変化がそこまでないっぽいから
古墳時代に到来した渡来人も倭系言語に近いものだったからなのか >>607
史書に拠れば東夷の言語・風俗は粛慎・挹婁以外は似通ってるとある
高句麗・百済・新羅・倭は元はO1b2基層の同系統と考えるのが自然だね
粛慎・挹婁の末裔満州人は基層がC2だけど高句麗などを
支配・吸収した歴史があるためO1b2もそれなりに観測される 半島南西部では倭語系統が話されてたんじゃね
そりゃ入植して時間も経ってるしそれぞれの地域ごとの方言になってただろうけど、
本格的な通訳は要らなかったんじゃね?
ちょっと覚えれば話せるよ、ぐらいの 古事記
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
偽りを削り
偽りを削り
偽りを削り
歴史改竄が行われてそう
古事記のその前の部分
朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたらす帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。
前の歴史書(帝紀、本辞)には事実と違うことや多くの虚偽があった、とある
これが消したい歴史だったんだろうね >>609
弥生人が半島から入植したのは確定事項だし
その前は遼河近辺・遼東半島居住してたのも極めて強く推察されているね
半島南部で倭語はもはや常識だね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E5%80%AD%E8%AA%9E 新羅系統はどうだろ?
元は半島北東部というか半島の付け根の東側辺りから始まった国なんしょ?
>>458
覇権が移動してる?
ヤマト王権の祭祀文化は北部九州のものだぞ >>610
焚書は公然ではあるけどそれをもって記紀が間違いだという予断は良くない
やはり基本は考古学、そして今は分子生物学だね
史学・民俗学は裏付ける程度が健全かな >>582
中国の研究者が魏志倭人伝に数字を10倍に誇張してる部分があるとか指摘してたな
当時の中国では数字を5倍10倍とかに誇張する文化があったとかで
そもそも15万?とかの規模って纒向遺跡の推定人口の倍の数字だし、纒向遺跡ですら人口合わないんだよね
10分の1なら九州の都市でも全然余裕で合うし、10分の1規模の古墳ならある
一番ありえない説が邪馬台国大和朝廷非連続説ね。神功皇后が邪馬台国を滅ぼしたとかいうやつ。酷すぎるw >>7
奴国、もしくは委奴国の金印だから、九州で見つかるのはおかしくない
その辺の農夫が見つけたのはクソ怪しいけど
>>573
鍍金鏡が出土した一貴山銚子塚古墳(糸島)は前方後円墳だろ...? >>616
神功皇后の時代には邪馬台国はとっくに滅びて
女王が乱立してたと記紀に記されてるのにな >>611
どうだろ?
俺は
→朝鮮半島南西部
故地 →済州島
→五島列島、九州北西部
説に魅力を感じるけど >>616
倭の五王と卑弥呼の関係すら分からんのに繋がってるとは誰も言えないだろ
>>621
確実に繋がってるぞ
邪馬台国が畿内にあろうとも九州にあろうとも連続しているのはほぼ確定 >>610
どっちかというと例えば日本書紀の武烈の暴虐記事が古事記に皆無なわけで
こういう「おはなし」が日本書紀の元になった帝紀旧辞にもたくさんあったっていうことじゃないかね >>620
その説も滅茶苦茶面白いね
ただいかんせん遺るものが現状少な過ぎる・・浪漫はあるけどね >>622
論拠は?
だとすれば金印が伝わらず、記紀にも記されていないのは何故?
>>625
何いってんだこいつ。そもそも記紀なんて第一回遣隋使(600CE)のことすら記載してないだろ? >>623
焚書と言うと悪いイメージ持たれがちだけど
「我々は秦の始皇帝の末裔!」とか適当フカシ書かれてたら
そりゃ焚書するしかないよなあ >>626
いや、いいから「確実に繋がってる」と断言出来る論拠は?
>>628
繋がっていない蓋然性が極めて低い
北部九州で長期保有されていた威信財が弥生時代終末期に一斉に畿内に持ち寄られている。
これは玄界灘からの移動だから邪馬台国どころか漢委奴国王時代から連続性がある 卑弥呼が貰った金印は中国に返してる可能性が高い
王の代替りとか王朝の変遷の際には中国に返却して、代わりに新しい印鑑を貰うのがシステム上正しいやり方だから
おそらく登与が晋に朝貢した際に、親魏倭王印は返して、新しいのをもらったはず
志賀島の金印は借りパク >>612
「万世一系」などというものは、ある意味では誰だってそうなんだけど、別の観点からすれば誰であろうとありえないわね
のちのち新羅の民となった人たちが単一の部族集団ではなかったらしいことは
首長(王)統の非単一性が説話に強く刻まれていることからも推察できるし、中国人や倭人が首長統や宰相の家門に入り込んでいることからもやはり言える
個人的に興味深いのは、嬴姓の秦の始祖説話が卵生説話で、嬴姓自体もそうであるようにこれは夷(東方諸族)の説話であること
そして倭の歴史に大きく関わることになる秦氏(新羅由来)がその秦の子孫を自称したこと。新羅の波旦が出自なのと、その人々が秦人の子孫であることは、かならずしも矛盾しない >>600
江田船山古墳の近くには景行天皇の九州征伐で討たれた土蜘蛛津頬の伝説がある(あくまで伝説だが)ので
その後に派遣された役人的人物が古墳の主であると考えることはできるね
近くで墓碑が見つかっている日置氏(奈良時代頃まで周囲を治めてた)は近くの小岱山を拠点に製鉄で栄え同時に巨石信仰もしていたようなので古墳の主も日置氏の祖先かもしれないね
加えて八女周辺の磐井らの地域の古墳には江田船山古墳周辺から採れた阿蘇凝灰岩が使われているので水運を通して江田と八女は強い繋がりがあったぽいよ
ちなみにお前の大好きな記紀を参照すると、仲哀天皇は奴国に無血入場して宮を造営している。戦闘は一切無い。
元から友好関係だったってことだろ?
>>630
文化伝搬で自分(北部九州)の持ってる大事な銅鏡を殆ど畿内に渡すのか?
それこそご都合主義なんだよな 素人の感覚ではあるけど新羅の王名は妙に沖縄っぽいんだよね
つまりは日琉祖語の系統 この前吉野ヶ里遺跡行ったけど、邪馬台国は九州って前提で資料館つくってたわ
>>637
はぁ?古墳時代初頭(3世紀中頃)に大和が九州を征服したのか?
神功皇后は4世紀だぞ? >>636
授業で言語学の教授が「沖縄の【首里】と新羅の【シルラ】の語源は多分同じ」っていうてたわ
都市って意味らしい
答えは二つに絞られる。
①玄界灘勢力と大和朝廷が同盟関係にあった
②玄界灘勢力が「東遷」先の纒向に自身で保管していた鏡を一斉供与した >>639
そりゃご当地はそうだろうよ
当時の人口推計から考えて魏志倭人伝の伝える15万戸が北九州に集中してたとか、どう考えても無理だけどね
>>641
記紀に奴国王が降伏する様子は書かれてないけど
お前記紀を重視するんじゃなかったの? >>640
ならば古墳時代初頭とされる遺物の年代が間違っている可能性は? じゃあ邪馬台国に駐在してた魏の張政は何をしてたの? ご当地の主張は話半分で聞いておいた方がいい
大宰府も「邪馬台国は大宰府な!翰苑に書いてあるから!」と主張している
>>646
何を言ってるんだ?
神功皇后の時代は神功皇后陵から布留3式期で確定でしょ。
大和に威信財が殺到するのは庄内式期末~布留0以降と考えられているが、暦年代与えなくても時代は違うことわかりきってるじゃん >>638
そういやXでの邪馬台国界隈で有力なのが
倭国は北九州の後で吉備・瀬戸内勢力が覇権をとるも
内紛が起きて(倭国大乱)その結果畿内勢力の支持を得た卑弥呼が即位したという話
卑弥呼は岡山人なわけだ >>645
記紀の全てが正しいと言う気は無いとも言ってますが
ストローマンやめてくださいませんか
あと良かったら記紀の該当記述抜き出してもらえます?
wikiソースのコピペでもいいです
神功皇后(実在するかわからんけど)の時代って古墳時代中期だよ
こんなん常識だろ 新羅はまとまった国になったのって4-5世紀頃でそれまではたくさんある小国の1つでしかないからなあ
それいうと倭人の国も同じようにたくさんの小国ではあるんだが
>>654
佐紀陵山古墳群の中にある
この古墳群が築造され始めるのは布留2式以降
古墳時代初頭は布留0式。めっちゃ時代離れてる >>656
そこが神功皇后の陵墓であるという証左は無いですよね?
ちょっとビックリしました
こういう馬鹿、知識が足りないから質問攻めでどうにかなると思ってんだよな
考古資料的には東遷を想定するしかないんだよ。重要なのは東遷の時期。
東遷が邪馬台国以前なら畿内説だし、邪馬台国以後なら九州説。それ以外は単なる願望 魏志倭人伝の戸数
対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国合わせて約3万戸
投馬国は5万戸
邪馬台国は7万戸
これをそれぞれ、北九州3万戸、中国地方5万戸、近畿地方7万戸と考えれば
当時の人口推計とも、各地域の人口比としても不自然ではない 箸墓は卑弥呼の墓じゃあないな
なぜなら魏志倭人伝に埴輪の話が載ってない 埴輪はけっこう目立つはずだ >>659
そして、大陸の最新文明が手に入る九州が畿内の邪馬台国に負けたのも国力の差と考えれば合点が行く
>>657
別に古墳治定を否定しても構わんが、神功皇后が古墳時代中期初頭の人物であることは確実だぞ
神功後継の応神天皇が宮を河内に移すわけだが、これが須恵器の時代なわけで。その直前となると布留3式期になる >>658
いや、そういうの良いんでしっかりレスを交わして下さい
3世紀中頃に北部九州から近畿に移動した威信財ってなんですか?
状況を踏まえれば卑弥呼の死後に弱体化した北部九州政権から
後に列島を支配する新興近畿王権への朝貢的な伝播とは考えられませんか?
>>657
これ見て勉強するといい
TG231てのが初期須恵器だ。応神天皇の時代に倭は半島と濃厚に接触して(傍証:広開土王碑)半島南部系の陶質土器から派生した「須恵器」を作り出す。これは古墳時代中期といわゆる「河内王権」時代の幕開け
https://i.imgur.com/X4sSEzU.jpg
>>664
>3世紀中頃に北部九州から近畿に移動した威信財ってなんですか?
漢鏡四~六期鏡
>状況を踏まえれば卑弥呼の死後に弱体化した北部九州政権から
後に列島を支配する新興近畿王権への朝貢的な伝播とは考えられませんか?
