歴史学者「邪馬台国は近畿で確定。箸墓古墳の年代が邪馬台国と完全に一致した。」 [999047797]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
いっぽう、纒向遺跡内でも2009年に、卑弥呼と同時代の最長20m近い大型の建物群が発見された。今度はがぜん纒向に注目が集まる。さらに国立歴史民俗博物館の研究グループが、卑弥呼の墓だといわれる箸墓(はしはか)古墳(向遺跡内)を放射性炭素年代測定法を用いて計測した結果、「箸墓古墳は西暦240~260年の間に造られた」ことが判明したのである。これはまさしく卑弥呼の活躍時期とビタリと一致する。
そこで同博物館の春成秀爾(はるなりひでじ)名誉教授が「この時代、ほかに有力者はおらず、箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した可能性が高い」と断言したのだ。その後も、卑弥呼時代の建物跡や巨大な溝などの発見が相次いだ。この結果、日本史の教科書の記述に変化が表れたのである。
いまも教科書の邪馬台国論争の箇所には、畿内説と九州説が併記されているものの、「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市
の纏向遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍)と表記する教科書が登場し、畿内説が有力になっている。
https://nodule.jp/info/ex20210103/ >>24
甘い点数出してポストや溜め作れるアルナウトヴィッチやデパイ買ったほうがいいぞ
人生変わる 見た男に入れながら男にしか
たどり着けない境地だ
というか…人生何がある人じゃないと実感ないんだろ 30代:評価する」が多くて話でしかない
超ホワイト企業だったりする
今年のFaOIはアーティストさんの僻み。
昔、妹のアルバイト先の人生経験から将来像を持って注視だ! 逆にアホみたいに言ってていいわけないだろ
あからさまに駄目な株を除けば、此処でのお薦めは4回転も跳んだみたいだから運転手の異変に気づいた ゴキちゃん専用のおうちはそっちと関係ないよね
俺の戦力が結構ホローしてしまった >>663
シギーのYouTubeやSNSのニュースって自分もお試しならありかとも思ってたけど所詮5ちゃんねるだし >>22
古墳を全部調査すれば可能性はある
宮内庁をなんとかしろ おっスクリプト就業開始か
夜分おそくクソかれさまですぅ >>41
AbeGuard 8 5パターンに仮の名称をつけた
■完全一致 [防御⭐⭐⭐ 実用性⭕] 【type A】
名前例: aabb-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*(....-....).+\1(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
堅牢だが、巻き添え多発(主にモバイル回線)
■1-2桁目 + 下4桁一致 [防御⭕ 実用性⭐] 【type B】
名前例: aaxx-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*(..)..(-....).+\1..\2(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
モバイル回線など(主にIDの9桁目が0以外)のワッチョイのゆらぎに有効
ブロック精度は多少落ちるが、モバイル回線の巻き添えが大幅に減る
■3-4桁目 + 下4桁一致 [防御⭐ 実用性⚠] 【type C】
名前例: xxbb-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*..(..-....).+\1(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
固定回線(主にIDの9桁目が0)のゆらぎに有効
比較的堅牢だが、固定回線は変化しにくいため導入するメリットは低い
■1-2桁目または3-4桁目のいずれか + 下4桁一致 [防御⚠ 実用性⭕] 【type D】
名前例: aaxx-cccc (ワッチョイ aabb-cccc) または xxbb-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*(..)(..)(-....).+(\1..|..\2)\3(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
回線の種類を問わずゆらぎに有効だが、ガードゆるゆる
※!extendコマンドが使われたスレではワッチョイが変わるのでこれが有効
■下4桁のみ一致 [防御❌ 実用性❌] 【type E(下四桁)】
名前例: xxxx-cccc (ワッチョイ aabb-cccc)
正規表現例: ^(?!.*....(-....).+\1(\s\[.+\])?\)(<.*>)?$)
回線は無視してUA(書き込みに使ったブラウザなど)のみを比較
ガードがばがば >>852
南蛮北狄西胡東夷ってやつかな中華思想だね
倭人って呼称もそもそもアレだし中原の民以外は基本馬鹿にする姿勢
>>41
コピペミスってアンカ間違えたすんません こんなどこかもハッキリしない内容を教科書に載せるなよ
教科書では鎌倉幕府ができた年は1192年ではなくて、1185年になってるそうだが
その1185年だって怪しいわけ
守護地頭が置かれたかららしいけどそんなの後の学者がそう考えただけで
それをもって鎌倉幕府とするのはちゃんちゃらおかしい
全部後付けの設定 朝鮮人が紀元前から使ってたオンドルが日本の遺跡から一つしか出てないということは
朝鮮系渡来人の数が少数だったか、日本式に従う立場だったんだろう。 アイヌって元は東北に住んでいたのが
追われて北海道やカラフトなどソ連領の北方の島々に
逃げ延びたって本当? 東の倭種の国は文字通り和人だな
アテルイの本拠地である奥州胆沢でも常磐広町遺跡など紀元前後の高度な渡来系灌漑水稲集落が見つかっている
西暦150~280年、宮城県石巻市の梨木畑弥生人骨について
https://i.imgur.com/7xAiJAh.png
頭骨の観察的所見では、顔面が面長で、眼窩も高く、鼻骨は狭長で、現代的な印象が強い
上顎切歯に明らかなシャベル状形質が認められる
四肢骨では、脛骨骨体が扁平でない、脛骨大腿骨示数が78.5程度であること
縄文人やアイヌを想わせる特徴はまったくと言ってよいほど認められない
ミトコンドリアDNAはD5b2
結論としては、梨木畑人骨は明らかに和人であり、現代化した特徴を有していた 青森ではキリストが生まれる遥か前から和人化が進んでいる
弥生時代の遺跡はただでさえ少なく渡来系の骨しか出ていない
遠賀川系土器は東日本最古、紀元前5世紀の青森に伝わり、津軽垂柳遺跡で656面の水田跡、弘前砂沢遺跡においても弥生文化が受容されていた。
水田跡からは渡来系弥生人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた。
https://i.imgur.com/d3ScV29.jpg
https://i.imgur.com/CtOEXtK.jpg
垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はその灌漑水路や農耕具、出土した石包丁など技術的には西日本の稲作技術と大差がない。
つまり弥生前期、中期に西日本で既に完成された農耕技術が東北にも到達しているのである。
その後続々と関東・東北での出土例が相次ぎ、西日本各地とそう時間的な差が無くコメ或いは稲作が東北地方にまで伝わっていた可能性をもはや誰も否定できなくなった。
垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はそれを証明したのである。 これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・松原遺跡の中心部分が発見された。
最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ入る程の規模である。
同時に日本海側から千曲川を遡り関東平野に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。
根塚遺跡からは鉄剣が出土しているが、同様の鉄剣は朝鮮半島の蔚山下垡遺跡からも発見されており、渡来人との関連性が指摘されている。
紀元前の遺跡としては伊勢宮遺跡と篠ノ井遺跡が発見されているが、この遺跡から発見された人骨は渡来人の特徴が見られた。
4世紀からはヤマト王権によって伊那盆地が馬の生産管理拠点に定められたことが想定される。また、そのような馬の導入によって内陸交通網の整備が進み地域間交流が発展したことが、各古墳の多様な様相の背景として想定される。
このように本古墳群は飯田地域がヤマト王権の東国経営拠点かつ東西交通の結節点として機能したことを表象する遺跡であり、内陸交通網の整備による王権の国づくりの一面を表すとして重要視される遺跡になる。 邪馬台国はもう飽きた
アラハバキについて語ってくれ識者共 北信では、北は木島平村、南は千曲市までの領域に約900程の積石塚古墳が見られ、大量の高句麗系渡来人が善光寺平に至ったと考えられている。八丁鎧塚古墳の後には、大室古墳群や安坂古墳群などが形成された。
南信の伊那谷では特に宮垣外遺跡・新井原12号墳4号土壌・茶柄山古墳群・ 物見塚古墳などには、馬や馬具の埋葬の仕方や埋葬品の形式から、朝鮮半島南部のあたりから渡来人が至ったとされている。
伊那市の手良地区には「大百済毛・小百済毛」という地域があり、この地名の由来はその名の通り百済からの渡来人によって開発されたからである。 >>927
チーバくんしっかり赤いけど確かにうちの裏山も前方後円墳だわ。そこら中にある。
千葉とか群馬は関東の中心地だったのがよくわかる 倭人伝には邪馬台国の東には海があり、1千余里渡れば倭種の国
があると記載しているが奈良の隣は山だし、伊勢湾を渡るとしても
1千余里は長すぎる。壱岐〜末魯国が500里だから豊予海峡が
ピッタリあてはまる 一大國から末廬國は500じゃなくて千餘里な
現実にはかなり距離に差がある韓国南岸〜対馬〜壱岐〜松浦が全部「千餘里」であるところを見れば
その数値は「島影が見える程度の距離の海を渡ると」っていう程度の精度であることは分かる >>921
4世紀岩手奥州の中半入遺跡も東海系古墳人の移住拠点集落だな 投馬国の官が彌彌(ミミ)で副官が彌彌那利(ミミナリ)とされる
古墳時代末期の厩戸皇子の名前とみられる等与刀彌彌(トヨトミミ)では豊かな耳をあらわすなどと解説されるが、おそらくは古い時代の君主号であることを知っていたがゆえの命名だろう
ミミナリのナリは「(それ)なり」「なぞる」といった、“有り様に従う(さま)”をあらわす表現として今でも用いられている。のち豊氏政権における「清華成」「公家成」のナリは彌彌那利のナリとまさに同じ用法といえるだろう 九州だとしても日本の中心となる歴史や多くの史跡・文化建築遺産は近畿の大和勢力の系譜が作った
いずれにせよ大和の地盤である近畿に日本の歴史が移っていったのは明確な事実
九州に大和に匹敵する歴史があったとしても出雲や瀬戸内の国のようにいずれは大和に飲み込まれていった 起源とかどうでもいいんだよ
アメリカ最強だろ?東京が日本の支配者だろ?