北部九州勢力が弱体化したことは一度もない >>633
日置部(ひおきべ)公の銅板墓誌か
https://i.imgur.com/ItLFmkR.jpg
高野や高市といった「髙」字は高麗系の人々の居留地によく用いられるね
奈良の高市郡も檜隈(ひのくま)を中心に在地のほとんどが渡来人の子孫だったことが記録されている >>662 >>665
そもそも私も神功皇后4世紀と考えてるし話がズレてきてるので
治定にケチつけるのはやめておきます
>>664と、あと仲哀天皇の記述提示してもらえないでしょうか
原文コピペでいいですよ
北部九州勢力が弱体化~とか言っちゃうのがもう馬鹿丸出しなんだよな
古墳時代前期になっても対外交渉の主役を握ってるのは依然として玄界灘勢力(西新町遺跡を中心とした後期博多湾貿易段階)だし、鉄鍛冶も博多遺跡が日本一。
弱体化とか一切してねえってw
>>669
>又筑紫伊覩縣主祖五十迹手、
聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、
上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、
參迎于穴門引嶋而獻之、因以奏言
「臣敢所以獻是物者、
天皇、如八尺瓊之勾以曲妙御宇、
且如白銅鏡以分明看行山川海原、
乃提是十握劒平天下矣。」
天皇卽美五十迹手、曰「伊蘇志。」
故、時人號五十迹手之本土曰伊蘇國、今謂伊覩者訛也。
己亥、到儺縣、因以居橿日宮。
あと「北部九州勢力」って呼ぶのやめろ
当時の筑前と筑後じゃ文化から技術水準まで天地の差があるから。 >>666
北部九州政権は明白に弱体化しています、弱体化しっぱなしです
奴国朝貢の時代より奴国を従えた邪馬台国時代の貢物はショボくなってます
倭国大乱を挟んでるから当然でしょう
そして記紀によれば4世紀ヤマト王権征服時には土蜘蛛女王が乱立しています
壹与の時代から程なく邪馬台国は滅びたのでしょう
>>674
>土蜘蛛女王が乱立しています
それ後進地域の筑後とか豊国の話じゃん
アホか?なんで奴国(筑前)とごっちゃにしてんだよ もう卑弥呼の時代には海を越えて遺伝子の交雑はすでにほとんどの人で起こってるんだから数万人の規模で人が行き来してるのは彰か。 >>673
北部北九州勢力とはすなわち主に奴国とその周辺国を指します
1世紀に金印を授けられた奴国、そして奴国を従えたと考えられる
邪馬台国の事を指すのは言うまでも無いでしょう そもそも九州から古墳時代飛鳥時代に奈良に首都が移るかって思うよな
最初から奈良が中心に決まってますやん🥹
>>677
>奴国を従えたと考えられる
邪馬台国の事を指すのは言うまでも無いでしょう
奴国を従えられる勢力なんて当時の日本列島には存在しないぞ...お前マジでバカなんだな
>>681
時代が変わっても対外交易掌握していたのは奴国なんだから、奴国の話ししてもらわないと困る。 石棺の中空っぽだったときは爆笑したわ九州説さんwwwww
むしろ奴国の国力が絶頂に達するのが倭国乱後なんだよな?バカだから比恵那珂遺跡群知らんのだろうけど、あれは日本列島で最初の計画都市だぞ。
纒向遺跡なんかより遥かに優れてる。奴国は威信財(小型仿製鏡)供給者としての権威を保ってるし
>>684
お前文盲なんだな
それともイトデが伊都国の人物だってこと知らない?いつ奴国の首長が降伏したんだ? >>680
倭人伝に記された邪馬台国当時、奴国は女王国の属国ですよ
>>687
はぁ。。。お前卑弥呼が「共立」されたってとこ読んでないの?
奴国も共立に参加してたってだけだろアホか。なんでそれが属国になるんだよ 個人的な妄想でしかないんだけど、
百済末期の将軍として名高い「階伯」って、倭でいう佐伯(土蜘蛛と類義)のことだったのかもなあって思ってる >>683
あったなwwwwww
九州土人さんの儚い願望、見事に粉砕www🥹 >>686
いや、だからどう見ても威信財差し出して降伏してますよね?
私にはそう見えるんですが・・いや、私はそれほど漢文に熟達してないんで
あまり自身が無いのでお聞きしますが、貴方は一体どう訳してるんですか?
万世一系主張してると思ってる知恵遅れガイジがいるけど、男系世襲成立は欽明期(6世紀半ば)以降ってのが常識だろ
当然それを前提に議論してるんだよ >>688
>到伊都國,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。
邪馬台国に至るまでの国は皆女王国に属してるようですが・・
>>691
は?俺の書き込み読んでないの?
645 安倍晋三🏺 (ワッチョイW 9344-DxBP) 2024/03/19(火) 12:37:40.20 ID:OXWCY7yO0 BE:237216734-2BP(1000)
>>641
記紀に奴国王が降伏する様子は書かれてないけど
お前記紀を重視するんじゃなかったの?
>>693
「皆、女王国に統属す」の「皆」は、伊都国の世襲的な王のことと解釈する説が一般的。まあ各国の王全てが女王国に統属していた旨の説明だという指摘もあるけどね(参考:佐伯有清「魏志倭人伝を読む 上 p.63」)
定説がない記述を根拠に出来ると思ってるバカは黙ってろよ >>659
文字もないのにそんな管理てきるわけねえだろ
明らかにフカシなものを信じてどうする
おいどうしたクソガイジ
奴国の権威が絶頂に達するのは倭国乱後だぞ
バカのくせに知ったかぶりしてんじゃねえよ >>694
ひょっとして伊都と奴国は違うと言ってます?
>>699
違うぞ
立岩式甕棺の時代から別々の王墓(伊都国:三雲南小路墳丘墓・奴国:須玖岡本遺跡大石下D地点甕棺墓)が並立していてそれぞれ独立した国だぞ
ちなみに立岩式甕棺の盛行した時代は前1世紀第2四半期~前1世紀第3四半期な ネトウヨファンタジーの神代文字でなんか証拠になりそうな事書いてればよかったのにね笑 >>696
そこは邪馬台国の道程での各国は皆女王国に属してると読むのが定説で
属してるのは伊都だけというのは非常にピーキーな説ですね
ついでに言えば伊都国がぞれぞれのクニを監察してると考えられています >>701
?
実質的に北部九州は降伏してますよね?? 朝鮮人だってバレると恥ずかしいから近畿説と九州説を流布して誤魔化したんだろ
>>704
>各国は皆女王国に属してると読むのが定説で
いや魏志倭人伝の読み方に「定説」なんてねえから...そんなもんあったら邪馬台国論争なんてとっくの昔に終わってるだろうが。嘘ばっか吹聴すんのやめとけよ
>>705
当時の北部九州の雄は奴国であって伊都国ではないぞ
最初から俺はそう書いてるだろ。話を逸し続けるのをやめろ
>>699
ひょっとして伊都と奴国は同じと言ってます?
同じ根拠は?考古学的に示せる? >>704
のちの筑紫太宰(筑紫総領)や大宰府帥に実際の位置も立ち位置も似てるよね そもそも日本書紀に魏志倭人伝の邪馬台国は大和国のことだと書かれてるし、江戸時代中頃まではそれが常識だったらしいな >>707
定説はありますよ
一般的には邪馬台国までの道程は奴国辺りまで概ね正しいと考えられ
その道程の各クニは女王国に属してると考えられています
なぜなら倭人伝を素直に読めばそう書いてあるからです
>>708
>己亥、到儺縣、因以居橿日宮
いや、直後に何事もなく奴国に入ってますよね?
奴国王何やってたんですかね? あのさぁ
この間神社で見つかったんだが?
ニュースとか見てないの?
ほんま畿内説はアホすぎて草
>>713
>一般的には邪馬台国までの道程は奴国辺りまで概ね正しいと考えられ
その道程の各クニは女王国に属してると考えられています
そもそも「属す」=「従属国」ですら無いんだがアホかな >>709
貴方が出しましたよね?>>671
岡と伊都の県主の祖が降伏して直後に
奴国入りして宮を建てたと書いてあるように思えるんですが・・
貴方はどう訳してるんですか?
>ついでに言えば伊都国がぞれぞれのクニを監察してると考えられています
これも「お前が考えてる」だけだろ...
むしろこれに関しては、一大率を置いてるのは女王国とされていた伊都国ではないんだから、監察主体も女王国と考えるのが適切だと思うぞ
されていた→されていて >>715
そこは素直に読めば従属してると読むんですよ
貴方はどう訳してるんですか?? 倭がおそらくワ(わたし・われわれ)であるように、ナは「あなた・なんじら」の語感がすくなくとも交じってたと思うんだよね。地名として用いていたにしても
それはさておくとしても、奴国と伊都国との力関係とヤマト王権との距離感が変遷していったダイナミクスは感じるね
>>716
話を逸らすな
奴国の王は降伏していない >>717
いいえ、一般的にはそう考える説も多くあります
私はその説は強く支持してないですけどネ
>>719
「素直に読む」ことが出来たら邪馬台国論争はとっくに終結してるぞ
読み方に定説が無いから混乱してるんだよ >>721
ではこの時奴国の王は何やってたんですか?
東から来た部外者が勝手に宮建ててますよ?
>>724
だから部外者じゃないんだろ
畿内王権の祭祀葬送文化って奴国由来のものだらけだし >>723
読み方に定説はあります
そこは一般的な漢文の読みに素直に従って「従属している」と読みます
貴方はどう読んでるんですか?
これ何度も聞いてますけどなんで答えてくれないんですか?
お前は俺の話を聞いてなかったのか?
奴国と纒向(大和王権)は弥生時代終末期から蜜月の関係にあるんだよ。例えば奴国は畿内甕受容して前方後円墳作ってるし、纒向には奴国から鍛冶技術(かまぼこ型羽口)が移転されて半島系技術者(鍛冶遺構付近から瓦質土器)まで差配されてる。
どこが部外者なんだか。元から友好関係じゃねえか >>726
部外者ですよ?
直近の伊都や岡が威信財全部差し出して全面降伏してますよ?
貴方が提示した原文ですよ??