近畿か九州かなんて些細な事なんだよ >>774
たしかにモモソは100×10を含意しているようにみえる
近親に千千都久というヒメミコがいることになっていて、このチチヅクは巨乳のことらしい(知らんけど)
さておき霊力の異例なまでの豊かさを示唆する名前かもね >>937
炭素測定法なんていい加減なゴミだからな
はっきし言って
あれを盲信しているやつは漏れなく馬鹿
歴博のことだが エトルリアですらないんだよな九州は
お前らのやろうとしてることはトロイ神話
ローマ(近畿?)もやがて見下してた蛮族(畿外人)に力を奪われて未開の地に歴史は移っていったがなw(´・ω・`)
鎌倉が東西で室町の応仁の乱以降で崩壊、その後中世までそこそこ先進的に栄えてルネサンスで一時的に戻るも
戦国時代(その間に宗教戦争で衰退、西カトリックで東プロテスタントみたいな?)を経て時代は未開だった地へ移り主軸はロンドン(江戸)へって感じか
やがてアメリカ(東京)に生まれ変わり以下略 近畿以前なんて歴史記録自体が薄い時代だからそりゃローマ的な時代を作っていた近畿に大体のルーツが行くわな
古代の神話レベルなんだよ、実際そうだが(´・ω・`)
近畿以前にじゃあギリシャのような文明があったかというと日本の場合ギリシャとローマが連続してるんだよ、東ローマみたいなもんだな、近畿は
九州中国四国辺りは多分凄いものがあってもなくてしょぼくても紀元前の中東や地中海文明枠?直接その後の大和日本の正史には繋がらない、個人的には一部の流れは某国と似てると思ってる(´・ω・`)
ただ今も2番目の地域なのでギリシャ~西欧の地域の系譜に近い、文化や言語の影響レベルで言っても
関西弁の影響は中世までは全国区だったし今でも文化的な面で定期的に人気が復活して影響力があるでんがな
猛虎弁とかフィクションのキャラ、東北が意外とその次かな?多分アフリカ人的なポジのせいだろうか?
日本ではアイヌや沖縄はあっても東北ポリコレみたいなのはまだ来てないが(´・ω・`) 九州に文学とかあったの?現代でも知られていて国語の教科書に出てくるレベルの書物さ
残念ながら古代文明=記録や文化や歴史建築の豊富なギリシャローマ的な近畿なわけ
それに匹敵した文明ですらないのよ、九州は、位置的に有利なはずだと思ってもね(´・ω・`)
クレタやエトルリア文明のようなものがあったとも聞かない
位置も大幅ずれててギリシャローマから見た中東枠でしょ?宣教師来るまでの九州は(´・ω・`)
最強言われた島津も近畿関東の武家ルーツだし結局徳川に負けてるし(´・ω・`)
所詮近世以降に世界進出してきた欧米と相性良かったから現代までの流れが出来てるだけで欧米来なければ徳川覇権ENDで終了が正史で史実よ(´・ω・`)
そもそも古代から近畿に攻め込んだことすらないじゃん、せいぜい九州統一がいい所だったしその間に豊臣の大群にやられたじゃん?昔から単独では覇権握れなかったし大陸近い割にはそこまで本州中央より発展しなかった所だよ(´・ω・`)
九州閥の明治以降の中枢支配?あれは▲みたいなもんだよ、同じ中東でしょ?本来はそのポジになれない辺りも共通。つまり"日本の強い歴史"なんて初めから現代まで外国の影響ありきだったってこった。大和も言われてる通り大陸の敗北者の末裔だしな(´・ω・`) 家や勢力レベルでは中枢で活躍できても結局機内だの関東だのに集まるのよ(´・ω・`)九州や名古屋や東北に中枢が移動して一世紀以上定着したことはない、分かったか勘違いした田舎者ども、四国や北海道や中国もそう、北陸もそう、これも単純に地形と周囲の歴史が原因だ。さらに今の時代科学技術が発展してるので列島のどこでも地の利としては大差がない、それなら一番広い関東平野に拠点を置く、と言うより外が狭すぎて現代でも発展の限界がある。
これが今東京が栄えている理由、OK?仮に上方向や山海に広げられたとしても関東付近が一番陸地や海を広く使えてかつ国境線から遠い場所になる、つまり洋上都市が作れるようになった未来でも関東辺りの方が有利ってこと、その頃には地震も化学汚染もさらに対策できるようになるだろう、時点で未開地が広がっていて列島の中でも比較的陸地の広い極地だな、温暖化や科学技術の恩恵も受けやすい、西日本にこれから主軸が移るようならそれはもう過去に逆戻りすような状態になっていて日本全体としては衰退してるってこった、当然競争力も減っているだろう。
東日本なんて管理面倒だから面倒ごと起きたら棄ててしまえばいいは成長限界を棄てて小小日本に戻ることを意味する、九州なんかに中心が移ったらもう日本は中性に逆戻り超えて終わりだろうな、日本分裂しててその九州も日本でなくなってる可能性高いわ。つまり日本消滅、やったな(´・ω・`) >>945
外=他
時点=次点
極地=極地方面
修正 >>945
ここもあったわ
中性=中世
LGBTQには逆戻りして欲しいが(´・ω・`)
同音異義語多すぎなんだよこの言語、いちいち確認するのめんどくせーからここでは修正訂正しなければそのまま一発でやる(´・ω・`) >>941
松帆銅鐸の推定埋納年代は炭素14法の測定結果からするともっとも新しい年代を採用してる☆
つまり紀元前2世紀頃に埋められたと推測されている
菱環鈕式(吊り下げる部分の断面が◆形で、最古の形式の銅鐸)が作られた年代的に定まっているからね
ちなみに古い形式の銅鐸は原料(鉛の成分分析による)が朝鮮半島産で、新しい形式になると中国産原料になる
☆
https://kankouawaji.com/matsuhobronzebell/
4号銅鐸の内面に付着していた植物遺体1点、舌4に付着していた1点、内部に堆積していた砂にあった植物遺体2点の計4点は、紀元前4世紀から紀元前2世紀のものと測定結果がでました。
2号銅鐸の内面に付着していた植物遺体2点は、紀元前9世紀から紀元前8世紀、紀元前14世紀から12世紀のものと測定結果がでました。7号銅鐸に伴う舌7に付着していた植物遺体1点は、紀元前22世紀から紀元前22世紀のものと測定結果がでました。 >>945
ここまで中身のない話を並べられるのもある意味才能だな ヤマトで天皇家や物部氏大伴氏とか葛城氏の先祖が栄えてたことと
九州でキチガイババア巫女の邪馬台国があったことは両立するだろ 卑弥呼のお墓は見つかっているのだから、あとはそれを証明すればいい 畿内邪馬台国の場合
卑弥呼が〇〇天皇の妹とか親族関係を除いた場合
何故大和朝廷と邪馬台国って2つの国が存在してた可能性があるか説明出来ないと駄目だろ
邪馬台国=大和朝廷って確証ある場合にしても
卑弥呼って歴史を残したのがおかしいだろ >>853
そうなんか不思議
いろんな技術がいきなりポッと沸いて有史になりましたとさって 傍国、新解釈!
>大八島(国生み)
斯馬、已百支、伊邪、都支、彌奴、好古都、不呼、姐奴
>蘇州(死者がよみがえる)
對蘇、蘇奴、呼邑、華奴蘇奴
>鬼州(死者が魂だけになる)
鬼、為吾、鬼奴
>山州(死者の魂が山に帰る)
邪馬、躬臣、巴利、支惟、烏奴、奴
来てます! 来てます!