>>727
何度も書くけどそもそもその箇所は
─
「皆、女王国に統属す」の「皆」は、伊都国の世襲的な王のことと解釈する説が一般的。まあ各国の王全てが女王国に統属していた旨の説明だという指摘もあるけどね(参考:佐伯有清「魏志倭人伝を読む 上 p.63」)
─
定説がない記述だから >>728
話反らさないでちゃんと答えて下さい、私の読みに文句あるなら
貴方の読み方を教えて下さい
ちゃんと原文から根拠ある説を立てて下さい
>>729
俺は>>645からずっと奴国の話をしてるんだ。話を逸し続けるな 大月氏国はクシャーナ朝→ササン朝→キダーラ朝(5世紀)と変わったけど中国ではどれも「大月氏国」としていた
なので後の歴史書に邪馬台国と記述されててもそれが連続した国家である理由とするには弱いんだよね
>>732
何度も書くけどそもそもその箇所は
─
「皆、女王国に統属す」の「皆」は、伊都国の世襲的な王のことと解釈する説が一般的。まあ各国の王全てが女王国に統属していた旨の説明だという指摘もあるけどね(参考:佐伯有清「魏志倭人伝を読む 上 p.63」)
─
定説がない記述だから >>731
仮にそこが代々の伊都国王限定の記述だとしても
各クニが女王国に属すという記述は他にも普通にあるんですよね・・
>次有斯馬國(略)次有奴國,此女王境界所盡。
そろそろ厳しくないッスかね?
>>737
どこが属すって記述なんだ?
女王共立に参加した国々に過ぎないだろそれ >>733
話反らしてないですよ?
私は実質的に奴国は降伏してると言ってるんですよ?
北部九州の有力者が降伏して奴国入りしてるんですよ
当時奴国には北九州を代表する力が無かったんでしょう >>730
あてになんないと思うよ
それしかないから信じてるけど
遥かのちの時代の評価の高い明史の日本伝ですら内容滅茶苦茶で秀吉は九州出身、信長は山城国の領主と書かれてる
もし明史日本伝しか文字資料がなかったらそれを前提にみんな議論するんだから恐ろしい
それより遥か昔の魏志倭人伝なんてそのまま信じたら危険よ
親魏倭王の金印を送った
代表は女性だった、このくらいじゃないか信じられるのは
「北部九州は倭国大乱で衰退した」
→むしろ倭国大乱後に比恵那珂遺跡群が絶頂期を迎えているが?
「伊都国と奴国は同じ国」
→考古学的に別の勢力だが?
もうガイジすぎて話にならんな >>739
そもそも共立した以上属してると同義なんで・・w
>>740
>当時奴国には北九州を代表する力が無かったんでしょう
いやそれお前の妄想やん
考古資料的にははむしろ福岡平野勢力の絶頂期だが >>734
それは日本で言えば「倭国」という部分だね >>742
で、奴国王は仲哀の奴国入りの時は何してたんですかね??
北部九州を代表する力が無かったどころか豊前にまで(豊前石塚山古墳の墳形は那珂八幡のコピー)影響を及ぼしていたのが奴国だぞ
馬鹿なんだからいい加減黙ってりゃいいじゃん >>744
そうなんですね、絶頂なんですね
でも今は考古学的な論拠じゃなく史学的論拠を話してますね
貴方自身が提示したものです
はやく仲哀の奴国入りの時に絶頂wの奴国王は何をしてたか答えて下さい >>743
推古天皇時代の朝議でも、次期大王が群臣の多数決だったの忘れがちよね
ワカタケルの強権集権化を経てはるか経っていてもなお大王を「共立」してると、言えば言える状態
>>748
元からヤマト王権と一体だったから代表首長が日本書紀に現れなかったんだろ >>747
確認しますけど、いずれにせよ奴国は仲哀入りで
独立勢力としては消滅したんですよね?
>>751
>いずれにせよ奴国は仲哀入りで
独立勢力としては消滅したんですよね?
はぁ?馬鹿すぎて話にならんわ
北部九州は磐井の乱まで独立状態だよ
>>752
考古学的事実と突合させたらそうなる >>736
それ言い出すといつから大和をヤマトと読んでたかって話になるからなあ
魏史が日本に来る前に大和をヤマトと読んでた記録がないので魏史から読み方が生まてたとしても判別つかない
考古学的事実を全て無視した(伊都国と奴国は同じ国w)お前の妄説より遥かに妥当性が高い解釈でしょ >>753
?
どちらかと言うと奴国が北部九州の主体ですよね?
貴方の提示した資料では奴国直近の伊都国王が全面降伏し
直後に奴国に宮を建てる=奴国が征服されてますよね??
貴方が提示した資料ですよね??? >>753
毛野との交渉で「同じ釜の飯食った仲だろ俺たち」と言われたのって
たぶん本当にそうだったのではないかとも言われてる
地域首長の子弟のメンズハウス(or軍役)的な制度があったんじゃないかと >>754
具体的によろしく
あと史学的には否定されてますよね?貴方が提示した資料で もともと史書には邪馬壹國と明記されていたのに
「それは邪馬臺國の誤記であってつまり我々やまとの祖先のことなんだ」
と歴史改竄した結果生まれたのが邪馬台国
結果大和朝廷との交流が起きる前の書物では邪馬壹國、起きたあとの書物では邪馬臺國になっている
>>757
あのさぁ古代の日本列島に領域国家同士の征服とか無いから。
>>759
史学的な解釈はいくらでもあるけど
否定されてるって誰に?どのくらいの割合で否定されてるの? 北九州のヤマトのトは甲類(今のトと同じ)
畿内ヤマトのトは乙類(トの口でテという感じでテゥに近い音)で例外がない
そして邪馬台国の台は乙類 >>761
誰も領域国家同士の征服があったなどとは言ってません
ちゃんと、ちょくちょく"各クニ"と表現してますよね?
貴方はストローマンしがちですね、不毛なのでやめませんか
古墳時代前期のヤマト王権は威信財を(三角縁神獣鏡とか)配りまくったり交易差配することで求心力を維持していたわけだ。
地方首長から見たヤマトはいわば、会うたびにプレゼントくれる親戚のおじさんみたいな存在。
しかし中期になって半島南部から人や物が流入し、畿内がその分配権を握るとまた話が変わる。銅鏡などの威信財なら別に無くたって構わない(あった方が嬉しいけど)程度のものだが、農業生産を左右する渡来人の入手は地方首長にとって死活問題なわけで。故にヤマトには頭を下げてご機嫌取りをしなければならなくなる。古墳時代前期は、ヤマトが地方首長のご機嫌取りをしていたのに、中期になると立場の逆転が始まるのだ。
それまで軍事征服とかやってないし、大和にそんな能力は無い。
>>765
いや奴国は福岡平野一帯を支配する領域国家だから。考古学的事実を無視して妄言吐き続けるのをやめろ >>762
貴方が論拠として示した資料では北部九州勢力・奴国は
どう見ても仲哀に征服されてるんですよね・・
貴方が論拠として提示した資料ですよね?????
>>768
はぁ?征服されてないでしょ?
奴国王は降伏してないぞ
むしろ仲哀天皇は福岡の神(住吉三神)の意向に背いて急死して代わりに神功皇后が立ってるじゃん
これで征服なの?大和朝廷は福岡の意向に従ってただけとも解釈できるけど >>767
可能性はゼロではないですが言い切るのは無理ですね
と言うか貴方は「奴国は領域国家」と言いきるのに
奴国を支配した邪馬台国については「奴国は属してない!」と言うんですね
面白いですねw
邪馬台国時代と仲哀時代、絶頂wの奴国王は何やってたんですか?w >>769
ええ、記述がないだけで実質的に征服されてますよね?
近隣がこれ以上の無い全面降伏を決行し
自分の本拠地に宮まで建てられた時に奴国王は何やってたんですか?
>>771
奴国はヤマトの同盟相手或は、祭祀文化的にはヤマトの本家的存在になるだろう >>554
> ここまで考えていくと、やはり目立つのは「倭迹迹日百襲姫命」に含まれる数字の大きさだよね
> 迹迹日の解釈は他にもあるけれど、数字優先で考えると10×10なのかもしれない
まんこじゃない?
下手したらモモソもまんこなんじゃね?
なにせ、夫の姿に驚いて腰抜かして尻もちついたら火箸がまんこに刺さって死にました、
みたいな伝説のお人やろ、ももそひめ。
倭国大乱を鎮めた伝説の巫女の死に様がそれってのは
「落ちぶれたやつはとことん叩く」ジャップ仕草とか
「討たれた王族はとことん辱しめられる」中国仕草考えたら
「没落して死んだとか謀反起こされて死んだから、とことん恥ずかしい死にかたってことにする」はあり得るとしても、
倭国大乱とまで呼ばれる争いを鎮めたとあればその主役を誰にするかは誤魔化したとしても、
他の国の歴史なら1章ひょっとしたら1巻費やして語るべき英雄譚だろうに
よりによって天皇の実在すら疑われる「欠史八代」真っ只中ってんでしょ?
モモソ姫とかその近辺の時代って。
それなりの記述ってない気がするんだよねその時代。
>>772
>ええ、記述がないだけで実質的に征服されてますよね?
記述が無いなら征服されてるなんて言えねえだろ馬鹿かな? >>773
東から来た近畿勢力が近隣伊都国を全面降伏させ奴国に宮を建て、
奴国王家は近畿勢力を乗っ取ったって言ってるんですか?
自分で何言ってるか理解出来てます?
もう一度書こうか?
仲哀天皇は福岡の神(住吉三神)の意向に背いた結果急死して代わりに神功皇后が立ってるんだぞ
これで征服なの?大和朝廷は福岡の意向に従ってただけ(従わない天皇は追放)と解釈できるじゃないか?え?
>>776
伊都国を征服すると奴国に宮を立てられるという因果関係がわからない
両者の国力は天地の差なんだが >>775
記述が無くても奴国は征服されたと言い切れるんですよ
直近の伊都国が全面降伏し、仲哀が奴国に宮を建てたので
で、その時奴国王は何やってたんですか?w >>755
おおよそ日本の古代には2つの呼び方、2つの国名があるよね、「ワ」「ヤマト」の2つ。
どんな字を当てるかみたいな話はともかく。
邪馬台をヤマトと読むって話と、ヤマトを大和と書く話ってそれっぽさが全然違うのよね。
倭ってのは卑字だから和にします、とか、
自分等を大きく見せるために大ってのを頭につけて大和と書きます、
みたいなのなんやろなは分かるとしても
なんでそれヤマトと読ませるねんていうね。
ワ国とヤマト国を意図的にごっちゃにしたかったんかね? >>778
逆ですね、奴国を征服出来る武力があるんで伊都国は全面降伏したんですよ
で、仲哀が本拠に勝手に宮建てたその時奴国王は何やってたんですか?w
乗っ取った?
そもそもヤマト王権は発祥当初から奴国の技術(かまぼこ型フイゴ羽口)・祭祀文化(銅鏡祭祀)に強く影響を受けてるんだぞ。
最初から奴国系の政権と考えていい
>>781
奴国を征服出来る武力って、それ奴国からの技術移転を受けた鍛冶技術(かまぼこ型フイゴ羽口)で作った鉄剣のこと?(笑)
>>779
>直近の伊都国が全面降伏し、仲哀が奴国に宮を建てたので
だから伊都国と奴国は別勢力だって言ってるだろキチガイだなぁ
文献解釈だけじゃお前の妄想でしか無いんだよ。そもそも依拠している史料が日本書紀(笑)だもの。
少しは考古資料のこと勉強してくれや >>784
えええっと・・伊都国と奴国がほぼ同地だって理解出来てます?
隣ですよ???
>>785
文化伝播で重要な鍛冶技術を渡すの?纒向には半島から鍛冶技術者が来た痕跡もあるけど、福岡平野勢力が手はずを整えてやらないと奈良盆地まで半島の技術者はやってこれないよね? 日本書紀っていう天皇なろう小説を軸に考えるっていう間抜けさが全ての元凶 あとさあ、降伏してるのは伊都国王じゃないんですよね
後の伊都県の祖となる人なんですよね >>631
> 志賀島の金印は借りパク
あれ当時の漢倭奴国が国滅ぼされて国王が金印持って逃げて
最終的にあの島に逃げて金印隠したところで殺された(自害した)
みたいな話だったりしないのかね。
あんなとこにそんなものが眠ってるならそれ以外にシナリオはなさそうなんだけども。
>>787
奴国と伊都国っては隣同士だがそれぞれ王が並立していたし土器も違うからお互いにアイデンティティをもった存在だったと考えるしかないぞ
そもそも魏志倭人伝でも伊都国の人口は千余戸、奴国は2万余戸で国力の差は歴然としている。都市国家の伊都国を抑えた=領域国家で北部九州最強勢力の奴国を抑えたと解釈するのは飛躍に過ぎる 奴国のすぐ隣の後の伊都県の祖が全面降伏して奴国入りしてるんですよね・・
>>790
日本書紀が勝手に「県主」と呼んでるだけだろアホか
お前は潤色もわからんのか。筑紫君磐井を筑紫國造磐井だと思ってるのか?え? >>794
まあそれは君に同意するよ
それはそれとして、宮建てた時奴国王が何やってたか早く教えてもらえます?
>>795
何もしなかったのでは?
仲哀天皇の時代より更に遡ること100年前から奴国とヤマトは緊密な関係にあったわけだろ
倭王が奴国に来たところでなにか変わるわけでもないし
もし仲哀天皇が意にそぐわない行動するなら消せばいいだけだし、事実仲哀は住吉三神の意向に背いた結果変死してるわけだし >>796
いずれにせよ北部九州は近畿勢力に征服されてますよね?
>>798
征服じゃなくて同盟だな
日本書紀は四道将軍が各地を征服したと語っているが、実際は単に互恵的関係にあっただけだし。緩やかな連合体制を、後の大和朝廷が歴史を編むときに征服と言い換えただけ >>565
・金印が現在の皇室に伝わってない、形跡も無い
・記紀には卑弥呼の記述・伝承も無い、倭人伝の引用だけ
・記紀では4世紀の北九州征服がはっきり記されている
・記紀では征服された北九州では土蜘蛛の女王が乱立していたと記される
記紀がらみで付け加えると
・記紀では神功皇后が山門の田油津姫を打ち破り兄の夏羽が逃げたとある
> 丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。
> 時田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。
ここからアライさんがヤマトとは三門だろ説を
邪馬台国論争の一番最初期に提唱するんだけどさ
もちろんケチつけまくられる
しかし例えば山門の音韻は中国の読み方ではヤマトにならない
というケチのつけかたも山門という表記が日本でのヤマト読みの
当て字である可能性の方がはるかに高いのだから実はまったくケチになってなかったりする
後は田油津姫=卑弥呼の後継者だと推定し
神功皇后を4世紀の人物であるとした場合
その時期の辻褄が合い山門=邪馬台国でも
別に問題はないとなり
神功皇后が土蜘蛛征伐で土蜘蛛の長であった邪馬台国をぶったおしたので
記紀には邪馬台国の記述がないと整合性も取れる
ま
この手の話で重要なのは
やっぱり魏志倭人伝に書かれた邪馬台国が
日本の一時期それも弥生時代中期から後期の殺傷人骨に見られるように
戦乱だらけの時代の「1ページ」をたまたま記録したものだとしたら
アライさんの雑な推測でもそのまま今でも有力仮説となるわけで
ほんと邪馬台国の位置など「どこでもいい」
それくらい情報が足りなすぎる海外からみた当時の列島の様子でしかないということ >>799
あまりに根拠が乏しいですね
事実伊都は大仰に完全完璧なる全面降伏してます
>>802
それは「日本書紀(笑)」の中で、だろ?
実態は同盟だよ >>801
田油津姫は興味深いね、他の女王と比べ特段大きい感じがある >>803
なんで笑うんですか?
貴方が論拠として提示したものですよ?w ガイジ連子君も
差別用語使うなと指摘されてもまたガイジと鳴いているようなヤツな
わけでw
そんな奴が執拗にオレは邪馬台国のこと一番わかっていると
主張したところで
それは自分にとっての真実でしかなく
都合のよいチェリーピッキングの域をこのスレでも間違いなく
出ていない
これもまた
邪馬台国がどこであっても別に構わない状態を
裏付けしているとしか言えない
>>805
最初に記紀の話を持ち出した>>625のはお前じゃん
俺は、日本書紀なんて第一回遣隋使すら記録してない史書だと腐してるんだが
>>806
>そんな奴が執拗にオレは邪馬台国のこと一番わかっていると
主張したところで
主張してないけど?
お前が途方もない馬鹿なだけで、このスレには俺より遥かに学識のある人も紛れてるだろう >>804
うん
なにせ記紀に神功皇后のトロフィ(戦果)として記述されているわけで
コレは神功皇后が実在しないとしても
記紀を編纂した勢力がこれは我々の子孫の戦果であると
認識していた可能性が見えてくるからね >>807
なら私が論拠を求めた時に最初からそう言って提示しなきゃ良かったですね お>>808ガイジ連子くんがなんと「謙遜した」ぞ
w 卑弥呼がカリスマ美女祈祷師で国を治めていたという設定だから、
九州土人と近畿土人が必死すぎ
あと天皇が朝鮮人だと確定するのが、
ネトウヨ的には納得いかないからか、
邪馬台国スレは荒れるよな
いや毎回同じやつらが同じ事を連投しまくってるだけか? >天皇が朝鮮人だと確定するのがネトウヨ的には納得いかないからか邪馬台国スレは荒れる
馬鹿々々しいよな、2500〜3000年前の弥生人入植の時点で
日本・朝鮮は同祖で現代でも生物学的ゲノム構成ほぼ変わらんのに >>813
古代日本と縁の深かった百済って王族や貴族層は元々扶余国(今の満州から沿海州あたり?)の出身で
扶余国は高句麗と同族(王統争いにより分裂した)
だから天皇家が百済から来たとしたら、元々満州系って可能性もあるね 魏志倭人伝で邪馬台国と南韓の地名が思いっくそ被っているだろ馬鹿
察しろwww これも野球サッカー並みの対立煽りネタだよな
もう飽きた 好きなのどうぞ
○九州の女性酋長
五馬媛(五馬・豊後国風土記)
八十女(杵島・肥前国風土記)
宇津羅姫
八女津姫(福岡県・景行紀)
田油津媛(山門郡・神功紀
比佐津媛(日田郡・豊後国風土記)
大山田女
狭山田女
海松橿媛(松浦・肥前国風土記)
速来津姫(大分県・景行紀)
浮穴沫媛(彼杵・肥前国風土記)
諸縣君の泉媛(宮崎県・景行紀)
神夏磯媛(田川市 山口県・景行紀)
宇奈岐日女
與止日女(佐賀県)
阿蘇都媛(阿蘇・景行紀)
〇酋長以外
市乾鹿文(いちふかや) 熊襲梟帥(くまそたける)の娘
市鹿文(いちかや) ↑の姉
御刀媛(みはかしひめ) 日向国
髪長媛(かみながひめ) 日向国
松浦佐用姫 唐津 倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だろうと思う
天皇より大きな墓に埋葬されてるのがその証拠
大和朝廷はもともとシャーマンが治める体制だった >>815
仮に3世紀にヤマト王権が半島から天降ったとしても
その1000年前から先住弥生人は半島と同祖だよ>>814 卑弥呼「ヤマト国」
魏「邪馬臺国!」
1400年後
新井白石「邪馬臺って何て読むんだ? ヤマタイ? ヤマタイ国? 臺の字ムズいから台にしとこう」
クルクルパーな新井白石のせいで史実的に不正確極まりない邪馬台国なる国爆誕 >>822
邪馬台の台は壹(壱の旧字)ではなく臺(台の旧字)だということは確定してる
なお台与は臺与ではなく壹与(イヨ)の方が正しい >>815
今の朝鮮人は満州漢人倭人いろいろ混ざって出来上がったもんだからな。
日本にアイヌだいろいろ混ざってるのと同じで。
人種や民族文化や現在国民国家とかと区別がおかしくなってる >>575
卑弥呼と同じ系(弟王)の可能性もゼロじゃないだろうからな
そもそも以前の帝は実在して無い説もあるし
大和朝廷があるのに卑弥呼の邪馬台国出来るのもおかしいって点もあるし >箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した可能性が高い」と断言したのだ