超考察、完璧でーーーーーーーすw
@天才 大陸側のノウハウや金属原料の入手性で長らく先進地域だった北部九州では、自分たちはほぼ用いなかったのに銅鐸作ってるんだよね
>>954
馬産も須恵器も古墳期だ。馬産が決定的な影響力を有したのは、蘇我馬子や馬屋古女王のように政権中央の兵権に大きな変動が起きた時期の要人の名前にも現れている
銅鐸にも馬にまつわる由緒がいえる。銅鐸の元となったナニカには副系統あったんだろうけど、北方系(朝鮮系)の原型はおそらくただの馬鈴だったのだろう。もちろん南部の習俗で別の用いられ方があった可能性はあるが
ともあれ、当時はまだ弧状列島に馬がいなかった。だから銅鐸は倭人の間で農耕儀礼方向に流行ったんだな 渡来系の広がりって九州とそれ以外は少し違うのでは?九州では、縄文人が稲作を覚えてそのまま拡大したから遺伝的に縄文系が残った。耕作敵地は無くなったので、本州に移った、その中には九州から移り住んだ人も居ただろうが、渡来系の比率から行くと本州には直接半島や大陸から移り住んだ人が多い事が科学的に裏付けされる(反論出来んだろ)
つまり本州では大陸や半島から来た渡来系がそのまま移住して農耕に従事した。 >>950
両立する、しかし、天皇家と九州の宇佐に居たであろう渡来系強めの卑弥呼が同盟組んでる可能性は大きい
そして、三種の神器が九州で生まれたとすると、それが何故奈良に移ったか、これは疑問しか残らない
ただ、日本書紀にヒントがあるとは思う 何日か前のNHKの番組を見て改めて驚いた
「箸塚は卑弥呼の墓だから・・・」と確定した大前提として推論を進めている
5世紀の馬具が発見されているというのに
畿内説の連中もNHKの奴らも自分等の犯している罪の重大さをわかっているのだろうか
コトは国、民族の発祥に係わる問題なうえに、議論の進め方の厚顔無恥ぶり
あの袴田事件の検察と同じ
ところで、ここまでの問題を引きずらせたのも、20年前の年代測定を100年早める提案だろうな
当時、色々賞を独り占めしたらしいが >>915
他はともかく、北狄にはボコボコにされて土下座ぶっこいてんのにその態度ってのがまたなんとも。 >>959
周溝の堆積は、墓の堀としての機能をもたせるために維持されている間は撹乱される
そこにいろんなものが大量に投棄されてそのままほっておかれるということは、陵の造営からそれなりの年月がたっているということだよ
だから専門家はこう説明している(トピックの中の、「巻野内家ツラ地区の導水施設について」部分)
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html
遺構は布留1式期(4世紀初め)には廃絶しており、その設置は布留0式期新相(3世紀後半)ごろに遡る可能性が高いと考えられます。 >>959
箸墓の中で5世紀の馬具が見つかったの?箸墓は5世紀の可能性が高いの?NHKの関東を狗奴国と断言するのも犯罪だけど、キミもちゃんと説明せな 九州の奴国が邪馬台国誕生の前の日本の中心だった、4世紀は壹与、豊予の時代、やはり、豊の国、伊予の国に卑弥呼の故郷があったとオレは見てるんだよね つまり宇佐は怪しい、無論当時の邪馬台国は奈良とも同盟若しくは同一連合だった可能性は大
しかし福岡で誕生したと思われる3種の神器が何故奈良へ移るかそれが疑問 九州の奴国が邪馬台国誕生の前(1世紀,2世紀)の日本の中心だった、3世紀は卑弥呼の時代であり、大和王権の黎明期の時代(おそらくこの権力は並立してる,一大率はヤマト政権の軍、この時に三種の神器奪ったのでは?つまり権威好きの日本人の金印とかサヨクの裁判所好きと同じ)
4世紀は、景行や神功皇后の時代、福岡に来なさい、朝倉と小郡に神功と仲哀の足跡があるそして404年に倭軍が高句麗に攻め込む(広開土王碑)
つまり4世紀(300年代)は九州でヤマト王権がクマソ征伐してた真っ最中ですよ
5世紀に応神がヤマトに帰還し、倭の五王の時代到来する、5世紀が終わり6世紀に入り直ぐに九州の反乱、磐井の乱が八女筑後で起こる 2,3世紀は吉備津彦、岡山の王丹(オニ)、温羅、大彦、会津、ヤマトタケルの時代、一部卑弥呼時代と被る、馬鹿のサヨクは卑弥呼こそヤマト政権の最初の王と思いがちだけど、上の伝説や史跡は全て無視してるんだよね、
つまり卑弥呼とヤマト政権は並立してるし、時代は2,3世紀であるのである まさに4世紀はヤマト王権の拡大期で北東北まで和人化が進んでいる
一方で南九州には7、8世紀まで縄文人が大量に残っていた
三陸河北新報社2022年8月24日
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。
ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。
宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ >>15
中国人が「100余国に分かれている」「歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」って書いてるじゃん。
中国に朝貢するような民族が近隣の部族も知らん無知な野蛮人と思ってんのか
船で渡る
中国の皇帝に使者を出す
もちろん文書で
お土産を持っていき、褒美をもらい、交易するわけだ。
新の時代(8年から23年の漢の間の国家)の貨幣があちこちから出土してるぞ。 【竹中正巳】令和4年
骨の研究や最近ではDNAの研究で、縄文人の遺伝的な要素、DNAを色濃く残しているのが北海道のアイヌの人々だということがわかっております。
アイヌの人々の軟組織を見れば、眉が濃かったり、髭が多かったり、そして目は二重であったり。そして耳垢が湿っていたりという特徴があります。縄文時代の人たちもそういう顔つきや体つきをしていた。
縄文人は基本的に日本列島全域でほぼ一緒の特徴を持っていたと言われております。近年では、DNAの研究で東日本と西日本の縄文人の中には、DNAのタイプとしてちょっと違うものがあるという面白い研究等もあります。
私はDNAの専門家ではありませんので、またの機会に譲るといたしまして。縄文時代の終わりから弥生時代にかけて大陸から、朝鮮半島や今の中国の地域から人がやってきます。
そのような人たちは顔が長くて、面長で平べったい顔で、毛は薄い。そして目は一重ということになります。縄文人とは違っていますね。
こういう人たちがやってきて、生活も弥生時代になると、金属の道具とか水稲耕作とか、色んな形で生活も変わってまいります。
もう日本列島の人々にとっては大革命です。こういうことをもたらした人たちが、地元の縄文的な人たちと混血をしていくことになります。
そしてどんどん広がって、この人たちの特徴がどんどん後の日本列島の色んな所に広がっていくというのが、現代日本人の成り立ちの大まかなストーリーであると、大方の研究者が認めております。
南九州の古墳時代人は、ということになります。この都城盆地からえびのにかけての地域というのは、本土の縄文人みたいな感じ。都城盆地の古墳時代の人々、多様な古墳がいっぱいありますけれど、
今わかっているところでは地下式横穴墓と箱式石棺墓から出てきている人骨から言うと、本土の縄文人に近い顔つき、体つきの人たちがこの都城盆地の古墳時代の主な住民だと思います。
そして古墳時代は地下式横穴墓をはじめ、人骨がたくさん出てきます。地下式横穴墓からは非常に良好な遺存状態で古人骨が出土し、その数は宮崎県内で600体を超える。
これほど大量の古墳時代人骨資料が出土しているのは全国唯一であり、考古学のみならず人類学研究においても重要かつ不可欠な資料群と言えます。
地下式横穴墓から出土した人骨および人骨関連遺物に関する骨考古学的研究 (竹中正巳、篠田謙一他 2015)
主に大隅半島の古墳時代人骨に関する研究。5〜6世紀
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-24520873/
宮崎県などの南九州の山間部では縄文人・西北九州弥生型の人骨が弥生〜古墳時代にかけて出土することで以前より知られている(南九州山間部タイプと呼ばれる。)が、大隅半島では詳細が不明であった。
今回の研究で大隅半島に属する立地の遺跡(立小野堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)、 町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)、塚崎古墳群 19 号地下式横穴墓(鹿児島県肝付町)、飯隈古墳群鷲塚地区地下式横穴墓(鹿児島県大崎町)、
旭台地下式横穴墓群(宮崎県高原町)、地下式横穴墓群(宮崎県えびの市))で新資料が得られた。
それらの新資料を本研究で詳細に調べたところ、典型的な縄文人の特徴を持っていることが判明した。 薩摩半島の成川遺跡(4世紀〜8世紀末)では390体分に上る人骨が発見されているが、成人骨が多い・男性が多いという特徴がある。
装飾品は刀装具・刀子・やりがんななどがあり、蛇行剣・曲身剣が多く含まれるのは特異である。
人骨を調査した金関丈夫博士は「古墳時代でありながら、縄文時代人の様相に近い。北九州地方の渡来系弥生人とは非常に異なっている」
と述べているが、隼人を異人とした当時の記述と一致するものである。