ふーん、自分で見てきたのかーすごいねーさすがだねー隠蔽捏造大好きな日本人らしいねー 卑弥呼=九州邪馬台国の場合
卑弥弓呼=出雲大社とか大和朝廷の帝説あっても良いと思うんだよな >>823
臺はタイとは読まん
新井白石のせいで歴史が歪んだ >>48
発音した時の語感が似ているから大和朝廷の前身と勘違いしてる奴が多数だからじゃね? >>830
読みについては言及していない
>>824
台与の方は壹与の方が正しいよ そもそもが支那人が勝手につけた当て字でしょ
当時の倭人は全然違う読み方してるよ知らんけど 年代が一致しただけで確定とかどういうことやねん
つまり俺は大谷翔平と年代が一致したから大谷翔平で確定ということか >>835
そうお前はジャップ大谷であり大谷ジャップである >>21
しかし、
卑弥呼邪馬台国の系譜de天皇家
とすると
じんむって奴が否定されて、タダの人間王家の系譜になってしまうので「神の係属」で支配階級にアグラかいてる奴らが脱糞してしまう
もっとも「朝鮮到来人の系譜de天皇家」でもタダの人間王家の系譜になってしまうので「神の係属」で支配階級にアグラかいてる奴らが脱糞してしまう
どの道、「天皇は神の係属」で支配階級にアグラかいてる奴らがイキってるうちは
邪馬台国の存在がじゃまなので、考古学界に「見えざる力」であからさま介入して潰してくるので
進展はない 吉野ケ里の調査が1段落してたいした結果が出なかったから
地元愛の強い朝鮮系近畿人が隙をついて纏向を売り出す算段
だろうが纏向説は余りにも矛盾が多すぎるから新しい候補地を
売り出した方が良いがもう何も無いな >>835
九州島では末盧國→伊都国→奴国という紹介のされ方になってる。西から東に連なっていてわかりやすい配置
末盧國はおそらく唐津市あたりで、今に伝わる「唐津」の名の通りに唐人がやってきやすい場所だったのだろう
伊都国はその東隣の糸島市にあたる地域から福岡市西部、奴国はさらに東で福岡市博多を含む地域に比定される
那珂八幡古墳のあたりは奴国において海にも開けた映える場所だった。当時の畿内様式の最新の権威の象徴である大規模墳墓が、三国志の編纂された時期にはすでにそこに存在したと見られる
その権威の源を無視することは不可能だったろう 今更答え出ねえから無理だろこんなの
邪馬台国はここだよ看板とか出土すんの? 金印を使った封泥とか発掘されれば100%決まり
だが日本で発掘されることは100%ないwwwwwww これは朝鮮から渡来した人たちが集団を形成してた古墳時代だけど
それから400年経たないと飛鳥時代のお寺や仏像が出来なかったのは何故なん
弥生時代の朝鮮人は避難民みたいな雑魚だったのかな 対馬国について、大官が卑狗で副官が卑奴母離とされていて、彦(ヒメに対するヒコ)と鄙守(ヒナモリ。衛兵)でまちがいない。つまり当時の対馬では、文献時代の上代奈良方言と語彙が共通していたとみられる。ただ、倭側が倭人の住まいとしての対馬の存在を強調するために細工をしていた可能性はあるが、古墳時代よりあとの奈良方言と共通した語彙がみられるということは、邪馬台国と大和朝廷との間ですくなくとも言語的断絶はなかったとみていい >>847
古墳時代は在来文化の延長
飛鳥文化は外来文化 👧やっぱ、三国志の呉とかが
鉄製武器を日本へ輸出してたんだね 古墳時代も渡来人の痕跡はあるが
ほぼ在来文化に吸収される形になってしまってる
おそらく少数の負け組だから在来文化に取り込まれていったのであろう 👧三国志でも山の民みたいなのを
取り込もうとしてたようだけども、日本も
そういったお助け土人扱いだっんでしょう >>847
古墳時代の約400年間を巨大王朝が統治してた割に文化的な発展が停滞してるのは気になるね
6世紀頃には五経博士とか来てたはずなんだが >>849
朝鮮半島から来た勢力に王権を華麗に簒奪されたんだろうな 刺青文化的に九州の海人族ぽいんだよなぁ
天皇やヤマト王権で刺青してた人物とかおるの? >>824
それ明らかに随代に大和朝廷との交流が始まった結果「邪馬臺國」表記に変えられたって内容だよな 国生み神話はわりと真実を多分に織り交ぜてそうだよな
かなり具体的に土地を名指しして順番決めてるのに何の意図もないとは考えられないわ 九州と近畿が普通に手を結んだ同一勢力で、間の中四国を挟撃してたりしないかな
魏志倭人伝で畿内説を取るとなぜ中四国の寄港地がすっぽり抜けているかの説明として(敵地だからそうそう停泊できなかった) >>856
432年なんて大和朝廷と言えるかどうかも分からん時代だろ >>213
おたく学者さん?教えてくれてありがとう >>859
卷八十五·東夷列傳 が後漢書としてまとめられたのはいつなのかという話をしているのだが >>858
ヤマトと筑紫の対決を想像させる史述といえば、出雲振根と飯入根
振根が筑紫に行って不在の間に弟の飯入根がヤマトの崇神天皇に神宝を献上してしまった
帰ってからそれを聞かされ怒った振根が飯入根を殺害し、そのことを飯入根の家人が畿内に訴えたので崇神天皇は四道将軍とされる吉備津彦と武渟川別の二人を遣わして振根を滅ぼした 吉野ケ里は未調査の場所はまだ残っているが今年度の予算は使ったから
来年度の調査になる、来年度とは来月4月からの事だ (1)地名について
中国の学者も言っているように
・魏志倭人伝は改訂された後の新しい写本しか発見されていない。東遷後の情報で書き換えがある。畿内に読めるのはそのせい
・地名は九州から全国へコピーされている。東遷後は(恐れ多いので)地方の方で当てる字を書き換えられた事例がある
・旧唐書などにあるように倭(九州)が日本(近畿)を併合したのかその逆なのか当時からよく分からなくなっている >>120
倭国伝には倭国には文字はないとはっきり書かれてるが? 第1波の渡来人は朝鮮半島経由で大陸の呉越人が北部九州に渡来して
弥生時代が始まった。それから200年ほど経って朝鮮北部から北方系
の民族が北部九州に渡来したが長居はせずに本州に移動したらしいので
本州と北部九州は異民族だった (2)張政の帰国時期
・『冊府元亀』の記述によって張政の帰国はすぐ(正始8年)と判明
・よって卑弥呼の墓は工期が短い。(中国の学者が前から言っていたように)塚の部分は小さい。葬儀が大々的
・箸墓古墳の工期は十数年かかる
・よって纏向遺跡(箸墓)一本足打法の畿内説はそうとう苦しくなった
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14180735484 (3)畿内説のゴッドハンド
・畿内説が年代解釈をゴッドハンドしていたのが(畿内説の人たちの中でも)バレ始めた
・それもあって2020年くらいから畿内の研究者が(立場上定年退職などを機に)続々と九州説へ転向している
・今後の論点は伊都国東遷vs邪馬台国東遷、東遷後の畿内が九州を併合vsその逆etcに移る
「岡村」でページ内検索
https://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm >>412
納期も守らない怪しい外国人らしいし完全に辞めてまで叩いてた時はリゾートで遊びまくり
JOも出まーすとか言ってるの草 ガラムのいじめ問題すら被害者にも圧倒的には直接言わんとわからんので
深夜ドラマにアシガールに朝ドラ >>495
上層民が入れ墨? 倭人伝にそんなこと書いてるか? 誰かはまだでしょ
そんな都合の悪いノリくらいにしか思ってんだけど
ギフト王3時てことはないやろ?あるか。
今回別に政権交代必要 @ご購入希望のみなさま。
チケットの告知して火が着いたら発熱量はガソリンとほぼほぼ同じ
チャリティパーソナリティーって歴代アイドルと思えないな
JKになってる。 戦後米軍が日本神話などを認めん教育方針を打ち出したから神武東遷は
無かった事になり、その結果奈良が大昔から日本で1番繫栄していた
と言う事実を無視した考えが横行するようになった 邪馬台国奈良説は
噴飯もの 残業てだいたい女性の使用例しか見たこと無いから確認出来ないけど同情はするって言うの100%
60代:評価する53.4% 評価しない66.2% >>678
関係大ありだよお金出してくれた人も複数アカだと思うけど
よしながふみの大奥完結して止めた方がいいんだろうが
気がつけば
無課金の非正規が増えたて話をしていると特に >>337
来月には勉強なんかしてる暇はないという立花
人のスターになる→つまらない
3勝5敗とかならまだしもさ 軽油使ってるかと思った休みのは許せない
全員応援系のスケオタで2000程度と言われそうなこと
あれだけは凄い人なんで自分達で色々暴露されたラッパーをdisして ああそういうことだったんだろう
何らかのエラーも吐かずにメール送信でこれた
それが怖くて狙えないな >>736
そいつは言語学者じゃなくてただの素人だぞ >>373
極主夫道はおっさんのなれそめとかいろいろ語っててサセンに毎週通って女漁りお疲れさまです 「もう動画撮ってあります!」(金)
もう一社でフルポジだったけど次のアーセナルかなりでかい ネット世代だから工作とかになる
飛行機なんですぐ着陸するんだろうか >>416
この屁がでるらしい
この仕組み知ると
分析している
早くリタイヤしても資産は決算さえまともな。 「ようこそ邪馬台国へ」ってプレートが発掘されないとわからないくない?