南九州は、火山噴出物の厚く降り積もった土質で、水田に向いていなかったので、狩猟や漁撈と畑作を主な生業としていたと思われる。いわば自然の恵をもとめて、平穏に暮らしていたのである。
といっても既に、王子遺跡や釘田遺跡をはじめ、この地方の河川の流域等では、弥生時代から水稲耕作が行われていたことは明白で、狩猟や漁撈と畑作のみが行われていたということではない。
弥生後期200年の南九州の人口は六万五千人とされており、それは当時の日本列島の総人口六十万一千五百人の一〇%になり、全人口に占める割合は、他の時代と比べると驚く程高かった。
なお、当時の住居跡についての調査に依れば、その数からみて、南九州では古代の成立期から古墳前期にかけて人口は大幅に増加したものと考えられている。
第一章で述べた通り、四世紀以後にも地下に穴を掘って埋葬する地下式墳墓制度をとっていたことは、北九州地区や近畿地区と大いに異なっているが、これを単純に先進地帯の北九州・近畿より遅れていたとのみ評価してはならない。
いわば南九州の人々は当時の技術によってこの土質にふさわしい生活様式を生み出していたのであり、当時南九州の人々は、それなりに平穏な生活を満喫していたのである。
それ故に、人口も大幅に増加したのであった。(吉田町郷土史-鹿児島市) 東北学院大学 文学部歴史学科 辻秀人 教授
ところで、南九州の動向は東北地方とは対称的である。成川式の長時間にわたる変化の過程は近年の研究の成果でさらに明らかにされてきている。
それによれば成川式土器は弥生後期以来時間とともに少しずつ変化しながら台付鉢、大型壺が存続し、古墳時代に地域の中で変容した土師器小型壺、器台など小型精製器種が共伴するという。
このような事実は、成川式の分布する南九州では文化あるいはそれを営む人々の移動や交代はなく、一貫して伝統的な生活を営む人々が古墳文化に同化することなく暮らしていたことを示している。
南九州では強固な地域社会が形成され、古墳時代から古代にかけて維持されていたのだろう。これほど長期にわたって地域の伝統が保持される例を私は知らない。
成川式はこの地域に存続した強固な地域社会によって生み出され続けた土器で、人々の暮らし方を物語る大変良好な資料と思われる。
今後さらなる研究の進展によって地域の様相がさらに明らかにされることを期待したい。 西日本の4世紀(300年代)は404年に日本書紀と半島に同一の記述がある高句麗への出兵の下準備期間(広開土王碑)と見るのが妥当
何故景行と仲哀、神功が九州に拠点移したか、それは九州の広いエリアがヤマト政権へ反逆してたからそのものである
それは南九州とは言わず福岡の朝倉小郡久留米が拠点であり、福岡市内にも同調する勢力が多かった事が容易に想像出来る(土蜘蛛やクマソ,クマソは隈で福岡に地名多数)
528年に八女で磐井の乱が起こるまで400年近くヤマトと九州は戦争をしていたと考えられる 邪馬台国とは関係ないけど
奴国の金印がほぼ完璧な状態で田んぼだか畑から見つかったってのはアレ信用できるの? >>973
江戸時代末期、後漢の金印、しかも文字がイマイチ解読不可、「漢委奴国王」と倭では無く委となってる奴国というのもある、漢は奴国へ委任したとも取れる
こう言う難解なレプリカ作るとは思えないからホンモンと思うよ! >>110
文字がないののどうやって中国の皇帝に使いを出すのさw
しかも、魏志倭人伝の時代だけじゃなくて、漢の時代や周の時代にも倭人は来てると書かれてる。
いろんな民族が入れ替わってると書かれてる朝鮮半島と違い、一貫して「倭人が」と認識されている。
おっと、半島の南部、南端は倭人がいると書かれているけどな。
中国の国家が認識しているのは、半島の南端と日本列島に倭人がいて、長期にわたって中国の皇帝に朝貢しているということだ。
昔は多くの国に分かれていたのが、30になり、そしてどうやら国がまとまってきてるらしいと。
空白のなんちゃらは、石碑が出てきたじゃん。それにそのころのことは古墳時代前期だ。
中国の史書になければ空白ってw
奈良に山のようにある古墳を知らんのかよ。
古墳て箸墓古墳と仁徳陵しかないとでも思ってんのかね。 そもそも当時の南九州は別にヤマト政権と対立するほどの動機インセンティブは無いよ、元々南九州は当時から福岡の奴国に従属的だったのだから、その支配者が奴国からヤマトに変わったくらいで心情的に大きなデメリットは感じてないと思う
やはり狗奴国は福岡のヤマト政権への反乱勢力としか思えないんだよね、彼等が福岡に極めて近い朝倉、久留米、八女、隈元の菊池に拠点持つと言うのは自然と思う >>973