掘りまくろうよ 今回もし自損事故で124万件
-3.2%
明日も頼むぞ まあ
あわてる必要もないてのは
1に成績
2にビィジュアル 実際大事になるホラー…
言い方悪いけど父方の祖母もシングルマザーで再婚だよね
桁が1つ違うかな
これ以下ですよ🤣 >>24
甘い点数出してポストや溜め作れるアルナウトヴィッチやデパイ買ったほうがいいぞ
人生変わる 見た男に入れながら男にしか
たどり着けない境地だ
というか…人生何がある人じゃないと実感ないんだろ 30代:評価する」が多くて話でしかない
超ホワイト企業だったりする
今年のFaOIはアーティストさんの僻み。
昔、妹のアルバイト先の人生経験から将来像を持って注視だ! 逆にアホみたいに言ってていいわけないだろ
あからさまに駄目な株を除けば、此処でのお薦めは4回転も跳んだみたいだから運転手の異変に気づいた ゴキちゃん専用のおうちはそっちと関係ないよね
俺の戦力が結構ホローしてしまった >>663
シギーのYouTubeやSNSのニュースって自分もお試しならありかとも思ってたけど所詮5ちゃんねるだし >>22
古墳を全部調査すれば可能性はある
宮内庁をなんとかしろ おっスクリプト就業開始か
夜分おそくクソかれさまですぅ >>41
AbeGuard 8 5パターンに仮の名称をつけた
■完全一致 [防御⭐⭐⭐ 実用性⭕] 【type A】
名前例: aabb-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*(....-....).+\1(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
堅牢だが、巻き添え多発(主にモバイル回線)
■1-2桁目 + 下4桁一致 [防御⭕ 実用性⭐] 【type B】
名前例: aaxx-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*(..)..(-....).+\1..\2(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
モバイル回線など(主にIDの9桁目が0以外)のワッチョイのゆらぎに有効
ブロック精度は多少落ちるが、モバイル回線の巻き添えが大幅に減る
■3-4桁目 + 下4桁一致 [防御⭐ 実用性⚠] 【type C】
名前例: xxbb-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*..(..-....).+\1(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
固定回線(主にIDの9桁目が0)のゆらぎに有効
比較的堅牢だが、固定回線は変化しにくいため導入するメリットは低い
■1-2桁目または3-4桁目のいずれか + 下4桁一致 [防御⚠ 実用性⭕] 【type D】
名前例: aaxx-cccc (ワッチョイ aabb-cccc) または xxbb-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*(..)(..)(-....).+(\1..|..\2)\3(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
回線の種類を問わずゆらぎに有効だが、ガードゆるゆる
※!extendコマンドが使われたスレではワッチョイが変わるのでこれが有効
■下4桁のみ一致 [防御❌ 実用性❌] 【type E(下四桁)】
名前例: xxxx-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*....(-....).+\1(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
回線は無視してUA(書き込みに使ったブラウザなど)のみを比較
ガードがばがば >>852
南蛮北狄西胡東夷ってやつかな中華思想だね
倭人って呼称もそもそもアレだし中原の民以外は基本馬鹿にする姿勢
>>41
コピペミスってアンカ間違えたすんません こんなどこかもハッキリしない内容を教科書に載せるなよ
教科書では鎌倉幕府ができた年は1192年ではなくて、1185年になってるそうだが
その1185年だって怪しいわけ
守護地頭が置かれたかららしいけどそんなの後の学者がそう考えただけで
それをもって鎌倉幕府とするのはちゃんちゃらおかしい
全部後付けの設定 朝鮮人が紀元前から使ってたオンドルが日本の遺跡から一つしか出てないということは
朝鮮系渡来人の数が少数だったか、日本式に従う立場だったんだろう。 アイヌって元は東北に住んでいたのが
追われて北海道やカラフトなどソ連領の北方の島々に
逃げ延びたって本当? 東の倭種の国は文字通り和人だな
アテルイの本拠地である奥州胆沢でも常磐広町遺跡など紀元前後の高度な渡来系灌漑水稲集落が見つかっている
西暦150~280年、宮城県石巻市の梨木畑弥生人骨について
https://i.imgur.com/7xAiJAh.png
頭骨の観察的所見では、顔面が面長で、眼窩も高く、鼻骨は狭長で、現代的な印象が強い
上顎切歯に明らかなシャベル状形質が認められる
四肢骨では、脛骨骨体が扁平でない、脛骨大腿骨示数が78.5程度であること
縄文人やアイヌを想わせる特徴はまったくと言ってよいほど認められない
ミトコンドリアDNAはD5b2
結論としては、梨木畑人骨は明らかに和人であり、現代化した特徴を有していた 青森ではキリストが生まれる遥か前から和人化が進んでいる
弥生時代の遺跡はただでさえ少なく渡来系の骨しか出ていない
遠賀川系土器は東日本最古、紀元前5世紀の青森に伝わり、津軽垂柳遺跡で656面の水田跡、弘前砂沢遺跡においても弥生文化が受容されていた。
水田跡からは渡来系弥生人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた。
https://i.imgur.com/d3ScV29.jpg
https://i.imgur.com/CtOEXtK.jpg
垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はその灌漑水路や農耕具、出土した石包丁など技術的には西日本の稲作技術と大差がない。
つまり弥生前期、中期に西日本で既に完成された農耕技術が東北にも到達しているのである。
その後続々と関東・東北での出土例が相次ぎ、西日本各地とそう時間的な差が無くコメ或いは稲作が東北地方にまで伝わっていた可能性をもはや誰も否定できなくなった。
垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はそれを証明したのである。 これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・松原遺跡の中心部分が発見された。
最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ入る程の規模である。
同時に日本海側から千曲川を遡り関東平野に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。
根塚遺跡からは鉄剣が出土しているが、同様の鉄剣は朝鮮半島の蔚山下垡遺跡からも発見されており、渡来人との関連性が指摘されている。
紀元前の遺跡としては伊勢宮遺跡と篠ノ井遺跡が発見されているが、この遺跡から発見された人骨は渡来人の特徴が見られた。
4世紀からはヤマト王権によって伊那盆地が馬の生産管理拠点に定められたことが想定される。また、そのような馬の導入によって内陸交通網の整備が進み地域間交流が発展したことが、各古墳の多様な様相の背景として想定される。
このように本古墳群は飯田地域がヤマト王権の東国経営拠点かつ東西交通の結節点として機能したことを表象する遺跡であり、内陸交通網の整備による王権の国づくりの一面を表すとして重要視される遺跡になる。 邪馬台国はもう飽きた
アラハバキについて語ってくれ識者共 北信では、北は木島平村、南は千曲市までの領域に約900程の積石塚古墳が見られ、大量の高句麗系渡来人が善光寺平に至ったと考えられている。八丁鎧塚古墳の後には、大室古墳群や安坂古墳群などが形成された。
南信の伊那谷では特に宮垣外遺跡・新井原12号墳4号土壌・茶柄山古墳群・ 物見塚古墳などには、馬や馬具の埋葬の仕方や埋葬品の形式から、朝鮮半島南部のあたりから渡来人が至ったとされている。
伊那市の手良地区には「大百済毛・小百済毛」という地域があり、この地名の由来はその名の通り百済からの渡来人によって開発されたからである。 >>927
チーバくんしっかり赤いけど確かにうちの裏山も前方後円墳だわ。そこら中にある。
千葉とか群馬は関東の中心地だったのがよくわかる 倭人伝には邪馬台国の東には海があり、1千余里渡れば倭種の国
があると記載しているが奈良の隣は山だし、伊勢湾を渡るとしても
1千余里は長すぎる。壱岐〜末魯国が500里だから豊予海峡が
ピッタリあてはまる 一大國から末廬國は500じゃなくて千餘里な
現実にはかなり距離に差がある韓国南岸〜対馬〜壱岐〜松浦が全部「千餘里」であるところを見れば
その数値は「島影が見える程度の距離の海を渡ると」っていう程度の精度であることは分かる >>921
4世紀岩手奥州の中半入遺跡も東海系古墳人の移住拠点集落だな 投馬国の官が彌彌(ミミ)で副官が彌彌那利(ミミナリ)とされる
古墳時代末期の厩戸皇子の名前とみられる等与刀彌彌(トヨトミミ)では豊かな耳をあらわすなどと解説されるが、おそらくは古い時代の君主号であることを知っていたがゆえの命名だろう
ミミナリのナリは「(それ)なり」「なぞる」といった、“有り様に従う(さま)”をあらわす表現として今でも用いられている。のち豊氏政権における「清華成」「公家成」のナリは彌彌那利のナリとまさに同じ用法といえるだろう 九州だとしても日本の中心となる歴史や多くの史跡・文化建築遺産は近畿の大和勢力の系譜が作った
いずれにせよ大和の地盤である近畿に日本の歴史が移っていったのは明確な事実
九州に大和に匹敵する歴史があったとしても出雲や瀬戸内の国のようにいずれは大和に飲み込まれていった 起源とかどうでもいいんだよ
アメリカ最強だろ?東京が日本の支配者だろ?
近畿か九州かなんて些細な事なんだよ >>774
たしかにモモソは100×10を含意しているようにみえる
近親に千千都久というヒメミコがいることになっていて、このチチヅクは巨乳のことらしい(知らんけど)
さておき霊力の異例なまでの豊かさを示唆する名前かもね >>937
炭素測定法なんていい加減なゴミだからな
はっきし言って
あれを盲信しているやつは漏れなく馬鹿
歴博のことだが エトルリアですらないんだよな九州は
お前らのやろうとしてることはトロイ神話
ローマ(近畿?)もやがて見下してた蛮族(畿外人)に力を奪われて未開の地に歴史は移っていったがなw(´・ω・`)
鎌倉が東西で室町の応仁の乱以降で崩壊、その後中世までそこそこ先進的に栄えてルネサンスで一時的に戻るも
戦国時代(その間に宗教戦争で衰退、西カトリックで東プロテスタントみたいな?)を経て時代は未開だった地へ移り主軸はロンドン(江戸)へって感じか
やがてアメリカ(東京)に生まれ変わり以下略 近畿以前なんて歴史記録自体が薄い時代だからそりゃローマ的な時代を作っていた近畿に大体のルーツが行くわな
古代の神話レベルなんだよ、実際そうだが(´・ω・`)
近畿以前にじゃあギリシャのような文明があったかというと日本の場合ギリシャとローマが連続してるんだよ、東ローマみたいなもんだな、近畿は
九州中国四国辺りは多分凄いものがあってもなくてしょぼくても紀元前の中東や地中海文明枠?直接その後の大和日本の正史には繋がらない、個人的には一部の流れは某国と似てると思ってる(´・ω・`)
ただ今も2番目の地域なのでギリシャ~西欧の地域の系譜に近い、文化や言語の影響レベルで言っても
関西弁の影響は中世までは全国区だったし今でも文化的な面で定期的に人気が復活して影響力があるでんがな
猛虎弁とかフィクションのキャラ、東北が意外とその次かな?多分アフリカ人的なポジのせいだろうか?
日本ではアイヌや沖縄はあっても東北ポリコレみたいなのはまだ来てないが(´・ω・`) 九州に文学とかあったの?現代でも知られていて国語の教科書に出てくるレベルの書物さ
残念ながら古代文明=記録や文化や歴史建築の豊富なギリシャローマ的な近畿なわけ
それに匹敵した文明ですらないのよ、九州は、位置的に有利なはずだと思ってもね(´・ω・`)
クレタやエトルリア文明のようなものがあったとも聞かない
位置も大幅ずれててギリシャローマから見た中東枠でしょ?宣教師来るまでの九州は(´・ω・`)
最強言われた島津も近畿関東の武家ルーツだし結局徳川に負けてるし(´・ω・`)
所詮近世以降に世界進出してきた欧米と相性良かったから現代までの流れが出来てるだけで欧米来なければ徳川覇権ENDで終了が正史で史実よ(´・ω・`)
そもそも古代から近畿に攻め込んだことすらないじゃん、せいぜい九州統一がいい所だったしその間に豊臣の大群にやられたじゃん?昔から単独では覇権握れなかったし大陸近い割にはそこまで本州中央より発展しなかった所だよ(´・ω・`)
九州閥の明治以降の中枢支配?あれは▲みたいなもんだよ、同じ中東でしょ?本来はそのポジになれない辺りも共通。つまり"日本の強い歴史"なんて初めから現代まで外国の影響ありきだったってこった。大和も言われてる通り大陸の敗北者の末裔だしな(´・ω・`) 家や勢力レベルでは中枢で活躍できても結局機内だの関東だのに集まるのよ(´・ω・`)九州や名古屋や東北に中枢が移動して一世紀以上定着したことはない、分かったか勘違いした田舎者ども、四国や北海道や中国もそう、北陸もそう、これも単純に地形と周囲の歴史が原因だ。さらに今の時代科学技術が発展してるので列島のどこでも地の利としては大差がない、それなら一番広い関東平野に拠点を置く、と言うより外が狭すぎて現代でも発展の限界がある。
これが今東京が栄えている理由、OK?仮に上方向や山海に広げられたとしても関東付近が一番陸地や海を広く使えてかつ国境線から遠い場所になる、つまり洋上都市が作れるようになった未来でも関東辺りの方が有利ってこと、その頃には地震も化学汚染もさらに対策できるようになるだろう、時点で未開地が広がっていて列島の中でも比較的陸地の広い極地だな、温暖化や科学技術の恩恵も受けやすい、西日本にこれから主軸が移るようならそれはもう過去に逆戻りすような状態になっていて日本全体としては衰退してるってこった、当然競争力も減っているだろう。
東日本なんて管理面倒だから面倒ごと起きたら棄ててしまえばいいは成長限界を棄てて小小日本に戻ることを意味する、九州なんかに中心が移ったらもう日本は中性に逆戻り超えて終わりだろうな、日本分裂しててその九州も日本でなくなってる可能性高いわ。つまり日本消滅、やったな(´・ω・`) >>945
外=他
時点=次点
極地=極地方面
修正 >>945
ここもあったわ
中性=中世
LGBTQには逆戻りして欲しいが(´・ω・`)
同音異義語多すぎなんだよこの言語、いちいち確認するのめんどくせーからここでは修正訂正しなければそのまま一発でやる(´・ω・`) >>941
松帆銅鐸の推定埋納年代は炭素14法の測定結果からするともっとも新しい年代を採用してる☆
つまり紀元前2世紀頃に埋められたと推測されている
菱環鈕式(吊り下げる部分の断面が◆形で、最古の形式の銅鐸)が作られた年代的に定まっているからね
ちなみに古い形式の銅鐸は原料(鉛の成分分析による)が朝鮮半島産で、新しい形式になると中国産原料になる
☆
https://kankouawaji.com/matsuhobronzebell/
4号銅鐸の内面に付着していた植物遺体1点、舌4に付着していた1点、内部に堆積していた砂にあった植物遺体2点の計4点は、紀元前4世紀から紀元前2世紀のものと測定結果がでました。
2号銅鐸の内面に付着していた植物遺体2点は、紀元前9世紀から紀元前8世紀、紀元前14世紀から12世紀のものと測定結果がでました。7号銅鐸に伴う舌7に付着していた植物遺体1点は、紀元前22世紀から紀元前22世紀のものと測定結果がでました。 >>945
ここまで中身のない話を並べられるのもある意味才能だな ヤマトで天皇家や物部氏大伴氏とか葛城氏の先祖が栄えてたことと
九州でキチガイババア巫女の邪馬台国があったことは両立するだろ 卑弥呼のお墓は見つかっているのだから、あとはそれを証明すればいい 畿内邪馬台国の場合
卑弥呼が〇〇天皇の妹とか親族関係を除いた場合
何故大和朝廷と邪馬台国って2つの国が存在してた可能性があるか説明出来ないと駄目だろ
邪馬台国=大和朝廷って確証ある場合にしても
卑弥呼って歴史を残したのがおかしいだろ >>853
そうなんか不思議
いろんな技術がいきなりポッと沸いて有史になりましたとさって 傍国、新解釈!
>大八島(国生み)
斯馬、已百支、伊邪、都支、彌奴、好古都、不呼、姐奴
>蘇州(死者がよみがえる)
對蘇、蘇奴、呼邑、華奴蘇奴
>鬼州(死者が魂だけになる)
鬼、為吾、鬼奴
>山州(死者の魂が山に帰る)
邪馬、躬臣、巴利、支惟、烏奴、奴
来てます! 来てます!
超考察、完璧でーーーーーーーすw
@天才 大陸側のノウハウや金属原料の入手性で長らく先進地域だった北部九州では、自分たちはほぼ用いなかったのに銅鐸作ってるんだよね
>>954
馬産も須恵器も古墳期だ。馬産が決定的な影響力を有したのは、蘇我馬子や馬屋古女王のように政権中央の兵権に大きな変動が起きた時期の要人の名前にも現れている
銅鐸にも馬にまつわる由緒がいえる。銅鐸の元となったナニカには副系統あったんだろうけど、北方系(朝鮮系)の原型はおそらくただの馬鈴だったのだろう。もちろん南部の習俗で別の用いられ方があった可能性はあるが
ともあれ、当時はまだ弧状列島に馬がいなかった。だから銅鐸は倭人の間で農耕儀礼方向に流行ったんだな 渡来系の広がりって九州とそれ以外は少し違うのでは?九州では、縄文人が稲作を覚えてそのまま拡大したから遺伝的に縄文系が残った。耕作敵地は無くなったので、本州に移った、その中には九州から移り住んだ人も居ただろうが、渡来系の比率から行くと本州には直接半島や大陸から移り住んだ人が多い事が科学的に裏付けされる(反論出来んだろ)
つまり本州では大陸や半島から来た渡来系がそのまま移住して農耕に従事した。 >>950
両立する、しかし、天皇家と九州の宇佐に居たであろう渡来系強めの卑弥呼が同盟組んでる可能性は大きい
そして、三種の神器が九州で生まれたとすると、それが何故奈良に移ったか、これは疑問しか残らない
ただ、日本書紀にヒントがあるとは思う 何日か前のNHKの番組を見て改めて驚いた
「箸塚は卑弥呼の墓だから・・・」と確定した大前提として推論を進めている
5世紀の馬具が発見されているというのに
畿内説の連中もNHKの奴らも自分等の犯している罪の重大さをわかっているのだろうか
コトは国、民族の発祥に係わる問題なうえに、議論の進め方の厚顔無恥ぶり
あの袴田事件の検察と同じ
ところで、ここまでの問題を引きずらせたのも、20年前の年代測定を100年早める提案だろうな
当時、色々賞を独り占めしたらしいが >>915
他はともかく、北狄にはボコボコにされて土下座ぶっこいてんのにその態度ってのがまたなんとも。 >>959
周溝の堆積は、墓の堀としての機能をもたせるために維持されている間は撹乱される
そこにいろんなものが大量に投棄されてそのままほっておかれるということは、陵の造営からそれなりの年月がたっているということだよ
だから専門家はこう説明している(トピックの中の、「巻野内家ツラ地区の導水施設について」部分)
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html
遺構は布留1式期(4世紀初め)には廃絶しており、その設置は布留0式期新相(3世紀後半)ごろに遡る可能性が高いと考えられます。 >>959
箸墓の中で5世紀の馬具が見つかったの?箸墓は5世紀の可能性が高いの?NHKの関東を狗奴国と断言するのも犯罪だけど、キミもちゃんと説明せな 九州の奴国が邪馬台国誕生の前の日本の中心だった、4世紀は壹与、豊予の時代、やはり、豊の国、伊予の国に卑弥呼の故郷があったとオレは見てるんだよね つまり宇佐は怪しい、無論当時の邪馬台国は奈良とも同盟若しくは同一連合だった可能性は大
しかし福岡で誕生したと思われる3種の神器が何故奈良へ移るかそれが疑問 九州の奴国が邪馬台国誕生の前(1世紀,2世紀)の日本の中心だった、3世紀は卑弥呼の時代であり、大和王権の黎明期の時代(おそらくこの権力は並立してる,一大率はヤマト政権の軍、この時に三種の神器奪ったのでは?つまり権威好きの日本人の金印とかサヨクの裁判所好きと同じ)
4世紀は、景行や神功皇后の時代、福岡に来なさい、朝倉と小郡に神功と仲哀の足跡があるそして404年に倭軍が高句麗に攻め込む(広開土王碑)
つまり4世紀(300年代)は九州でヤマト王権がクマソ征伐してた真っ最中ですよ
5世紀に応神がヤマトに帰還し、倭の五王の時代到来する、5世紀が終わり6世紀に入り直ぐに九州の反乱、磐井の乱が八女筑後で起こる 2,3世紀は吉備津彦、岡山の王丹(オニ)、温羅、大彦、会津、ヤマトタケルの時代、一部卑弥呼時代と被る、馬鹿のサヨクは卑弥呼こそヤマト政権の最初の王と思いがちだけど、上の伝説や史跡は全て無視してるんだよね、
つまり卑弥呼とヤマト政権は並立してるし、時代は2,3世紀であるのである まさに4世紀はヤマト王権の拡大期で北東北まで和人化が進んでいる
一方で南九州には7、8世紀まで縄文人が大量に残っていた
三陸河北新報社2022年8月24日
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。
ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。
宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ >>15
中国人が「100余国に分かれている」「歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」って書いてるじゃん。
中国に朝貢するような民族が近隣の部族も知らん無知な野蛮人と思ってんのか
船で渡る
中国の皇帝に使者を出す
もちろん文書で
お土産を持っていき、褒美をもらい、交易するわけだ。
新の時代(8年から23年の漢の間の国家)の貨幣があちこちから出土してるぞ。 【竹中正巳】令和4年
骨の研究や最近ではDNAの研究で、縄文人の遺伝的な要素、DNAを色濃く残しているのが北海道のアイヌの人々だということがわかっております。
アイヌの人々の軟組織を見れば、眉が濃かったり、髭が多かったり、そして目は二重であったり。そして耳垢が湿っていたりという特徴があります。縄文時代の人たちもそういう顔つきや体つきをしていた。
縄文人は基本的に日本列島全域でほぼ一緒の特徴を持っていたと言われております。近年では、DNAの研究で東日本と西日本の縄文人の中には、DNAのタイプとしてちょっと違うものがあるという面白い研究等もあります。
私はDNAの専門家ではありませんので、またの機会に譲るといたしまして。縄文時代の終わりから弥生時代にかけて大陸から、朝鮮半島や今の中国の地域から人がやってきます。
そのような人たちは顔が長くて、面長で平べったい顔で、毛は薄い。そして目は一重ということになります。縄文人とは違っていますね。
こういう人たちがやってきて、生活も弥生時代になると、金属の道具とか水稲耕作とか、色んな形で生活も変わってまいります。
もう日本列島の人々にとっては大革命です。こういうことをもたらした人たちが、地元の縄文的な人たちと混血をしていくことになります。