Wikipedia知識だと「偽造の可能性も否定できないが、真正と考える方が合理的な状況がかなり多い」みたいよ。 >>46
その「朝鮮半島」の一番文明が最先端な地点だった楽浪郡が今の平壌だから仮にそっからなにか出土したとしても北朝鮮に都合の悪いもんだったら隠蔽されるんだよなあ 九州の邪馬台国を支えた国々はヤマト側についた
ヤマトに鞍替えした時期が違うのが
後世に決められた国造りの任命時期の記録に反映された
九州の野蛮なババア祈祷師の土人を成敗したぜみたいな記録ないかな それ程、九州で卑弥呼に信頼あった訳では無いよ、仕方なく擁立したのだろう、卑弥呼は九州と半島の両方にルーツがあったと思われるから、だから九州とヤマトに中立とされた、後継が豊であるから豊の国大分に拠点あったと思うがね、まあ常識的な観点はサヨクにはなかなか受け入れられないだろうが 呉の国の内戦を逃れた大陸の人間が九州の南端へ漂着
その後、瀬戸内海を渡り畿内へ移住
それが後のヤマト王朝 金印だけど、漢が委任した奴国王へと言う解釈はないの?「漢委奴国王」 >>961で引照した調査では弧文板が、また纏向石塚古墳の周溝から弧文円板が出土している
弧文円板
https://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/makimuku.html
https://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/images/makimuku.jpg
箸墓古墳からは特殊器台(円筒埴輪につながる)も見つかっている。楯築遺跡の弧文帯石や同地域の特殊器台からも、弥生終末期の吉備の葬祭儀礼影響と纏向とのつながりを推定させる
箸墓古墳の造営時期が弥生終末期にかかる時期であったことをよく示している 南九州とは九州山地より南
つまり鹿児島宮崎を指す
成川式土器が出土したのは鹿児島県指宿市(旧山川町)
ブラタモリ最終回で出てたね >>986
ほんとか?
漢が委任した奴国王
漢委奴国王 弥生時代の三種の神器(剣、鏡、勾玉)
が同じ墓からセットで出土した遺跡
年代順 遺跡名 所在地
1. 吉武高木 福岡市西区・・・弥生初期
2. 三雲南小路 福岡県糸島市
3. 井原 福岡県糸島市
4 須玖岡本 福岡県春日市
5 原の辻 長崎県壱岐市
6. 七ケ瀬 佐賀市大和町・・・弥生末期
7. 平原 福岡県糸島市・・・弥生末期
※三種の神器は弥生末期まで北部九州でしか出土していないので
神武東征は弥生末期以降となる。 >>988
三種の神器はすでに奈良にいた神武一族が漢から委託された奴国王から盗んだのでは?
そんな気がする 日継ぎと櫃のダジャレみたいなことを平原1号墓の葬儀でやってたんじゃないかという話は歴史ヒストリアが取り上げていたな
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html 卑弥呼の女王国は北九州の地域にあった というのも対馬にしろ壱岐にしろ伊都にしろせいぜい市や町レベルの大きさの国なわけ ちょうど北九州の地域にはまるのである じゃなくて奈良県にあったとすると国の単位が小さすぎると言えよう あんまいっちゃいけないけど大阪万博にかぶせてきてるな >>991
北九州って普通は北九州市の事言うから、それに文章意味不明だぞ
キミの場合はサヨクの学校で昔習った事鵜呑みにしてるように見えてしまう
福岡の地名とかキミ一切知らんでしょ?九州弁も多分知らない筈 卑弥呼の支配してた国って30ヶ国ぐらいだよな でその国の規模が今で言う市や町のレベルならちょうど北九州の地域で収まるだろ 近畿に首都があるなら国の数が足りなくなると思います >>993
北部九州だよ めんどくせーな
わかってるだろ クニというのが律令の国とかじゃなくて
豪族・部族のテリトリーっぽいんだよな 西暦200年人口推定
陸奥: 2万9000
出羽: 5000
北関東: 3万9000
南関東:6万
北陸: 2万1000
東山: 8万5000
東海: 5万4000
畿内: 3万
畿内周辺: 7万
山陰: 1万8000
山陽: 4万9000
四国: 3万
北九州: 4万1000
南九州: 6万5000
総数60万
鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」2000年
各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
なお、池田の扱っている古墳時代の人骨の多くが5世紀以降のもの。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。