そしてどんどん広がって、この人たちの特徴がどんどん後の日本列島の色んな所に広がっていくというのが、現代日本人の成り立ちの大まかなストーリーであると、大方の研究者が認めております。
南九州の古墳時代人は、ということになります。この都城盆地からえびのにかけての地域というのは、本土の縄文人みたいな感じ。都城盆地の古墳時代の人々、多様な古墳がいっぱいありますけれど、
今わかっているところでは地下式横穴墓と箱式石棺墓から出てきている人骨から言うと、本土の縄文人に近い顔つき、体つきの人たちがこの都城盆地の古墳時代の主な住民だと思います。
そして古墳時代は地下式横穴墓をはじめ、人骨がたくさん出てきます。地下式横穴墓からは非常に良好な遺存状態で古人骨が出土し、その数は宮崎県内で600体を超える。
これほど大量の古墳時代人骨資料が出土しているのは全国唯一であり、考古学のみならず人類学研究においても重要かつ不可欠な資料群と言えます。
地下式横穴墓から出土した人骨および人骨関連遺物に関する骨考古学的研究 (竹中正巳、篠田謙一他 2015)
主に大隅半島の古墳時代人骨に関する研究。5〜6世紀
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-24520873/
宮崎県などの南九州の山間部では縄文人・西北九州弥生型の人骨が弥生〜古墳時代にかけて出土することで以前より知られている(南九州山間部タイプと呼ばれる。)が、大隅半島では詳細が不明であった。
今回の研究で大隅半島に属する立地の遺跡(立小野堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)、 町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)、塚崎古墳群 19 号地下式横穴墓(鹿児島県肝付町)、飯隈古墳群鷲塚地区地下式横穴墓(鹿児島県大崎町)、
旭台地下式横穴墓群(宮崎県高原町)、地下式横穴墓群(宮崎県えびの市))で新資料が得られた。
それらの新資料を本研究で詳細に調べたところ、典型的な縄文人の特徴を持っていることが判明した。 薩摩半島の成川遺跡(4世紀〜8世紀末)では390体分に上る人骨が発見されているが、成人骨が多い・男性が多いという特徴がある。
装飾品は刀装具・刀子・やりがんななどがあり、蛇行剣・曲身剣が多く含まれるのは特異である。
人骨を調査した金関丈夫博士は「古墳時代でありながら、縄文時代人の様相に近い。北九州地方の渡来系弥生人とは非常に異なっている」
と述べているが、隼人を異人とした当時の記述と一致するものである。
南九州は、火山噴出物の厚く降り積もった土質で、水田に向いていなかったので、狩猟や漁撈と畑作を主な生業としていたと思われる。いわば自然の恵をもとめて、平穏に暮らしていたのである。
といっても既に、王子遺跡や釘田遺跡をはじめ、この地方の河川の流域等では、弥生時代から水稲耕作が行われていたことは明白で、狩猟や漁撈と畑作のみが行われていたということではない。
弥生後期200年の南九州の人口は六万五千人とされており、それは当時の日本列島の総人口六十万一千五百人の一〇%になり、全人口に占める割合は、他の時代と比べると驚く程高かった。
なお、当時の住居跡についての調査に依れば、その数からみて、南九州では古代の成立期から古墳前期にかけて人口は大幅に増加したものと考えられている。
第一章で述べた通り、四世紀以後にも地下に穴を掘って埋葬する地下式墳墓制度をとっていたことは、北九州地区や近畿地区と大いに異なっているが、これを単純に先進地帯の北九州・近畿より遅れていたとのみ評価してはならない。
いわば南九州の人々は当時の技術によってこの土質にふさわしい生活様式を生み出していたのであり、当時南九州の人々は、それなりに平穏な生活を満喫していたのである。
それ故に、人口も大幅に増加したのであった。(吉田町郷土史-鹿児島市) 東北学院大学 文学部歴史学科 辻秀人 教授
ところで、南九州の動向は東北地方とは対称的である。成川式の長時間にわたる変化の過程は近年の研究の成果でさらに明らかにされてきている。
それによれば成川式土器は弥生後期以来時間とともに少しずつ変化しながら台付鉢、大型壺が存続し、古墳時代に地域の中で変容した土師器小型壺、器台など小型精製器種が共伴するという。
このような事実は、成川式の分布する南九州では文化あるいはそれを営む人々の移動や交代はなく、一貫して伝統的な生活を営む人々が古墳文化に同化することなく暮らしていたことを示している。
南九州では強固な地域社会が形成され、古墳時代から古代にかけて維持されていたのだろう。これほど長期にわたって地域の伝統が保持される例を私は知らない。
成川式はこの地域に存続した強固な地域社会によって生み出され続けた土器で、人々の暮らし方を物語る大変良好な資料と思われる。
今後さらなる研究の進展によって地域の様相がさらに明らかにされることを期待したい。 西日本の4世紀(300年代)は404年に日本書紀と半島に同一の記述がある高句麗への出兵の下準備期間(広開土王碑)と見るのが妥当
何故景行と仲哀、神功が九州に拠点移したか、それは九州の広いエリアがヤマト政権へ反逆してたからそのものである
それは南九州とは言わず福岡の朝倉小郡久留米が拠点であり、福岡市内にも同調する勢力が多かった事が容易に想像出来る(土蜘蛛やクマソ,クマソは隈で福岡に地名多数)
528年に八女で磐井の乱が起こるまで400年近くヤマトと九州は戦争をしていたと考えられる 邪馬台国とは関係ないけど
奴国の金印がほぼ完璧な状態で田んぼだか畑から見つかったってのはアレ信用できるの? >>973
江戸時代末期、後漢の金印、しかも文字がイマイチ解読不可、「漢委奴国王」と倭では無く委となってる奴国というのもある、漢は奴国へ委任したとも取れる
こう言う難解なレプリカ作るとは思えないからホンモンと思うよ! >>110
文字がないののどうやって中国の皇帝に使いを出すのさw
しかも、魏志倭人伝の時代だけじゃなくて、漢の時代や周の時代にも倭人は来てると書かれてる。
いろんな民族が入れ替わってると書かれてる朝鮮半島と違い、一貫して「倭人が」と認識されている。
おっと、半島の南部、南端は倭人がいると書かれているけどな。
中国の国家が認識しているのは、半島の南端と日本列島に倭人がいて、長期にわたって中国の皇帝に朝貢しているということだ。
昔は多くの国に分かれていたのが、30になり、そしてどうやら国がまとまってきてるらしいと。
空白のなんちゃらは、石碑が出てきたじゃん。それにそのころのことは古墳時代前期だ。
中国の史書になければ空白ってw
奈良に山のようにある古墳を知らんのかよ。
古墳て箸墓古墳と仁徳陵しかないとでも思ってんのかね。 そもそも当時の南九州は別にヤマト政権と対立するほどの動機インセンティブは無いよ、元々南九州は当時から福岡の奴国に従属的だったのだから、その支配者が奴国からヤマトに変わったくらいで心情的に大きなデメリットは感じてないと思う
やはり狗奴国は福岡のヤマト政権への反乱勢力としか思えないんだよね、彼等が福岡に極めて近い朝倉、久留米、八女、隈元の菊池に拠点持つと言うのは自然と思う >>973
Wikipedia知識だと「偽造の可能性も否定できないが、真正と考える方が合理的な状況がかなり多い」みたいよ。 >>46
その「朝鮮半島」の一番文明が最先端な地点だった楽浪郡が今の平壌だから仮にそっからなにか出土したとしても北朝鮮に都合の悪いもんだったら隠蔽されるんだよなあ 九州の邪馬台国を支えた国々はヤマト側についた
ヤマトに鞍替えした時期が違うのが
後世に決められた国造りの任命時期の記録に反映された
九州の野蛮なババア祈祷師の土人を成敗したぜみたいな記録ないかな それ程、九州で卑弥呼に信頼あった訳では無いよ、仕方なく擁立したのだろう、卑弥呼は九州と半島の両方にルーツがあったと思われるから、だから九州とヤマトに中立とされた、後継が豊であるから豊の国大分に拠点あったと思うがね、まあ常識的な観点はサヨクにはなかなか受け入れられないだろうが 呉の国の内戦を逃れた大陸の人間が九州の南端へ漂着
その後、瀬戸内海を渡り畿内へ移住
それが後のヤマト王朝 金印だけど、漢が委任した奴国王へと言う解釈はないの?「漢委奴国王」 >>961で引照した調査では弧文板が、また纏向石塚古墳の周溝から弧文円板が出土している
弧文円板
https://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/makimuku.html
https://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/images/makimuku.jpg
箸墓古墳からは特殊器台(円筒埴輪につながる)も見つかっている。楯築遺跡の弧文帯石や同地域の特殊器台からも、弥生終末期の吉備の葬祭儀礼影響と纏向とのつながりを推定させる
箸墓古墳の造営時期が弥生終末期にかかる時期であったことをよく示している 南九州とは九州山地より南
つまり鹿児島宮崎を指す
成川式土器が出土したのは鹿児島県指宿市(旧山川町)
ブラタモリ最終回で出てたね >>986
ほんとか?
漢が委任した奴国王
漢委奴国王 弥生時代の三種の神器(剣、鏡、勾玉)
が同じ墓からセットで出土した遺跡
年代順 遺跡名 所在地
1. 吉武高木 福岡市西区・・・弥生初期
2. 三雲南小路 福岡県糸島市
3. 井原 福岡県糸島市
4 須玖岡本 福岡県春日市
5 原の辻 長崎県壱岐市
6. 七ケ瀬 佐賀市大和町・・・弥生末期
7. 平原 福岡県糸島市・・・弥生末期
※三種の神器は弥生末期まで北部九州でしか出土していないので
神武東征は弥生末期以降となる。 >>988
三種の神器はすでに奈良にいた神武一族が漢から委託された奴国王から盗んだのでは?
そんな気がする 日継ぎと櫃のダジャレみたいなことを平原1号墓の葬儀でやってたんじゃないかという話は歴史ヒストリアが取り上げていたな
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html 卑弥呼の女王国は北九州の地域にあった というのも対馬にしろ壱岐にしろ伊都にしろせいぜい市や町レベルの大きさの国なわけ ちょうど北九州の地域にはまるのである じゃなくて奈良県にあったとすると国の単位が小さすぎると言えよう あんまいっちゃいけないけど大阪万博にかぶせてきてるな >>991
北九州って普通は北九州市の事言うから、それに文章意味不明だぞ
キミの場合はサヨクの学校で昔習った事鵜呑みにしてるように見えてしまう
福岡の地名とかキミ一切知らんでしょ?九州弁も多分知らない筈 卑弥呼の支配してた国って30ヶ国ぐらいだよな でその国の規模が今で言う市や町のレベルならちょうど北九州の地域で収まるだろ 近畿に首都があるなら国の数が足りなくなると思います >>993
北部九州だよ めんどくせーな
わかってるだろ クニというのが律令の国とかじゃなくて
豪族・部族のテリトリーっぽいんだよな 西暦200年人口推定
陸奥: 2万9000
出羽: 5000
北関東: 3万9000
南関東:6万
北陸: 2万1000
東山: 8万5000
東海: 5万4000
畿内: 3万
畿内周辺: 7万
山陰: 1万8000
山陽: 4万9000
四国: 3万
北九州: 4万1000
南九州: 6万5000
総数60万
鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」2000年
各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
なお、池田の扱っている古墳時代の人骨の多くが5世紀以降のもの。 このスレッドは1000を超えました。
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